日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

根城(八戸市根城)

2018-09-28 20:33:54 | 旅行

今年6月、初めて身延山の開闢会を見ることが出来ました。
日蓮聖人が鎌倉を出立して身延に入山し、久遠寺を創建した記念すべき日をお祝いするお祭りです。



日蓮聖人の教えが広まるにつれ、お弟子、信者への弾圧が厳しくなり、特に佐渡法難の際には信者の退転が相次いだようですが、そんな中でも波木井(南部)實長公の信仰は揺るがず、日蓮聖人を支援し続けたといいます。



佐渡ご赦免になり、幕府への3回目の諫暁を行ったけれど物別れに終わってしまった日蓮聖人を、實長公は自領である身延山に迎えました。
實長公をお祀りしている久遠寺の開基堂は、御真骨堂に対面するように建っています。



南部氏は代々甲州波木井郷に所領を持っていたようですが、實長公の父・光行公は鎌倉幕府と奥州藤原氏が争った奥州合戦の功績で、陸奥国に領地をもらったようです。(↑画像は身延町にある南部氏館跡)



光行公は波木井郷に三男である實長公を残し、他の子供達とともに陸奥国へ行ってしまったといいます。今の家族の常識からしたら、信じられませんよね!
これ以降、南部氏の本拠地は陸奥国(正確には糠部五郡)に移ったわけです。
(↑画像は身延町にある實長公の墓所)



光行公の子供達は、行朝が一戸、実光が三戸、朝清が七戸、宗清が四戸、行連が九戸をそれぞれ所領として与えられました。
年齢的には行朝が長男なんですが、正室の子ではないようで、次男の実光(三戸)が宗家となったようです。

一方、調べててわかったんですが、実は三男の實長公は波木井郷に居を残しながら、同時に八戸を所領としたそうなのです。大変!



そんな實長公が始祖となった八戸の本拠地が「根城(ねじょう)」です。



根城は1334年に、實長公の孫・長継の娘婿であった師行が築いたと言われています。



昭和16年に、根城は中世の貴重な城郭として国史跡の指定を受け、徐々に復元・整備されてきました。



ところは変わっても、南部氏の家紋は向かい鶴です。



城内には枝垂れ桜が目立ちます。



これ、久遠寺の枝垂れ桜に倣って植えられているようなのです!
八戸は始祖が實長公ということもあり、城の随所に法華経の信仰を思わせるようなものがあります。



これは本丸の復元模型ですが、実際には8つの郭(くるわ)からなる平城で、21万平方メートルもあります。



主殿は平成6年になってから復元されたそうです。



これは正月に当主が挨拶している様子を再現しているようですが・・・



奥に掲げられた旗には八幡大神、三島大明神、月山大権現の文字が書かれています。
昔から東北の方は出羽三山、特に月山への信仰が強かったのですね。



馬屋です。
南部氏は甲州の養馬技術を持ち込み馬産を奨励、「南部駒」といわれる良質の馬を育ててきました。
南部の武将達は最高級の馬に乗ることができたのでしょうね!



本丸の一画に、築城当時からとも言われている巨大な公孫樹。
そしてその傍らには題目碑!



めちゃめちゃ立派なお題目です。



石の裏側を見ると、「初代實長公以来使用 光明点題目大幡」とあります。
光明点というのは、お題目の書法の一つで、筆の末端が長く伸びた感じのことだと思います。ひげ題目や波ゆり題目なんかも光明点を用いたものでしょう。
南部氏で代々使われてきた軍旗の文字で、日蓮聖人が書いたと伝えられているそうです。



主殿の裏側には、「一葉一字供養塔」がありました。
時は流れて江戸中期、八戸藩士が法華経の文字、一字一字を板に書き、ここに埋めたそうです。



いろんな思いがあって、ここに供養したのでしょうが、實長公の時代から400年以上経てなお、この地に篤い法華信仰があったことが窺えます。
実はその頃、既に根城南部氏は伊達領との国境警備のために遠野に国替えになっており、ここ八戸は宗家の三戸南部氏をルーツにする方が治めていたようです。つまり根城南部氏以外にも法華信仰は浸透していたのかもしれません。



いや~、八戸根城、よく整備されているし、歴史もよくわかるし、とても良い城跡でした。日本百名城に選ばれるのもよくわかります。
信仰ない方が訪問しても楽しめますが、日蓮宗の信徒さん達が訪問したら、更にいろんな気付きがあるはずです!



