日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

威光山法明寺(豊島区南池袋)

2021-08-01 18:38:38 | 旅行
中老僧 日源上人

このブログでいつも参考にさせていただいている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にもそのお姿が描かれているように、日蓮聖人と同じ時代に生きたお弟子さんです。


僕が最初に日源上人のお名前を目にしたのは、4年前に参拝させていただいた依知の↑妙伝寺、そして



↑蓮生寺でした。
いずれも龍ノ口法難の翌日、星下りの奇瑞があった場所として有名です。


もとは佐渡の守護代・本間重連公の屋敷でしたが、文永9(1272)年の塚原問答後に日蓮聖人から示された預言(自界叛逆難)が的中したことで、本間公は聖人に帰依、自邸を寄進して寺にしたいと願い出たのです。
 
弘安元(1278)年、日蓮聖人の命で日源聖人が依知に遣わされ、開いたお寺が妙伝寺でした。
※蓮生寺では日源上人が「再興初祖」となっていました。



また以前、富士市にある岩本実相寺を参拝させていただいた時にも、日源上人のお名前がありました。
自らの改宗とともに実相寺という天台の大寺を改宗させた、凄いお上人という印象が残っています。

最近、別件で調べ物をしていた際、東京にも日源上人開山のお寺があることを知りました。
コロナの緊急事態宣言が解除された初夏のある日、参拝してきました!


東京は雑司ヶ谷のお寺です。
山手線の内側の中でも、雑司ヶ谷界隈は下町風情が残っています。
都電のユルさが何とも心地よい・・・!


玉垣で囲まれた場所に緑深いお寺

日源上人が開いた、法明寺です。



山門までは結構な距離があります。
参道の左右には桜並木、そしてその奥に、いくつもの塔頭寺院が確認できます。
大寺の予感・・・!



山門です。
どうですか、この緑の深さ。
都心とは思えない佇まいです。



唐破風の曲線が美しい本堂です。
当日は法事が数件あったようなので、ご首題は遠慮し、本堂前でお自我偈を唱えさせていただきました。
(結構蚊に刺されました!夏は虫除け必須ですね。)



山号は威光山です。
何か光にまつわる由緒でもあるのでしょうか。


こちらは安国堂です。
日蓮聖人のご尊像を安置している、いわゆる祖師堂ですね。



背後には高層ビル群。
雑司ヶ谷は池袋のすぐ隣なんですね。


街角に町名案内がありました。

雑司ヶ谷の町名由来には2説あるようで、
①お寺の支配地で、物や税を納める雑司料(料地)だった
②建武の頃、南朝の雑士(朝廷の雑務係)が住んでいた
のだそうです。


昔、雑司ヶ谷には川が流れていたといいます。

池袋西口のど真ん中に、「池袋ゆかりの池」碑があります。
かつてここにあった「丸池」から流れ出したのが弦巻川です。
(残念ながら現在は地下水路になってしまいました)



この弦巻川沿いに広がる谷戸が「雑司ヶ谷」だったのです。
(↑画像は池袋びっくりガードに描かれた「雑司ヶ谷いろはかるた」)


肥沃な谷戸には田畑が広がり、多くの農産物が作られていました。

法明寺からほど近い宗門寺院・本納寺には、「雑司ヶ谷ナス」というご当地野菜が植えられていました。
小ぶりだけど甘く、熱を加えるとトロみが出る特徴だとか。
雑司ヶ谷は昔、豊かな農村地帯だったんですね!


