東村山市の一角に、ひときわ緑深い場所があります。
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国立療養所多摩全生園です。
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こちらに国立ハンセン病資料館という施設があり、数年前、見学の機会に恵まれました。
今回はその日、僕が見学して感じたことを、綴りたいと思います。
そもそも、僕がこの施設を見学したいと思ったきっかけ・・・それは綱脇龍妙上人の伝記を読んだことに始まります。
綱脇上人がどんな時代を生きて、なにと闘い続けたのか、ハンセン病をいろんな側面から見て、少しでも理解したいと思ったのです。
身延山久遠寺、日蓮聖人の御廟所入口。
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この橋は、戦後、大相撲の黄金期を築いた大横綱・柏戸とその師匠が施主として、樋沢川に架けられた竜潜橋です。
竜潜橋の下で身延川に合流します。
その川向こうには現在、障害者支援施設が営まれています。
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かつてここに、「身延深敬園」という、法華経の教えを見事に実践した、民間のハンセン病療養所がありました。
ハンセン病は、らい菌が神経や皮膚を侵す、慢性の感染症です。
古くは「らい病」と呼ばれていましたが、今から150年ほど前にノルウェーのハンセン医師が病気の原因菌を発見したことから、「ハンセン病」と呼ばれるようになりました。
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(↑アルマウェル・ハンセン医師:国立ハンセン病資料館常設展示図録より)
らい菌の感染力は非常に弱く、また人体に有害な外毒素を持ちません。
一方、病気が進行すると身体の変形や障害に至ることがあり、忌み嫌われてきた歴史があります。
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(↑プロミンのアンプル:国立ハンセン病資料館常設展示図録より)
長く決定的な治療法がなく不治の病といわれてきましたが、1941年にアメリカで特効薬プロミンが開発され、日本でも使われるようになり、ハンセン病は完治、あるいは進行を止めることができる病となりました。
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しかしまだ科学的根拠がなかった時代、「この病気は遺伝だ、血統だ」と信じ込まれていたそうです。その結果、不幸にもこの病気に侵された者が出ると、家や一族の不名誉だということで、人目に付かない場所に隠されたり、縁を切られ旅に出されるケースも多かったといいます。
国立ハンセン病資料館前には、母娘遍路像があります。
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「ハンセン病回復者の中には、入院前に四国遍路を経験した人が少なくありません。病気を知られず、迫害から家族を守るためには、遍路にならざるをえなかったからです。」との説明が添えられていました。
これは数十年前まで実際に我が国にあった、悲しい歴史です。
一方、「この病気は感染症である」とわかると、今度は国を挙げて患者さんの隔離を強化します。病気根絶の「名のもとに」、患者さんを全国の国立療養所に強制入所させ、高い塀を設けて外部と断絶させたのです。
(「名のもとに」を強調したのは、当時の国の隔離政策、実は国家の体面を保ちたいというところに、本質があったと思えるからです。)
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療養所の所長には懲戒検束権が与えられ、反抗する者、脱走する者には厳しい罰が科されるなど、長きにわたって患者さんの意志や人権が無視され続けました。これは太平洋戦争が終わるまで、続いたといいます。
かつて多摩全生園の周囲には、高さ3mのヒイラギの垣根が張り巡らされ、外の世界と遮断していました。
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今もその子孫なのでしょう、園の外周ではヒイラギをよく見かけます。
また、逃走防止目的で深い空堀が設けられていました。入園者さん達がその作業をさせられたそうです。
どんなに悲しかったことでしょう。
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(↑全生園内・望郷台)
入園者さん達は空堀から出た土を盛って築山し、その丘の上から故郷を想ったといいます。
さて、綱脇龍妙上人が身延深敬園を始めるまでの経緯については、尾谷卓一編著「綱脇龍妙上人」(ニチレン出版)に、綱脇上人ご本人のお話が沢山収載されていました。
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綱脇龍妙上人は明治9(1876)年、福岡県の農家の次男として生まれました。
若い頃に結核を患いましたが回復し、福岡法性寺の貫名日良上人のもとで出家得度します。
師匠の転住に従い、福井県の妙泰寺に移って修行を積むうちに、法華経の常不軽菩薩品こそが本当の宗教だと気付き、その一節「我深敬汝等」を生涯の指針とします。
日蓮聖人もご遺文の中で、常不軽菩薩品を特に重視していたようです。
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(↑身延深敬園への出入口だった深敬園橋)
「どんな人であっても、仏になることができるのだから、私はあなたを深く敬います」のような意味だと思います。
これが「深敬園」の名前の由来にもなります。
明治39(1906)年、30才となった綱脇上人は、初めて身延山を参拝した折、思いがけず身延川の河原で目にした沢山のハンセン病患者の姿に驚き、彼らを救いたい、救おうと決意します。
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(↑御廟入口から身延川を望む)