根城を築城した南部師行公の銅像。



この銅像建立に寄進された一番上の方は、府中の東郷寺のご住職だそうです。実はこの方、根城南部氏→遠野南部氏と続く家系の現当主です。



そして先程の光明点題目碑の建立には、先代当主・南部日實氏が尽力されたそうです。ちなみに日實氏は東郷寺の先代住職でもありました。



南北朝時代に官軍の武将として北畠顕家とともに戦死した南部師行公を顕彰する石碑、これは戦死した大阪にあるものらしいのですが・・・



この石碑も日實氏、いや日實上人の尽力で建立されたようです。
よく見ると600回忌の大法要を執行、的な事も刻んでありますね。



身延山から遠く離れた八戸の地でも、南部氏のベースとして法華信仰が脈々と受け継がれていた・・・。そしてその先祖達が必死で生きた軌跡を掘り起こし、後世に残そうとする新しい時代の当主達。

深い、深いな~、と素直に感服しました。














廣布山蓮華寺(青森市本町)

2018-09-26 23:43:06 | 旅行
六老僧・日持上人

日蓮聖人のご入滅後、日本国内の布教は他のお弟子さんに任せ、日蓮聖人の念願だった大陸への広宣流布を目指したお上人です。
(↑画像は函館・実行寺の日持上人像)



先日、北海道を訪問した時には、函館(一乗山実行寺)や


松前(妙光山法華寺)に、その足跡を見ることができました。


その後日持上人は樺太を経て大陸に渡ったと伝えられてはいますが、詳しくは定かでないようです。
ならばどういう経路で北海道までやって来たのかだけでも知りたいな、と思います。



そもそも鎌倉時代、海外はおろか、津軽海峡を渡ることさえ命懸けだったのではないでしょうか。


・・・ということで青森にある日持上人のご霊跡を訪問しました!

青森市内にある蓮華寺です。
日持上人は「蓮華阿闍梨」と呼ばれた方なので、もしかしたら寺名のルーツもそこかな?



山号は廣布山です。
広宣流布に命を捧げた日持上人らしい山号です。



「大乗妙典千部」と刻まれていますね。ご霊跡を巡っていると時々法塔に刻まれているのを目にします。
恐らく法華経を千回、読誦して建立した法塔ではないかと思います。



実はこのお寺、めちゃくちゃ街なかにありまして、夜はネオンがまぶしそうですね!
ちなみに、ねぶた期間中は午後4時閉門なのだそうです。治安上、賢明な判断だと思います。



門前にこんなラーメン店があるのもご愛嬌(笑)




日蓮聖人のご尊像に合掌。



目元に特徴のあるお祖師様です。



本堂です。
蓮華寺はかなり大きいお寺で、青森県の宗門でも中心的な寺院のようですね。
ご首題をお願いしている間、本堂で参拝させて頂きましたが、本当に広い空間でした。



担ぎねぶたが飾られていました!
江戸時代、蓮華寺内の池に住むカエルの一団と、外側の池に住むカエルの一団が、はじめは境内で鳴き声合戦をしていたが、そのうち互いに激高してきて取っ組み合いの合戦が一週間続き、やがて何事もなかったように静けさを取り戻した・・・という「蓮華寺の蛙合戦」伝説を元に、青森工業高校の生徒さんがねぶたを作成し、この夏の祭りで町中を練り歩いたそうです。青森のお寺ならではですね!



