日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

岩高山日蓮寺(鴨川市内浦)

2019-07-21 22:43:13 | 旅行
文永元(1264)年11月11日の夕方、日蓮聖人が安房・東条の郷を通りかかったところ、待ち伏せしていた地頭の東条景信率いる多数の武装兵に襲われてしまいました。
この小松原法難で、お弟子さんの鏡忍坊と壇越の工藤吉隆公が殉死、他にも同行していた複数のお弟子さんが重傷を負ってしまいました。


日蓮聖人は左腕を折られた上、景信の太刀により眉間に三寸もの傷を負ったといいます。
一寸が3センチ余ですから、三寸っていったら10センチ近く・・・今で言えば何十針も縫うほどの重傷だったはずです。


辺りが真っ暗になる中、日蓮聖人は近くの井戸で、吹き出してくる血を洗いました。
この井戸は「日蓮聖人御疵洗之井戸」として花房蓮華寺(宗門史跡)の目の前に遺されています。



このあと日蓮聖人は暗闇の中を、生まれ故郷である小湊方面へ急ぎました。

東条景信一団の残党も潜んでいるかもしれない夜道、重傷の日蓮聖人を護衛・先導してくれたのは、殉死した工藤吉隆公の家臣・北浦忠吾公と忠内公の兄弟だったといいます。
目の前で工藤吉隆公を亡くし悲しみの極みだったろうに、それでも日蓮聖人を安全な場所に避難させることを最優先させたのは、日頃から主君の信仰する姿を見てきたからだったのでしょう。


日蓮聖人が辿り着いたのは、小湊の海岸から少し山奥に入った岩窟でした。
11月11日の晩を過ごし、重い傷を癒やしたご霊跡が、日蓮寺です。


山号は「岩高山」です。


山中の谷あいにある境内は傾斜がきつく、本堂まではひたすら階段を上ります。


階段の途中に井戸があります。


バリバリ現役の井戸です。キレイな湧水をたたえています。


日蓮聖人がここに到着した時には、まだまだ出血が治まっていなかったのでしょう。
改めてこの水で血を洗い流したといわれます。


傍らの石には「御霊泉」と刻まれていました。


本堂です。
素朴な方形屋根のお堂です。山中のご霊跡なだけに、周囲の雰囲気にしっくり溶け込んでいます。


本堂に至る階段の途中には、小さなお堂があります。
日蓮聖人が一夜をお過ごしになったという「養疵窟(ようひくつ)」です。地元の方は「おいわや」と呼んでいるようです。


岩窟の入口にお堂を設けた構造になっています。


日蓮聖人はまだ出血の止まない額の傷に、この岩窟の壁面の砂を塗り込んだといいます。
すると不思議なことに、出血はみるみる治まっていったそうです!


本堂をお参りした際、「御血どめの霊砂」を買い求めました。
不思議なことに岩窟の砂には大量のヨードが含まれているそうです。いうなればイソジンで消毒するようなものですから、傷の治療としては医学的にも理に叶っていたのでしょうね。


翌朝、この地に住む「お市」というお婆さんが、岩窟に身を寄せる傷ついたお坊さんを見つけ、持っていた真綿を額の傷に載せたといます。
寒さが本格化し始める11月中旬の早朝、お市婆さんが供養した真綿はどれほど温かかったことでしょう。


これも本堂で買い求めた綿帽子です。
冬期、各地のお寺に安置される日蓮聖人の御像に綿帽子をかぶせますが、この養疵窟にルーツがあったんですね。
綿帽子はお市婆さんの優しさそのものです。


北浦兄弟の先導、傷洗いに適した清浄な水、衰弱した身体を休める岩窟、治療に有効な岩砂、そしてお市婆さんの綿帽子・・・
いくつもの助けにより、日蓮聖人は窮地を脱することができました。


日蓮聖人が身延山ご入山後の建治3(1277)年、日蓮聖人のお弟子さんの日家(にけ)上人が、この岩窟にお寺を建立したのが日蓮寺のルーツです。
このブログの参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも日家上人の姿が描かれています。
日家上人は日蓮聖人の壇越・佐久間氏の家系の方で、小松原法難の直前、日蓮聖人が小湊のお母様を見舞われた際に帰依したといわれています。


横須賀米ケ浜、名越、松葉ケ谷、伊東川奈、佐渡真浦など、日蓮聖人のピンチを救ってきた各地の岩窟が、令和のこの時代にもきちんと遺され、清められているのは本当に素晴らしいこと、お金では決して買うことのできない大切な宝です。

信仰ある方が、一人でも多く訪れ、現地の空気を感じとってくれたら嬉しいです。

長寿山福王寺(筑後市溝口)

2019-07-08 22:58:21 | 旅行
福岡県の八女を旅してきました!