時の身延山法主である豊永日良上人の賛助も得て仮病室を設け、最初13人の男女を受け入れたのが、身延深敬園のルーツとなります。
国立ハンセン病資料館には、ハンセン病の歴史についての展示があり、目からウロコの話ばかりでした。
古くは奈良時代に書かれた日本書紀に、既に「白癩」という記載があり、当時からハンセン病の患者さんが存在していたことがわかります。
その後仏教の広がりとともに、この病を「仏罰」と捉えるようになってゆきます。
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特に法華経の普賢菩薩勧発品第二十八の中で、前世において法華経を誹ることがあった者は、現世で「白癩」を患うとされる部分があり、これが逆説的に解釈されて、日蓮宗の大きなお寺に、行き所のない患者さんが身を寄せたということです。
綱脇上人が身延山で目にした患者さん達も、そうだったのかもしれません。
ハンセン病療養所を設立、といっても綱脇上人にはお金も知識も技術もない、まさに徒手空拳で奮闘したようです。
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(↑対岸から見える深敬園の古い築堤)
ハンセン病が世間からの差別や迫害を受け、国策で隔離が徹底されていった時代です。綱脇家にも偏見の目が容赦なく浴びせられ、スタッフもなかなか集まりませんでした。
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(↑御殿場・復生記念館)
当時、ハンセン病療養所は神山復生病院(御殿場)や慰廃園(目黒)など民間の数施設しかありませんでした。
それらはキリスト教の組織により運営され、シスター達が患者さんのお世話をしていました。それはそれは、大変なことだったでしょう。
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(↑対岸から見える身延深敬園の古い建物)
一方、身延深敬園は、綱脇上人のご一家が園の中に住み、お金の工面から実際の運営まで、家族総出で切り盛りし、それでやっと回していた時期が長かったようです。
本当に、本当に頭が下がります。
国や宗門にも援助を期待できない、そうなると自ずとこぢんまりとした規模の、人間味のある園になってゆきました。
強制隔離や監視などとは無縁の、それより明日の食べ物、どうする?というような雰囲気だったようです。
スタッフと入園者が、時に本気で喧嘩をし、時に涙を流しながら、慈しみのある園を創り上げてゆきました。
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その頃の園の様子は、加藤尚子著「山の中の小さな園にて」(医療文化社)に、長女の美智さんが語る形でリアルに描かれています。
昭和15(1940)年、綱脇上人は横須賀の大明寺住職としての任に就くことになります。やはり本職は日蓮宗の僧正なのです。
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(↑大明寺本堂)
金谷山大明寺は、立教開宗後の日蓮聖人が横須賀に開かれた御浦法華堂(今の龍本寺)が、のちに信仰の拠点としては手狭になったため、お寺としての機能の一部を補う目的で創建された、ご霊跡のお寺、結構な大寺です。
身延と横須賀です。そうそう行き来できるわけもなく、妻のサダさんと娘の美智さんで、戦中戦後の時代を入園者さんと生き抜きました。
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(↑深敬園脇を流れる身延川)
そうして時は流れ、ハンセン病を取り巻く環境も変化してゆく中、深敬園は歴史も経験も積んだ療養所として、他の施設からも頼りにされる存在となってゆきました。
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ここ多摩全生園は身延からいちばん近い国立療養所であり、深敬園、綱脇上人との関係が特に深かったようです。
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多摩全生園に、宗教通りと呼ばれる一画があります。
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キリスト教、浄土真宗、真言宗、日蓮正宗・・・入園者さん達の信仰ごとに、創られていった施設なのでしょうね。
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ここに日蓮宗の会堂もあります。
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カトリック教会の真向かいというのも、ここならではですね!
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(↑旧礼拝堂:「全生病院」を歩く・国立ハンセン病資料館刊より)
明治42(1909)年、多摩全生園開設と同時に、綱脇上人はここに唱行会を結成します。もともと法華信仰があった方のみならず、絶望の淵にある人々の心の拠り所になればと、信仰の種を植えたのでしょう。
これは大正15(1926)年まで使われた旧礼拝堂内の画像です。
(各宗教の信仰施設が整備されていったのは戦後のことで、それまでは皆さん共同の礼拝堂でお祈りしたそうです。)
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(明治42~3年頃の旧礼拝堂:「全生病院」を歩く・国立ハンセン病資料館刊より)
正面には祭壇が3つ設けられており、正面が天照皇大神宮、左に阿弥陀如来像、そして右(火灯窓風の)に、日蓮聖人坐像が安置されていたそうです。
この配置に、綱脇上人の熱意が感じられるのは、僕だけでしょうか。
また、毎年秋になると、園内でお会式が催されていました。
信仰にかかわらず全員が参加するお祭りとして、みんな心躍らせてお会式の日を待ちわびたといいます。
日蓮聖人がとても身近な存在だったのですね!