1294年、44才になった日持上人は、自房である駿州松野村の蓮永寺で9月に、敢えて1ヶ月早く日蓮聖人の十三回忌を済ませました。



本命日の10月には身延の祖廟に詣で「法華経の広宣流布実践」を宣言し、1295年正月に単身、松野を発ったと言われています。
その後、奥州各地を布教しながら北上してゆきました。



いよいよ本州の北端まで至りましたが、風波が激しく、蝦夷への船が出せる状態ではなかったそうです。
そこで日持上人は津軽海峡に面する善知鳥(うとう)という村に立ち寄ったと伝えられています。



海の荒れはなかなか回復せず、日持上人は数ヶ月間、善知鳥村に滞在し、その間に結んだ庵が現在の蓮華寺のルーツだと言われています。
ちなみに善知鳥村は江戸時代に津軽藩により「青森村」と改められ、以来藩の港町として発展しました。



蓮華寺は大きいお寺にもかかわらず、敷居が低く、我々信徒にとっては参拝しやすい雰囲気があります。
そのせいでしょうか、お寺の行事には多くの壇信徒さん達が集まるようです。立教開宗会には500人以上(!)の参加者がいたそうですよ。



もう一つ、境内に奥州ならではの石碑がありました。
左側、先住民族の供養塔です。


「征夷大将軍」などの役職からもわかるように、古くから朝廷は北方の先住民族を征討してきました。住む地を追われた先住民族達を供養するため、建てられた石塔だと思います。
仮に開基の日持上人が今存在したら、「先住民族も国籍も国境も関係ない、みんなが幸せになるように、もっと大きな目で見ようよ」と仰るでしょうね!
それにしてもなかなかできることじゃありません。頭が下がります。



700年以上も昔に、本気で海外伝道を目論み、実行した日持上人。そのスケールの大きさは計り知れませんが、この蓮華寺全体に流れる雰囲気は、やはり開基の日持上人のマインドに通ずるように思いました。
これからも脈々と受け継がれてゆくことを祈念します。





真浦霊跡(佐渡市真浦)

2018-09-23 20:41:23 | 旅行




佐渡海峡に面した沿岸に、「赤泊(あかどまり)」という町があります。



佐渡金山が隆盛した江戸時代には、佐渡奉行が乗る船や北前船が入港するなど、古くから港町として栄えてきました。



僕の大好きな日本酒の蔵元もあります!



この赤泊のすぐ近く、真浦という場所に「日蓮聖人波題目碑」があります。


1271年10月28日に佐渡に到着して以来2年5ケ月間の、辛く理不尽な配流生活を送った日蓮聖人が、最後の船出をした場所が真浦です。

一説には本土に向け、真野湾の塩屋ケ崎を出航したが風が悪く、真浦で数日間風待ちをしたとも言われています。



県道45号線沿いに、その場所はあります。
すぐ後ろは海、まさにオーシャンフロントのご霊跡です!



ちなみに日蓮堂・日蓮洞窟は道路の向かいにあります。



風を待つため、3月13日の夜は近くの洞窟で、翌14日は招き入れてくれた舟元家で夜を明かしたと言われています。
恐らく日蓮聖人は風が収まるよう、海が静かになるよう、祈念されていたと思われます。



そして3月15日の早朝、海が船を出せる状態に落ち着いたのを確かめ、寺泊に向けて出発したようです。



海上で日蓮聖人が朝日に向かって合掌したところ、海面にお題目の7字が浮かび上がったと伝えられています。


最も歴史のありそうな石碑はこちら

江戸時代、佐渡奉行の方が書かれた文を刻んだ「波題目碑」です。



この碑に刻まれた文字を読みたいのはヤマヤマなんですが、奉行の達筆と、刻字の摩耗でよくわかりません・・・


しかし!

どなたかが碑文を新しい石に刻んで下さっています。感謝!!
内容としては
「日蓮聖人が無事鎌倉に帰着されてから、新月の夜に信心をこらしてここから海上を見ると、波間にお題目の文字が浮かぶ」そうです。この辺りの方が「波題目」と呼んで語り継いできたようですね。



もう一つ、「霊訓碑」もありました。


国府尼御前御書の一節が刻まれています。

「さればつらかりし国なれども そりたるかみをうしろへひかれ すすむあしもかへりぞかし」
「日蓮こいしくをはせば 常に出る日 ゆうべにいづる月ををがませ給へ いつとなく日月にかげをうかぶる身なり」 
「南無妙法蓮華経 日蓮 さどの国のこうの尼御前」



本当に理不尽で辛い日々だったでしょうに、それでも島をあとにする今となっては、後ろ髪を引かれる思いだったのでしょう。何より、佐渡は人が温かいもん!