古くから農家の人達が大切にしてきた神様の筆頭格は、お稲荷さんでしょう。
「稲生り」を語源とする説もあるようで、五穀豊穣の神様として雑司ヶ谷界隈では頻繁に目にします。

法明寺の裏手にもお稲荷さんがお祀りされています。

参道はよく清められており、信仰のある方々が護持してくれているのがわかります。


威光稲荷堂です。
法華経でお祀りされているお稲荷さんですね。
雑司ヶ谷の歴史を学びに来ました、いろいろ教えて下さいと、この土地の神様にお願いしました。


縁起を刻んだ石碑がありました。

「西暦八百余年 慈覚大師 當地に行脚途中 武蔵野の地 雑司ヶ谷の森より 一条の光明を見つけて辿り着いた所に 素晴らしい御姿をした稲荷尊神が現れ その光明の強き事から 威光稲荷大明神と銘名し 堂宇を建立し安置したのが始まり也」

慈覚大師とは、のちに比叡山第三代座主となる天台宗の僧・円仁上人だと思います。円仁上人は現在の栃木県の出身ということもあり、関東や東北での事蹟が多く、開いたお寺もべらぼうな数だと聞いたことがあります。
浅草寺や目黒不動尊も円仁上人が開いたんですよね!



一方、法明寺の由緒を見てみると、「当山は嵯峨天皇の代の弘仁元年(西暦810年)、真言宗の旧跡で威光寺として開創されました。 」とあります。
宗旨は真言宗と慈覚大師(天台宗)で異なりますが、威光寺と威光稲荷はもともと表裏一体だったような感じがしますね。



法明寺歴代お上人の御廟を参拝。
法明寺と塔頭寺院の歴代が手厚く供養されています。


歴代の墓誌には、第49世までのお上人が刻まれています。
長きにわたって脈々と法灯を継いで下さったこと、心から感謝いたします。



確かに、開山は日源上人となっていますね!


法明寺の縁起では「正和元年(1312年)、 日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました」とあります。
雑司ヶ谷を訪れた日源上人が威光寺のお上人を教化し、法華経のお寺に改めたのでしょう。


日源上人はもともと智海法印(あるいは播磨法印)と称する天台僧でした。

智海法印は岩本実相寺↑の学頭をしていたと云われます。
鎌倉時代の実相寺は一里(約4km)四方の寺域に49院500坊を抱える大寺、かつ円珍上人が唐から持ち帰った一切経を格護する、大学のような場所でした。学頭は大学でいうと学長ですから、いかに智海法印が優れた人物だったかが想像できます。



日蓮聖人は「立正安国論」を構想するにあたって2年間、岩本実相寺の一切経蔵に入蔵しています。
蔵に籠もり一心にお経を読みふける無名のお坊さんを、智海法印はただものではないと、感じたに違いありません。
日蓮聖人の滞在中、智海法印は聖人に「摩訶止観」についての講義を請いました。そして聴講を契機として聖人に帰依、日源という法名を賜ったと云われています。



一般的には「このあと岩本実相寺全山あげて日蓮聖人、法華経に帰依した」と云われていますし、僕もそうだと思っていました。
しかし最近、「松野殿御返事」という聖人のご遺文を読み、岩本実相寺の改宗が一筋縄ではいかなかった事実を知りました。



松野殿はお祖師様ととてもご縁の深かった方のようで、やり取りしたお手紙も多数残っています。
このうち建治2(1276)年のお手紙には、松野殿を教化した日源上人のことが記されています。
(↑画像は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」[大坊・本行寺で購入])



「実相寺の学徒日源は 日蓮に帰伏して所領を捨て 弟子檀那に放され御坐して 我身だにも置き処なき由承り候に 日蓮を訪ひ衆僧を哀みさせ給ふ事 誠の道心也 聖人也 已に彼人は無双の学生ぞかし」

日源上人は実相寺を全山改宗するどころか、日蓮聖人に帰依した代償として、実相寺を追放されていた事実が読み取れます。
身の置き所もなく、日蓮聖人のもとで修行研鑽に励みながら、機を窺っていたのでしょう。


今回、このブログを書くにあたり、ネット古書店で「日源上人とゆかりの寺院」(日源上人第七百遠忌御恩奉仕会刊)を入手しました。
日源上人の700遠忌を記念して平成26年に、ゆかりのお寺のお上人方が編纂された資料集です。