それから半世紀が経ち、深敬園の経営も軌道に乗った頃、綱脇上人は全国5ヶ所の国立療養所内に日蓮宗の会堂を建てようと奔走します。
大明寺の住職を務めながら全国を走り回って寄附を募り、ついに念願を果たします。
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多摩全生園の日蓮宗会堂は昭和32(1957)年に建てられました。このとき綱脇上人、すでに80才を越えています。
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会堂前には建立5年を記念した、綱脇上人頌徳碑
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そして建立10年を記念した、大きな題目碑があります。
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今もこの会堂には、綱脇龍妙上人の魂が息づいています。
何も悪いことをしていないのに、病気のせいで迫害を受け、故郷を追われ、行くところがなく辿り着いた国立療養所。
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周囲から隔絶された世界、人権は軽視された生活、でも逃げ場がなかった。
たとえ病気が治ってもハンセン病という烙印は重く、世間に戻るにはハードルが高すぎる・・・。
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そんな人々が、どんな気持ちで、この会堂でお題目をあげてきたのか・・・想像したら胸がいっぱいになりました。
国立ハンセン病資料館に、綱脇龍妙上人を紹介する展示がありました。
館内は写真撮影禁止なので画像はありませんが、身延深敬園において人間礼拝の精神で救済を実践した僧侶であり、また患者さんが心の平穏を保つためには信仰が大切だということを、多摩全生園の所長に助言した人としても、紹介されていました。
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そして・・・展示品として綱脇上人の法衣がそこにありました。
綱脇上人、僕は写真でしか拝見したことはありませんでしたが、ガラスケースの向こうに置かれた法衣を目の前にし、ご本人に対面できたような気持ちでした。
上人の偉業に感謝し、敬意を込めて、合掌しました。
(展示は時々変わるようで、法衣の展示は現在ないようです)
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(↑身延山御廟域の蓮)
綱脇龍妙上人は昭和45(1970)年、95才をもって化を遷されました。
法号は深敬院日琢上人、ハンセン病救済に捧げた生涯でした。
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医療の進歩とともに身延深敬園の入園者さんも減ってゆき、同時に国立療養所の方でも余裕ができたことから、全ての入園者さんに全国の国立療養所に移ってもらい、平成4(1992)年に身延深敬園は幕を閉じました。
園名に違わず、「我深敬汝等」を体現した86年間でした。
綱脇龍妙上人の墓所は、身延深敬園跡地の奥の方にあるようで、現在は障害者支援施設のため、我々一般の人がお参りすることはできません。
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(↑対岸から深敬園奥の納骨堂辺りを望む)
なので僕はいつも日蓮聖人の御廟に向かう参道の途中で立ち止まり、川向こうに向かって合掌するようにしています。
一人でも多くの方に、綱脇龍妙上人のこと、そして世界で唯一の仏教者によるハンセン病療養所であった身延深敬園のことを知ってほしい、その偉業を風化させてはならないと、強く思います。
現在も多摩全生園には、病気は完治しても後遺症が残っている方、すでにここが自分の故郷になっている方などが、静かに暮らしています。
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会堂では今でも、定期的に唱行会が営まれているようです。
綱脇上人のお弟子さん達の、そして多摩全生園で暮らす方々の、穏やかな生活を祈念してやみません。
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(↑多摩全生園・旧山吹舎前の石畳)
誤った国策の元となっていた「らい予防法」が廃止されたのが26年前、元患者さん達が起こした国家賠償訴訟で原告が全面勝訴したのが21年前、そして家族訴訟について、当時の安倍首相が国の控訴見送りを表明したのが、たった3年前のことです。
ハンセン病問題が昔の話では全くないことを、胸に刻んでおこうと思います。
実は多摩全生園、そして国立ハンセン病資料館で見たものを、当初このブログに書くことにためらいがあり、そうして数年が過ぎてしまいました。
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しかし先日、BS日テレで樹木希林さんの遺作「あん」(ドリアン助川原作・河瀬直美監督:2015年)を偶然観る機会があり、何か妙な衝動に駆られ、一気に綴らせていただきました。
気付かない部分で表現の誤りなどあるかもしれませんが、ご容赦ください。