佐渡は幕府にとって都合の悪い人々が、罪人として流されてくる島でした。ところが佐渡の住民達は、彼らを受け容れ、もてなし、彼らから多くのことを学び、吸収するという懐の深さを持っていたのです。
鎌倉幕府にとって超異端の人・日蓮聖人も最初は四面楚歌でしたが、阿仏房を発端としてその援助の輪は広がり、ここ真浦を出航する時には一大勢力になっていたと推測できます。日蓮聖人は援助へのお返しとして、島に「信仰」を残していきました。



ご霊跡の入口には「遠流赦免帰還之聖地」の文字とともに・・・


「第三国諫發軫之霊蹟」の文字。
日蓮聖人とお別れする悲しい場所では決してなく、幕府への三度目の諫暁がここから始まったのだ!というエネルギッシュなご霊跡なのでしょうね!



ちなみに・・・

真浦霊跡のご朱印は、ご霊跡の隅にあるこの小屋にあります!


小屋のカギは開いていて、自分でご朱印を捺すことができます。ご参考に!!














日蓮堂・日蓮洞窟(佐渡市真浦)

2018-09-22 20:26:10 | 旅行
佐渡流罪の赦免状を受け取った日蓮聖人は、3月13日に一ノ谷を発ち、真野湾に面する真野渋手(塩屋ケ崎)に到着しました。
そこには多くのお弟子さんや信者さんがやって来て、日蓮聖人との別れを惜しんだといいます。



日蓮聖人は真野渋手から船に乗り本土を目指しましたが、風が悪く一旦佐渡南岸の「真浦」という港に入ったそうです。
(真浦までの経路については、山越えをしたとの説もあるようです)



真浦に到着したのはもう夕刻、辺りには民家はまばらで、見ず知らずのお坊さんを泊めてくれる家もありませんでした。
その時に日蓮聖人が一夜を明かした洞窟があるそうです。



佐渡海峡に沿って走る県道45号線、赤泊港のほど近く



「日蓮堂・日蓮洞窟入口」の看板を見逃さずに、民家の間を入ってゆきます。



小径には小ぶりな法塔が建っています。古くから信仰のある方々が参詣した霊場だということが窺えます。



小径は二叉になっており、日蓮洞窟方面と日蓮堂方面に分かれます。
まず日蓮洞窟へ行ってみましょう。



民家の裏庭を縫うように小径は続きます。両側には花がたくさん!



日蓮洞窟です。
明治30年の水害で洞窟の大部分が埋まってしまったそうで、正確には洞窟跡、かもしれません。
ただこの前に立って目を閉じると、お祖師様が読経するお姿が浮かび、オーラっていうのかな?強く感じました。

今まで日蓮聖人のご霊跡をめぐってゆく中で、洞窟、ほら穴のご霊跡が沢山ありました。いずれも初めての土地、泊めてくれるあてもない場合に、穴の中で夜露を凌いだということが伝えられています。
法華経弘通の為なら、という日蓮聖人の覚悟が感じられ、毎度ながらすごいなぁと思います。



翌14日も風が悪く、船が出せなかったといいます。日蓮聖人は洞窟でもう一泊か、と思ったのかもしれません。
そんな時、近所の「舟元家」の方が、迎えて下さったそうです。優しい方がいらっしゃったんですね!