八女といえば八女茶で有名です!
広大な八女大茶園では最高級品種・玉露の栽培もしています。


白壁の町家が建ち並ぶ八女福島の町並み。
九州各地の産物が集まり、これらを材料にして工芸品を造る職人の町でもあったようです。


これからが最盛期の盆提灯をはじめ、ひな人形、仏壇、竹細工など、沢山の特産工芸品があります。


八女手漉き和紙もその一つです。
腰が強いのが特徴で、版画家の棟方志功も愛用していたといいます。


実は、この地に紙漉きの文化を持ち込んだのは、安土桃山時代の法華のお上人だったそうなんです!
そして、そのお上人の銅像が近くの日蓮宗寺院にあると聞き、訪問してきました。


八女福島から3kmほど、筑後市溝口にある福王寺です。


山門です。
品格を感じますね。


山号は「長寿山」です。


年季の入った題目法塔が迎えてくれます。


正面に本堂があります。
まずはこの地を訪問できたことに感謝し、合掌。


九州に紙漉き文化を導入したのがこの方、日源上人です。
法華の修行僧だった日源上人は、全国行脚の途次、溝口の地を訪れました。
当時の溝口は農村が疲弊・荒廃しており、これに心を痛めたといいます。


一方、日源上人は溝口を含む筑後地方、特に矢部川周辺の自然環境が、生まれ故郷の越前国(今の福井県)今立に似ていると直感したようです。
今立で盛んな紙漉きをこの地に根付かせ、農家が生業として紙漉きをするようになれば、農村は復興するかもしれない・・・と日源上人は考えました。


たまたま我が家にあった一筆箋、今立和紙を使っているようです。
約1500年前、日本で最初に紙漉きを始めた今立は、和紙の里と呼ばれ、今でも和紙作りが盛んです。

日源上人の親族にも和紙職人がいたそうで、日源上人は一旦帰郷し、数人の和紙職人を伴って溝口に戻ったそうです。


話は少し逸れますが、昨秋、越前市武生を訪問しました。
日蓮聖人がご入滅された10年後、日像上人はご遺命を果たすべく、身延や佐渡など日蓮聖人のご霊跡を巡拝したのち、北陸路を布教しながら上洛を果しました。
かつて国府が置かれていた越前市武生には旧北国街道が通っており、通り沿いには日像上人開山のお寺が多く見られます。


旧北国街道沿いにある長榮山本行寺境内には、日像上人ご染筆といわれる岩題目がお祀りされていたのが印象的です。
浄土真宗寺院だらけの越前において、武生は法華信仰が確実に息づく町であることが推察されます。


地図で見ると、この武生の町から日源上人の故郷・今立はわずか5kmほどしか離れていません。
日像上人が信仰の種を播いてから200年の時間を経て、紙漉き職人の町にも法華の教えが浸透していたのかもしれませんね。


話を戻しましょう。
溝口に戻った日源上人は当地の領主・蒲池氏の菩提寺である福王寺の境内に作業場を設け、手漉き紙を作り始めたそうです。
これが、九州における初めての紙作りといわれています。


以来、筑後藩や久留米藩の保護のもと、越前和紙をルーツとする製紙法は溝口の農家を中心に人々に伝えられてきました。
「溝口紙」そのものも収入源になりましたし、溝口紙を使った傘や提灯の製造も栄え、荒廃していた農村は復興していったそうです。


紙漉きの技術は溝口から矢部川流域、そして九州各地へと伝え広がったといいます。

そして明治時代、九州紙漉きの礎となった福王寺境内に日源上人のご尊像が建立されました。戦時中、銅像供出の憂き目に遭いましたが、昭和35(1960)年に再建されたそうです。


銅像再建の奉賛会に九州各地の製紙業者も名を連ねています。
九州製紙業のルーツが福王寺、日源上人にあり、その威徳に感謝、供養されている様子が窺えました。


右手に錫杖、左手にお数珠を持った日源上人のご尊像、胸に提げているのは紙漉きの道具である竹簀だそうですよ!

そういえば日本に醤油や味噌作りを伝えたのは鎌倉時代のお坊さんだと聞いたことがあります。
昔のお坊さんは各地を行脚することで信仰だけでなく、文化や産業の種も播いていたんですね。
新たな発見でした!


ちなみに頂いた福王寺の縁起の表紙、立派な和紙ですよ~!