この中で立正大の中尾英智教授は、「(岩本実相寺)改宗の時期は、弘安2(1279)年、あるいはまた日源上人遷化の後であるとも伝える」と書かれています。

僕の正直な感想としては、
「え?・・・そんなに時間かかったんだ!?」

仮に改宗が弘安2(1279)年だったとしても、日蓮聖人が実相寺の経蔵に入られてから、20年以上経過しているのです。



日蓮聖人をして「無双の学生ぞかし」と言わしめる日源上人ですが、本当に苦労して、実相寺の改宗を成し遂げたんですね!
(↑画像は見開き:岩本実相寺に格護されている肖像画からおこした日源上人。優しそうな外見ですよね!)


日蓮聖人ご入滅後、日源上人は武蔵国で積極的に布教を行います。

碑文谷にあった法服寺(天台宗)は、平安時代に慈覚大師円仁上人が開創した古刹ですが、日源上人の教化によって弘安6(1283)年に改宗、妙光山法華寺となりました。
(↑画像は、碑文谷圓融寺の梵鐘)


その昔、碑文谷法華寺といえば知らない人がいないほどの大寺、池上か碑文谷かというほどの隆盛だったようです。
末寺も多く、のちに江戸で法華信仰が大人気を博したのも、碑文谷法華寺を中心とした町衆の寄与も大きかったと思われます。

残念ながら碑文谷法華寺は、江戸時代に不受不施を貫いたため、天保5(1834)年に幕府の命で天台宗に改宗され↑経王山圓融寺となり、現在に至ります。


ちなみに圓融寺には今でも、日源上人の供養塔があります。

寛永13(1636)年に建てられた塔は、法華時代の歴代供養塔とともに、釈迦堂の近くで清められています。
天台宗、そして圓融寺の、深い理解に感謝致します。


正和4(1315)年9月13日に入寂されたと刻まれています。
あ・・・偶然にも依知で星下りがあった日だ!


随分脱線してしまいました、え~と、法明寺のお話でしたよね、スミマセン・・・!

法明寺は日源上人が開山し、初祖は中老僧の日賢上人です。


日賢上人のお名前は、以前参拝させて戴いた静岡清水の海長寺で目にした記憶があります。
海長寺(当時は海上寺)開山の日位上人から法灯を継がれたのが日賢上人でした。
確かお二人は師弟関係・・・だったような。



日賢上人は法明寺の初祖を務めたのち、海長寺の二世を継がれたのでしょう。
日位上人は法華経に改宗する前、やはり岩本実相寺に仕えるお坊さんだったことを考えると、日源・日位・日賢・・・と続く実相寺ネットワークが、宗門の根っこを静かに支えていたんだな、と思います。
(↑画像は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」[大坊・本行寺で購入]より)


江戸時代になると法明寺は、三代将軍徳川家光から御朱印を授かります。

「御朱印」というのは、幕府の印が捺された朱印状のことで、お寺の領地を保証する証文、と考えて良いと思います。
豊臣秀吉の太閤検地によって寺社の領地は激減していましたが、法明寺は御朱印を受けたおかげで十分な土地が安堵され、経営してゆけるようになったわけですね。



また、江戸幕府は仏教教団を統制するために「本末制度」を導入しましたが、法明寺は先述の碑文谷法華寺の末寺、という位置付けだったようです。
やはり日源上人開山のお寺同士ということで、繋がりが強かったのでしょうね。



関東大震災や戦争などで、法明寺は大打撃を受けてしまいますが、お上人方、お檀家さん、信者さん達の丹精により、現在の山容が整えられました。
今日参拝できるのも、先人達のおかげ。
いつも心に留めています。


そうそう、雑司ヶ谷といえば鬼子母神さんですが・・・

何と、鬼子母神さんは法明寺の境外仏堂なんですって!!
知らなかった~!
鬼子母神堂は来月、レポしたいと思います。
しばしお待ちを!