それでは日蓮堂に行ってみましょう。



こちらは上り坂の小径です。



草に埋もれていますが、昔の信者さん方が奉納したと思われる法塔をいくつも見ることができます。



この階段を上がると・・・



宝塔とお堂が現れます。



この場所が由緒ある霊場なのだと物語るような宝塔群に合掌。



日蓮堂です。



さきほどの洞窟で一夜を明かした日蓮聖人を翌日自宅に招いた舟元家の方が、ご霊跡を護るために建てたお堂なのだそうです。


お堂は4年前に改築されたようで、堂内にその際の寄付者が掲示されていました。

佐渡では、各お宅の屋号が今でも現役で使われており、屋号「舟元」のお宅の名前もありました。
また、画像右には「辰子」という屋号が見えます。実は辰子家のおばあさんが日蓮聖人にお粥を供養してもてなした、という逸話も残っているようです。

それから700年以上を経てもなお、大切なご霊跡を維持し、清めて下さっている。
舟元さん、辰子さんはじめ護持して下さっている方々の屋号・お名前に向かって、感謝の気持ちを込めてお題目をあげました。


このお堂に参詣に来た信者さんの中には、柱に記帳してゆく方もいたようで、

福岡や大阪、播磨の地名も見られます。また、時代も明治とか・・・



嘉永年間の記録もありますね!ご首題みたいにキレイな文字です。

(※大切なご霊跡なので、くれぐれも勝手に書かないように!)



いつの頃でしょうか、信者さん達の記念写真が飾られていました。
お堂の前で団扇太鼓を掲げる元気な信者さん達。足元には雪が積もっています。写真ほど当時の雰囲気をリアルに伝えるものはないですね。時代は違っても、信仰で彼らとつながっているんだな~と思うと、ジーンときちゃいました。



何か、とっても良いご霊跡でした。元気をたくさん頂きました!











何代坂(佐渡市畑野)

2018-09-04 09:26:10 | 旅行
佐渡流罪の赦免状を携えた日朗上人は、フラフラになりながらも雪深い小佐渡山地を越えました。
疲れと寒さで、もう動けなくなってしまった日朗上人が、声の限り叫んだといいます。

「お師匠さま~」


さほど離れていない場所を歩かれていた日蓮聖人と日興上人は、声の主を探しました。

「お師匠さま~」



声はだんだんと近づいてきました。
日蓮聖人はその声に呼応するように言いました。

「なんだいの~」


間もなく日蓮聖人と日興上人は、倒れ込んだ日朗上人を発見し、赦免状は日蓮聖人の手に渡ったといいます。



日蓮聖人が「なんだいの~」と応えられた場所、それが「何代坂」と伝えられています。
現地には見逃してしまいそうな小さい石碑が建っており、あ~!ここなんだ!と感動しました。



「何代」は地名にもなっており、付近の介護施設も「なんだい」です。
声を掛けたら必ず返答してくれそうな名前ですね!



比較的平坦な、舗装された県道沿いなので、石碑がなければわかりませんでした。
建てて下さった方、ありがとうございました。



実はこの前日、佐渡着船の霊跡・本行寺のお上人に、何代坂に関する史跡がないか、伺ってみました。
すると、何代坂と関連があるかどうか定かではないが、近くに巨大な五輪塔があるという事を教えて頂き、現地に連れて行って頂きました。(優しいお上人!)



住宅に囲まれた場所にあるので、具体的な場所は伏せますが、この五輪塔です。
手前にある車との対比で、どれだけ巨大なのかがわかると思います。



住宅脇の細道をそろそろと入ってゆくと、こんな感じで建っているのです!



3mはあろうかという五輪塔。
風雪にさらされてきたのでしょうか、全体に削れてスリムになっています。結構歴史がありそうです。
それに花が供養されています。どなたか信仰のある方が清めて下さっている形跡もあります。

・・・しかし、なぜこの場所に、巨大な五輪塔が・・・?


そのヒントとなりそうなお話を、塚原三昧堂霊跡・根本寺のお上人から伺うことができました。

五輪塔がある場所は、塚原三昧堂からもほど近く、当時、近隣の住民も日蓮聖人のお姿や法話に魅了されていたのかもしれません、日蓮聖人の謫居が一ノ谷に移る際、別れを惜しむ住民達が、お題目を唱えて日蓮聖人を送ったそうです。



住民達がお題目を唱えるという風習は、日蓮聖人がご赦免になった後も、あるいは日蓮聖人がご入滅された後も続き、実は現在も年に一度、6月13日に根本寺のお上人が導師となって、あの五輪塔の前で行われているそうです。
参加される住民は他宗の方もいらっしゃるそうですが、昔からその日だけはお題目を唱えるのだそうです。



それはもう、700年以上、脈々と続いている唱題。
何代も、何代も続いてきた、というのが「なんだい」の由来、という説もあるのだそうです。

宗旨に関係なくお題目を唱える地域というのは、富士山の南麓あたりにあると聞いたことがありますが、まさか佐渡でそんなお話を伺えるとは・・・!


