日蓮聖人法難の霊場 龍口寺
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龍口寺は自宅から車で30分ほど、最も近い本山ということもあり、ちょいちょい、お参りさせていただいてます。
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龍口寺の入り口、仁王門の左側に、青地に金の題目碑があります。
ここが龍ノ口の刑場跡であった史実を伝承する一角になっています。
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今回は、ここに刑場が置かれる由来となった神様、そしてお祀りするお社を紹介したいと思います。
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湘南モノレールと並行しながら尾根筋を走る県道を、東に行きます。
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モノレールの西鎌倉駅付近で脇道に入ると・・・
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閑静な住宅街の中にありました。
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龍口明神社です。
立派な石鳥居ですね。
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読み方は「りゅうこうみょう神社」ですね!
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まずは龍神様のお水で清めて
本殿を参拝。
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御祭神は玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)です。
神武天皇のお母様にあたる方として知られています。
海神(わたつみ)族の娘で、龍神達を束ねる存在だそうです。
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お祖師様、そして龍口寺に、とてもご縁の深い神様です。
また玉依姫命は潮の干満を司っているとも云われ、僕らサーファーとも関わりが深いです。
こうして参拝できたことを感謝しました。
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ご神木は・・・葉っぱの形からすると、タブ、かな?シイにも似てるけど。
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龍口明神社の由緒を刻んだ石碑がありました。
6世紀以前から続く、壮大な物語がベースになっているようです。
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今から1500年も昔、腰越津村の北に位置する深沢↑には大きな沼があり、そこに頭が5つある龍(五頭龍)が住んでいました。
それまで五頭龍は腰越津村に水害を起こしたり、村の子供を食べたりと、暴虐の限りを尽くしていました。
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そんな時、この地で大地震が続発し、地殻変動で江ノ島↑ができたと云われています。
同時に、島にとても美しい弁財天が降臨しました。
腰越津村の目の前、江ノ島に降臨した弁財天の美貌に、五頭龍はメロメロ!結婚したいと申し出ました。
しかし五頭龍はこれまでの悪行を弁財天に諫められてしまい、改心しました。
その日から五頭龍は水害や津波から村人を守り、日照りが続くと雨を降らせるなど善行を積み、村人から感謝される存在になりました。
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やがて五頭龍は弁財天に認められて結婚しました。
自分の使命を終えた五頭龍は、山となったのです。
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これは辻堂から東の方角を撮った景色ですが、奥の丘、確かに龍が横たわっているような地形ですね!
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欽明13(552)年、村人達は龍の口に当たる部分にお社を建て、「白髭(しらひげ)明神」と称したそうです。
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「白髭神社」と称するお社は日本全国にありますが、古来、水害に悩まされてきた地域に多いようですね。
腰越津村も境川や海岸に近いため、水辺の神様として崇めていたのでしょう。
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養老7(723)年、江ノ島岩屋で修行中の修験僧・泰澄上人が神像を刻し、弁財天像を江島明神、五頭龍大神像を白髭明神のお社へ、それぞれ納めました。
この時、「龍口明神社」と名付けられたようです。
泰澄上人はある時、龍口明神からお告げを受けました。
(↓龍ノ口刑場跡の掲示板より)
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「国に背く悪人が出来した時は 首を斬り社頭に掛けよ」
この神託により、龍ノ口に刑場ができたと伝えられています。
※神託を受けたのは鎌倉時代の真言僧・文覚上人だったという説もあるようです。
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確かに龍口明神社は昭和の時代まで、刑場跡のすぐ隣に鎮座していました。
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現在でも古いお社が、そのまま残されています。
※立入り禁止です。
これは日蓮聖人が死刑執行までの間、留め置かれた「ご霊窟」を写した画像ですが、画像左奥にあるのが龍口明神の旧社です。
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ホントにすぐ隣、それこそ神仏分離前は龍口寺と一体だったのだろうと想像できます。
旧社の参道には大きな石碑が残っています。
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大正13(1923)年の関東大震災で全壊したお社を、多くの人々の協力で復興できた事に対する、当時の神奈川県知事からの感謝の意が刻まれています。
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未曾有の大震災、この界隈の人々も明日食べてゆけるか、という状態だったはずです。
それでもわずかずつのお金をひねり出して、お社を再建しようと努めた当時の人々の気概、信仰に、心を打たれます。
戦後、日本の復興とともに片瀬界隈も都市化が進み、交通量も増えるに従って、祭事や神輿渡御が難しくなってゆきました。
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また、「龍ノ口の刑場跡」ということで、祟りを恐れる声もあったようです。
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果たして昭和53(1978)年、現在の境内地に遷宮しました。
ちょうど龍の「胴」に当たる場所らしいです。
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そう考えると、龍ノ口から深沢の尾根筋を走る湘南モノレールは、巨大な龍の背骨みたいですよね!
