日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

大悲山笠森寺(長南町笠森)

2020-01-04 13:07:20 | 旅行
建長5(1253)年4月28日の明け方、清澄山上・旭が森に立った日蓮聖人は、昇る朝日に向かって初めてお題目を唱えられました。
引き続いておこなった持仏堂でのお説法では、念仏衆の教えを激しく批判したため、地頭の東条景信の激怒をかい、日蓮聖人は清澄山を追われてしまいました。


このあと日蓮聖人は法華経を布教するため、当時の政治の中心地である鎌倉に向かわれた・・・と、御一代記などでは語られています。


しかし実は鎌倉へ向かわれる前に、笠森観音という場所にお泊まりになった、という伝えもあるそうです。
笠森観音は房総半島のちょうど真ん中あたり、長南町という所にあります。


周辺は適度に人の手が入った里山になっているようです。


っっとぉ!
のっけからジャブを食らった感じです。


木々に囲まれた参道。とても気持ちよい散策ができます。


幹が3つに分かれた三本杉や

空洞をくぐるとご利益がありそうな子授けのクスノキなど、巨木、霊木が目白押しで飽きることがありません。


やがて山門が現れます。
笠森観音は天台宗のお寺で、正式には大悲山笠森寺というそうです。


山門には仁王様が鎮座しているのですが、それとは別に、こんな木像もお祀りされていました。
その風貌から、真っ先に連想したのは役行者です。
そういえば以前、七面山のお堂にお祀りされているお像を拝観させていただいたことがありますが、やはりこんな風にカッと目を見開き、特徴的な帽子を被っていました。
笠森観音は七面山や清澄山と同様、古くから修験者たちの霊場であったのかもしれません。


正面に大きなやぐら組みのお堂が見えて来ました!
観音堂です。
奈良時代に伝教大師最澄上人が楠(クスノキ)から十一面観音像を刻み、山上に安置したというのが、現在の笠森観音のルーツだそうです。
のちに後一条天皇の勅願により、このお堂が建立されたようです。


特徴的な木造の基礎部分は「懸造り(かけづくり)」というそうです。
急峻な岩場に建物を造る際に、基礎の柱の長さを地形に合わせて組んで床の高さを揃える、日本独特の建築法だといいます。
笠森寺の観音堂は、巨岩の上に建てられた、日本唯一の四方懸造りです。


懸造りのお堂としては、鳥取県の三佛寺投入堂が有名ですが、確かあちらも修験者の行場だったはず。
修験の行場は山中の険しい場所が多いですが、そんなところに神仏をお祀りするとなると、結果的に懸造りが採用されたのでしょう。


お堂の内部は拝観できます。(要拝観料)


回廊からの眺めは最高です。
四方懸造りなので、房総半島の山並みを360度楽しめます。


笠森寺の縁起によると、建長5(1253)年に日蓮聖人がこの観音堂に参籠されたということです。
恐らく清澄山を追われたのち、鎌倉に向かわれるまでの一期間、観音堂で法華経布教の祈願をされたのだと思います。


堂内の撮影は控えたので内部の画像はありませんが、ちょうどこの一角に「日蓮上人参籠ノ間」があります。
立教開宗直後の参籠の他にも、文永元(1264)年の小松原法難直後に三七日(21日間かな?)、文永4(1267)年にお母様(梅菊さん)が亡くなられた際に7日間、参籠されていた伝えもあるようです。
いずれにせよ、笠森寺観音堂は清澄寺と同じ天台宗寺院だし、日蓮聖人が若い頃から頻繁に立ち寄る、馴染みのお堂だったのかもしれませんね。


一方、笠森寺からほど近い茂原(昔は藻原といったそうです)の有力者だった斎藤兼綱公と高橋五郎時忠公は、夢のお告げに従って訪れた笠森寺観音堂で日蓮聖人の教化を受け、帰依しました。


二人は、このブログの参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。


斎藤兼綱公は早速、藻原の自邸に法華堂を建立し、これが現在の藻原寺の礎になったそうです。
藻原寺については後日、レポしたいと思います!


ところで話は少し脱線しますが、昔は地名を名字代わりにしたり、その漢字も当て字だったり、また成長により改名したりで、お寺の歴史や由緒を読んでいても「誰のことを言ってるんだろう?」と、つながらないことが多いです。
特に高橋五郎時忠公は「高橋五郎時光」「須田五郎時光」「墨田五郎時光」など、いろんな表記があるようで、先ほどの御涅槃拝図では「隅田時光入道」と書かれています。
肩書きは「武州新曽」・・・ん?
あれ?この人のお寺、前に訪問してる!!


日蓮聖人が佐渡に向かわれる際にお泊りになったといわれる埼玉・戸田の新曽を僕が訪れたのは、一昨年の春でした。

戸田市新曽の妙顕寺と、

和光市新倉の妙典寺は、いずれも佐渡配流当時に当地の地頭をしていた隅田五郎時光公が開基となって建立されたお寺でした。

この界隈で笠森観音以来の再会を果たし、その時に奥様の難産をお祖師様が救ってくれたんですよね!
その後、無事生まれた子供と隅田五郎時光公自身も出家して、生涯宗門を支え続けたのです。


う~、笠森観音が佐渡への道にリンクしてくるなんて思わなかった!
ご霊跡巡りの醍醐味ですね~!!


それにしてもこの観音堂、1000年前に建てられたとは思えないほど緻密な造りですね~。


きちんとした方法さえあれば、敷地の起伏とか凸凹など大きな問題でない、と教えてくれているようです。
この生きにくい時代、いろいろ学ぶことの多い笠森観音です!