驚くとともに、先祖から引き継いだものをきちんと続けている住民達に素直に敬服し、何代をあとにしました。



単なる一信徒の僕に、いろいろなお話をして下さった根本寺のお上人、そして五輪塔の存在を教えて下さった本行寺のお上人に、この場を借りて感謝の意をお伝えしたいと思います。










日朗山本光寺(佐渡市宮川)

2018-09-03 20:11:38 | 旅行

1274年3月8日の夕方、日朗上人が命懸けで持ってきた赦免状は、日蓮聖人の手に渡りました!



その場所には「日朗坂」として法塔がお祀りされています。


実はその昔、日朗坂にお寺があったそうです。
しかし付近を流れる小倉川の氾濫で、そのお寺は現在、日朗坂から400mくらいかな、西に行った高台に移転されています。

日朗山本光寺です。
日朗上人の偉業に感謝している山号ですね!



立派な法塔がありますね。



わ~、お祖師様の550遠忌に建てられたんですね!



山門です。
佐渡ご赦免の聖地に、入ってゆきます!



本堂です。
華美ではないけど存在感のある、そんなお堂です。


本堂横に・・・ありました! 

赦免石(しゃめんせき)です。
日朗上人から手渡された赦免状を、この石に腰掛けてご披見されたそうです。
寒く、空腹で、孤独で、なにより理不尽で辛かったこれまでの2年4ヶ月余り・・・日蓮聖人はこの石に腰掛けて何を思われたでしょう。
その気持ちを想像しながら、合掌しました。



袈裟懸けの松です。
大きな仕事を終えた日朗上人と、そして日蓮聖人は、松の木に袈裟を掛け、お互いに労をねぎらったことでしょう。


お寺の縁起によると、このお寺を開いたのは日朗上人のお弟子さん、九老僧の妙音院日行上人だそうです。

このブログで汎用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれている方です。

日行上人は日蓮聖人苦難の地・佐渡を訪問した際、ここ日朗坂や赦免石を見て去るに忍びず、きちんとご霊跡を残すことを決意しました。
師・日朗上人を開山に仰ぎ、自らは二祖になり、62才で遷化されるまでこのお寺で修行を積んだといいます。


話はちょっと脱線しますが、実は妙音院日行上人のお名前を目にしたとき、鳥肌が立ちました。


小田原にある光秀山浄永寺は、日蓮聖人に帰依した鎌倉武士・風祭大野亮光秀(風祭入道)の屋敷に設けた法華堂がルーツです。


風祭入道は僕の故郷・小田原の風祭の方だといいます。


そして法華堂をお寺にしたのは風祭大野亮光秀の息子、妙音院日行上人まさにその方だったのです。



佐渡の重要なご霊跡を、まさか小田原に縁のある日行上人が開いていたとは・・・そしてこの地で遷化されたとは・・・。
不思議なつながりを感じざるを得ませんでした!



僕が本光寺を訪問したのは午後だったのですが、ちょうどその日は開山会で、午前中に法要があったそうです。
お疲れの中で恐縮だったのですが、本光寺のお上人はとても気さくで、いろんなお話をして下さいました。



島外出身のお上人は、それまで別の仕事をしていたそうですが急にお寺を継ぐ事になり、それから出家して右も左もわからない状態から始め、随分苦労されたそうです。
お寺を維持してゆくことは困難の連続であるけれど、本当に大きな問題にぶち当たった時は、不思議と誰かが助けてくれるとも仰っていました。
日頃の修行と、お上人の人柄の功徳だと思います!


