日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

無漏山真如寺(能勢町地黄)

2020-07-08 16:49:41 | 旅行
今年の七夕はあいにくの雨で、星は見えませんでしたね・・・。
そういえば随分前に星信仰の聖地、といわれる大阪府能勢町を訪問していたな~、と思い出しました。
まだブログに書いていなかったのでご紹介します!

能勢は大阪府の北西の端、京都府にも兵庫県にも近い場所です。
空気もキレイなので、夜は星を拝めそうな環境です。



小川沿いの細道を上って行きます。
このあたりは昔、薬草の産地だったそうで、その薬草名に因んで「地黄」という地名になっています。


山門の下まで来ました!
「関西身延霊場」と刻まれていますね。
日蓮宗管長をされた池上本門寺80世・金子日威上人の揮毫だそうです。



山門です。
そう古くはない山門でしょうが、背景にうまく溶け込んでいます。


真如寺です。
山号は無漏山(むろさん)です。
法華経の分別功徳品第十七に「得無漏無為」って出てきますが、そこが由来かな?(スミマセン、意味はわかりません)



山の南面に境内があるため、平坦な所は少ないです。
斜面のところどころに、お堂が点在しています。


本堂です。
江戸中期の建築らしいのですが、よく手入れがなされており、古さを感じさせません。



境内に堂々と鳥居が設けられています。
七面大明神をお祀りしたお堂の結界です。
神仏が習合していた時代は、こうやってごく自然に融合していたんだな、と感じさせてくれる風景です。



七面大明神堂です。



実は真如寺の二祖は、あの養珠院お萬様が深く帰依した日遠上人だそうです。
真如寺の七面大明神は、日遠上人が身延の七面山から分祀したのが始まりで、地元では真如寺が別名「七面山」と呼ばれているほどだそうです。


ここに至る参道にも、多くの法華経の守護神がお祀りされていました。
こちらのお堂は幕に柘榴が染め抜かれています。
鬼子母神堂でしょう。


ん?ここは?

扁額には常富大菩薩と書かれていました。
初めて耳にする神様です。
この地で信仰されてきた独特の守り神だと思われます。


こちらの幕には、三つ巴紋が染め抜かれています。


金高龍王堂です。
商売の神様のようです。


境内には日朝上人堂もあります。
身延山久遠寺とのご縁が深そうな雰囲気がありますね。


戦国時代、ここ北摂地方を治めていた能勢氏は、明智光秀との信頼関係はありながら、織田信長とは距離を置くという、なかなか微妙な立場だったようです。
そこに本能寺の変が勃発し、親光秀派ということで豊臣秀吉から攻撃を受け、能勢頼次公は血縁者の暮らす備前に落ちのびました。



備前は知る人ぞ知る、法華信仰の篤い土地でした。
日像上人のお弟子さんの大覚大僧正が苦労して開いたお寺が数多くあり、能勢頼次公はこのうち妙勝寺に身を寄せました。
備前法華のまっただ中で生活するうちに、頼次公にも信仰が芽生えたと思われます。



頼次公が備前にいる間に秀吉が亡くなり、勢力図が更に混沌とする中、ひょんなことから頼次公は徳川家康公に召し上げられました。
関ヶ原の戦いには東軍として参戦、結果として旧領を安堵されたといいます。


再び能勢に戻ってくることができたのは、法華経を信仰したおかげだと、頼次公は思ったことでしょう。
真如寺の縁起によると、慶長5(1600)年秋、頼次公は当時京都本満寺の貫首様だった日乾上人を招き、自領の広大な土地を寄進したそうです。
ところでどういうツテがあって頼次公は日乾上人にお願いしたんだろう?備前法華のネットワークかな?

↓画像は真如寺境内に建つ日乾上人の供養塔です。
日乾上人はのちに身延山21世を継がれ、退任後は再び能勢に戻って、ここに真如寺を建立しました。
江戸初期の宗門を支えた身延中興の三師、といえば重・乾・遠(身延山20世日重、21世日乾、22世日遠)というくらい、日乾上人は有名な方です。



一昨年に京都本満寺↑も参拝しましたが、このとき重・乾・遠の三師が本満寺の12、13、14世でもあったと知り、驚いた記憶があります。
傑僧を生むお寺なんですね!


ちなみに本満寺境内にも七面大明神のお堂↓がありました。
本満寺14世でもある日遠上人は、七面山で千日の修行をされ、七面大明神を感得したのだそうです。
お萬様が命懸けで七面山に登詣したのも、真如寺に七面山があるのも、全てつながっているんですね・・・。



話を戻しましょう。
能勢氏は古くから「鎮宅霊符神」という神様を、一族の守り神としてお祀りしてきたそうです。道教の世界でいう一種の星信仰らしいのですが、日乾上人はこれを仏教の世界観で置き換え、「妙見大菩薩」として改めてお祀りすることにしました。



日乾上人自らが彫りだした妙見様のお像を、近くの為楽山の頂にお祀りしたのが、能勢の妙見山↑のルーツです。
なので能勢妙見山は、今でも「真如寺の境外仏堂」という位置付けです。
後日、レポしますね!


そういえば先述の京都本満寺にも↑妙見宮があり、ここにお祀りされている妙見様のお像は、能勢妙見山のお像と一木二体ということです。


さらには以前参詣した岐阜県養老の妙見山
もともとこちらに安置されている丈六仏を拝みたくて行ったのですが、今回ブログを書くにあたって、養老妙見堂の縁起を改めて見返してビックリ!



養老の妙見山は江戸時代、日乾上人が祈雨したご霊跡だったんですね。
日遠上人が七面様への信仰が篤かったように、日乾上人は妙見様への信仰が特に強かった方だとわかります。
のちに身延山78世吉川日鑑上人が当地にお堂を建立、妙見大菩薩のお像を開眼、安置したということでした。


真如寺本堂の扁額の文字、これはその吉川日鑑上人の揮毫だそうです。
日鑑上人は、新居日薩上人や三村日修上人とともに、仏教界が混乱した明治維新直後、宗門を支えてくれた大功労者です。

いろんな事物が恐いくらいにリンクしてきますが、決して偶然じゃないと思います。


御真骨堂です。
日乾上人が身延山に願い出て、分けていただいた御真骨を、こちらに奉安しているそうです。
関西の信徒さん達は、ここに来ればお祖師様の御真骨を拝めるわけですね。
「関西身延」といわれる由縁がわかりました。


しかし現地を訪れて初めてわかることって多いですよね。由緒だけではわからない、もっと深~い部分。
なぜそのお上人がお寺を開いたのか、なぜその神様がそこにお祀りされているのか、文字の揮毫をなぜそのお上人にわざわざ頼んだのか・・・などなど。
全てに意味があり、そしてそれらは濃厚につながっている・・・。

今回の真如寺も、新たな発見ばかりで、結構テンション上がりました(笑)。