ところで龍口明神社新宮の西隣、道路を挟んだところに、緑豊かな一角があるのが気になりました。
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行ってみると、お稲荷さんでした!
龍口明神とご縁の深い、摂社だと思われます。
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「経六稲荷」です。
・・・ん?何となく聞き覚えのある名前・・・
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あ、龍口寺本堂のすぐ脇に祀られているお稲荷さんが、「経六」ならぬ「経八」稲荷でした!
関係ありそう!
龍口寺HPによると、龍口寺の大檀越・島村家には「地元の八体の守護神」が安置されていたようです。
このうち一体は龍口寺の経八稲荷神、一体は龍口明神社の経六稲荷神ということです。
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その名前、そして八体ということから、八巻のお経、つまり「法華経でお祀りされるお稲荷さん」ではないかと、僕は勝手に想像しています。
ちなみに島村家先祖代々のお墓は、龍口寺・経八稲荷社の隣にあります。
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龍口寺は日蓮聖人の直弟子・日法上人が龍口法難の霊跡を後世に伝えるため、延元二(1337)年に一堂を建立、自作の日蓮聖人像と、首の座の敷皮石を安置したのが始まりですが、もともとは慎ましいご霊跡だったと思われます。
しかし慶長6年(1601)に地元の篤信者であった島村采女が、広大な土地を寄進してくれたことで、現在の山容が整ったと云われています。
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龍ノ口法難の翌日に、島村采女の先祖の方が日蓮聖人に助けていただいた、なんて逸話もこの地にあるようです。
いつか詳しく調べてみたいものです。
9月12日は、第751回目の龍ノ口法難会でした。
今年も深夜12時の法要に参加させていただきました。
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昨年同様、規模を大幅に縮小し、法要は粛々と修められました。
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真夜中の法要はリアルです。
合掌し、目を閉じると、法難時の緊張感が時空を越えて、蘇ってくるようです。
1271(文永8)年9月12日夜、『立正安国論』の献上・諌暁を理由に幕府に捕らえられた日蓮聖人は、龍ノ口の刑場に連行されてしまいます。
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そして日付が13日に変わった頃、いよいよ首の座にすえられ、処刑を待つばかりとなりました。
今まさに太刀が振り下ろされようとした瞬間、
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(↑画像は龍口寺五重塔の彫刻)
「江ノ島のかたより月のごとくひかりたる物 まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる」(種々御振舞御書より)
突然の奇瑞により、役人たちは目がくらみ怖じ気づき、処刑は中止となりました。
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(↑画像は龍口寺七面堂前の石像)
そもそも龍ノ口刑場の起源となった龍口明神の神託は
「国に背く悪人が出来した時は 首を斬り社頭に掛けよ」
というものでした。これは、
「国に背く悪人がいたら、俺の口元に連れてこい。俺が喰ってやる」
という意味だったのでしょう。
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幕府の役人達は日蓮聖人を「悪人」として引っ捕らえ、龍の口元に連れてきたのです。
それでも処刑ができなかったのは、
「この人は悪人なんかじゃない、国のために生かすべきだ。俺はこの人を喰わない」
と、龍口明神が至極まっとうな判断を下したからだと、僕は考えます。
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また、光り物が「江ノ島のかたより」飛んできたのは、弁財天のご加護もあったと思わざるを得ません。
今回、龍口寺の隣にあったお社について調べましたが、なかなか意義深い時間でした。
「龍ノ口の法難」という大事件を、龍口明神のフィルターを通してみることで、従来とはまた違った捉え方ができるのだな、と感じました。
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日蓮聖人のご霊跡めぐりは、決して宗門寺院に限るべきではないですね。
少し視野を広げることで、遠い昔の話がストンと心に落ちる、そんな経験ができるかもしれません!
最後に・・・龍口明神社について調べものをしている時に、ふと妄想したことを一つ(読み飛ばして下さい)。
五頭龍が棲んでいたという湖は、実はかなり広くて、今の深沢から戸塚あたりまで及んでいたという説があります。つまり片瀬龍ノ口に河口のある境川流域が、水で満たされていたということです。
実際、明治くらいまではあの辺り、湿地が多かったそうですよ。
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境川の上流は柏尾川、そして名瀬川↑となります。
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「名瀬」といえば六老僧の日昭上人のご霊跡、妙法寺↑がある地ですが、つい最近、別の事で大ニュースになりましたよね。
そう、大蛇(ニシキヘビ)が逃げ出し、行方不明になった事件です!
なかなか見つからなかったのは、あの辺りが五頭龍の聖地だったからかな?・・・なんて、妄想を楽しみました。
ま、オカルトですが。