ちなみに今年は日朗上人の699遠忌、来年は700遠忌だそうですよ!
佐渡を旅行する方は、ぜひ日朗山本光寺を訪れてみて下さい。










日朗坂(佐渡市宮川)

2018-09-02 23:32:28 | 旅行

1274年3月7日、奇跡的に佐渡・小木海岸に漂着した日朗上人は、学法房に介抱され、庵で夜を明かしたそうです。



翌3月8日の早朝、日朗上人は日蓮聖人のもとへ赦免状を届けるために出発しました。



小木を出発して日蓮聖人がいると思われる国仲平野へ抜けるには、小佐渡山地を越えなくてはなりません。
僕が訪問したのが8月中旬ですから、その真逆の季節・・・恐らく山中には沢山積雪があったに違いありません。



日も暮れ、辺りが暗くなる中、土地勘のない日朗上人は声の限り「お師匠さま~」と呼びながら歩き続けたそうです。
つい20日ほど前に鎌倉の土牢を出され、必死で山野を歩き続けたのち、荒れる日本海で遭難し、昨日漂着したばかりの身体・・・もう精も根も尽き果てようとしていました。



その頃、日蓮聖人と日興上人はたまたま用事で中興入道の屋敷に来ており、その帰り道、静まる国仲平野の先にかすかに「お師匠さま~」の声を聞いたといいます。(諸説あるようです)



やっと、やっと日朗上人が日蓮聖人に出会えた場所がこの緩い坂だと言われています。
画像の左手の茂みが、いわば小佐渡山地の麓、くらいの位置関係です。


日朗坂です。



現在、坂は県道65号線になっており、県道沿いに法塔がお祀りされています。



もう歩く力も残っていない日朗上人は日興上人に抱えられながらも、首に掛けた赦免状を日蓮聖人に手渡したのでしょう。
命懸けで持ってきた赦免状なのです。思いが果たせた瞬間でした。
(↑画像は経島の日朗上人ご尊像)



日蓮聖人は殊のほかお喜びになったと伝えられています。
それは、自らの赦免の知らせよりも、一刻も早く赦免状を届けようと、最愛の弟子が遠い鎌倉からやって来てくれたことに、感激したのだと思います。


さてさて、日蓮聖人は赦免状をどこでご覧になったのだろう・・・?
実は、「御腰掛石」にお座りになって・・・のようなんですが、次回を待て!!




性善房の庵跡(佐渡市小木)

2018-09-02 15:11:13 | 旅行

1274年3月7日、赦免状を携えた日朗上人は奇跡的に経島に漂着しました。



日も暮れ、暗くなる中、日朗上人は経島の岩に座り、高らかにお経を唱え続けました。

辺りが静まる中、読経の声に気付いたお坊さんがいました。学法房です。
禅僧であった学法房は、経島からほど近い地に庵を構えていたのです。


遠くから聞こえる読経らしき声・・・どうしたことかと海岸に出てみると、岩の上で一心にお経を唱えるお坊さんがいるのを発見しました。

3月初旬の佐渡、まだまだ春にはほど遠い寒さ・・・。
学法房は身体が冷え切った日朗上人を庵に招き入れ、手厚く介護したといいます。



現在、その庵の跡は整備され、信徒が参拝できるようになっています。



中央に大きく立派な宝塔が建っていました。



どうやら日朗上人が赦免状を持って着岸した事を顕彰した宝塔のようです。
お花が供養されていました。信仰のある方の参拝があるようです。



このお題目7字は日朗上人の御真筆のようですね。


日朗上人の署名と花押があります。
日朗上人の花押、初めて見た!何か漢字をデフォルメしてるみたいだけど・・・わかりませんでした。



台座に刻まれている文字を見ると、大正9年に何かの600年を記念して「高僧遺蹟」に建てた、的な事が刻んであります。
大正9(西暦1920)年の600年前は・・・西暦1320年、あ!日朗上人が亡くなった年だ!
つまり日朗上人600遠忌の宝塔ですね!



