日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

青龍山本覚寺(静岡市駿河区池田)

2018-03-02 21:07:41 | 旅行
日蓮聖人は38才の時に念仏衆や幕府の反感を買い、伊豆に流されてしまいました。
↑画像は伊東・佛現寺の毘沙門堂跡
日蓮聖人の伊東滞在中の生活はどんなものだったのか興味があるところですが、いろいろなご霊跡を見てゆくと、当時表向き罪人扱いだったとはいえ、援助していた方がチラホラと見えて来ます。


静岡の本覚寺を訪問した時にも、陰ながら応援されていた方がいた事を知りました。
本覚寺には巨大なクスノキがあり、遠くからでもココだよ!とわかります。
樹齢700年以上、全方向に枝を伸ばした美しい樹形です。


時代劇でもできそうな長~い白壁!
瓦も全て宗紋が付いてます。


山門です。
この画像を見る限り、本当に時代劇を撮れそうです!


傍らの題目法塔は、ここ池田村の若者達が寄進したもののようです。


山号は「青龍山」です。


日蓮聖人の思想の根幹をなす、立正安国論が大きな碑に刻まれていました。


突き当たりに見えるのが本堂です。
参道は杉の大木に囲まれ、空気が変わります。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


お祖師様がお若い頃ですね!お寺の説明には清澄・旭ケ森で立教開宗の唱題をされたときのお姿、と書かれていました。


本覚寺は日持上人のお弟子さん・日位上人の開山です。
この日位上人のお祖母様である妙位日禅尼は、宗門ではよく知られた方なのだそうです。
(僕は今まで知りませんでした・・・)


本覚寺境内に、妙位日禅尼の墓所がありました。
本当に古い墓石だと思われます。小さくて角のない、やさしいおばあちゃんのような墓石です。
妙位日禅尼は、御遺文にもよく出てくる上野殿(南条氏)の家系で、かなり早い頃から日蓮聖人の教えに帰依していた古参の信徒です。


日蓮聖人が伊豆に流された時にも、当時5才だった日位上人を連れて伊東を訪れていたようです。
四面楚歌の日蓮聖人にとって、どんなに心強かったことでしょう。


妙位日禅尼は日蓮聖人が身延山に入られてからも、しばしば米とか瓜や茄子などの野菜を持って、登詣したようです。
お祖師様は日禅尼の供養へのお礼として、盂蘭盆御書とお曼荼羅を授けました。
妙行日課にも盂蘭盆御書の一節が載っているので、馴染みがあります。


お曼荼羅は「十界曼荼羅己心本覚本尊」というもので、寺名はこちらから来ているようです。


本覚寺の守護神・金比羅明王をお祀りするお堂です。
海の近くのお寺だけあって、海上安全の霊験もあるそうですよ!


本仏堂です。
近くの海中から出現したお釈迦様のご尊像がお祀りされているようです。
南北朝時代のお堂だって!
手を加えながら、古いものをきちんと残しているさまが見て取れます。


この鐘楼といい、境内の建物はおおよそ黒と朱色に統一されています。
センスの良さを感じます。



お?葵の御紋だ!
養珠院お萬様は本覚寺も支援していたようです。女性の活躍が目立ちますね!!


日蓮聖人がご入滅してから6年後、つまり七回忌が済んだあと、それまで身延山の輪番に勤しんでいた日位上人は、富士川沿いの岩淵という所に自分の庵を作りました。

岩淵は日持上人の出身地・松野のほど近くにあります。いずれも實相寺のある岩本の富士川対岸です。
古くから宗門と縁の深い土地なんですね。


日位上人は51才の時、有度山(山頂は「日本平」として有名)の西麓・池田村の土地を譲り受け、本覚寺を開山しました。
以来、法華経信仰の拠点として、ここ静岡の宗門を支え続けてきました。
のちに身延山法主様となられた杉田日布上人は、明治から大正に渡って本覚寺の住職を務められました。
杉田上人は石橋湛山氏(第55代首相、立正大学学長)のお父さんとしても有名な方です。




ご首題を書いて頂いている間、奥様がお茶を入れて下さいました。
冷えた身体に滲みました~


これ、檀家さんが種を取ったあとの蓮の花に布を詰めて作ったらしいです。
茶色に枯れちゃった花も、手を加えることでまた我々の目を楽しませてくれるんですね!!

開創700年以上の古刹をキレイに護持してくれている本覚寺の皆さんに感謝です!!
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