学法房と日朗上人はその夜、語り明かしたといいます。
心優しい学法房と穏やかな日朗上人は気が合ったのかもしれませんね。



日朗上人は翌朝、日蓮聖人に赦免状を届けるべく、庵をあとにしたそうです。



学法房はのちに日蓮聖人に帰依し、法号を「性善房日顕」と改めました。
また、日朗上人を介抱した庵を法華道場とし、生涯布教に努めたそうです。



江戸時代になり、庵は小木港を見下ろす高台に移され、現在の安隆寺祖師堂のルーツになっています。



崖の真下に法塔がいくつか並んでいました。



日朗上人の、これは500遠忌かな?


願主に小木の講中もありますが、


江戸・・・


下谷の講中もあり、法華信仰が盛んだった江戸の町衆たちが、積極的に佐渡にも来島し、参拝していたことが窺えます。


江戸時代はどうやって佐渡海峡を渡ったのかな?
多分まだ木造手漕ぎか帆柱を立てた和船・・・ですよね。えらいな~

すみません、ジェットフォイルで楽をしちゃいました・・・










経島(佐渡市小木)

2018-09-02 12:12:48 | 旅行
佐渡法難の数年前から、モンゴル帝国による日本侵攻の兆しは見られていたようです。国書が繰り返し届き、幕府への揺さぶりが始まっていました。
九州守護で焦る幕府内では案の定、内乱が起こり、混乱に拍車がかかりました。

いずれも日蓮聖人が以前から幕府に訴えていた「他国侵逼難」「自界叛逆難」に他ならないことは、誰の目にも明らかでした。
そうなると、「あの日蓮という僧侶は何者なのだろう?」「本当に予言者なのか?」と人が思うのは自然なことでしょう。


幕府は1274年2月14日付で日蓮聖人に赦免状を出し、また龍ノ口の一件以来、牢に入れられていた弟子や信者を解放しました。


↑鎌倉長谷・光則寺の土牢から出された日朗上人は、自分の釈放よりも日蓮聖人の赦免を、それこそ飛び上がるように歓喜したでしょう。
早速、赦免を伝える役人とともに佐渡に向かったと言われています。



寺泊から海を渡ろうとしましたが、まだ3月の日本海ですからね、途中で海が荒れ、遭難してしまったそうです。
一説には日朗上人含め3人が海を渡ろうとしましたが、日朗上人以外は行方不明になってしまったといいます。



気付くと日朗上人は佐渡南西の、小木海岸に漂着していました。



日朗上人がたどり着いたのは、現在観光地として有名な矢島経島の「経島」でした。
右側の大きいのが矢島で、矢の材料となる良質な竹が採れたそうです。
経島はその左側の岩です。こう見るととても小さいですね!



矢島経島の周辺にある岩礁は橋でつながり、一周300mほどの遊歩道になっています。



遊歩道に囲まれた半開放の入り江では、佐渡名物・たらい船観光が楽しめます。
15分で500円!



経島へ行くには、風流な赤い太鼓橋を歩いて渡ります。



宝塔がありました。


日蓮聖人の遠忌に奉納された宝塔のようですね。



宝塔の右側に、細~い道、いや道とはいえない草を踏み固めた跡があります。



ヨイショっと!
数メートル岩を上ります。(年配の方にはおすすめできない傾斜です)



岩の頂上に祠がありました。



読経中の日朗上人のご尊像です。
日朗上人以外の方は海上で行方不明になってしまったわけですから、文字通り奇跡的にこの島に漂着しました。
しかし日が暮れ、頼るあてもない日朗上人は、ここで高らかにお経を読みながら夜を明かしたそうで、これが「経島」の名の由来のようです。



何か岩の上に腰掛けています。



首から提げているのが、赦免状だと思われます。
僕の勝手な解釈ですが、日朗上人がここで読経していたのは、自分の命が助かったことへの感謝というよりも、赦免状が海を越えたことへの感謝を込めた読経だったと思います。



それにしても、師孝第一の日朗上人らしいご尊像を、経島の見晴らしのいい場所に、よくお祀りしたものだと思います。
我々信徒が日朗上人を偲ぶには、これ以上の聖地はありません。

日朗上人と、日朗上人を護って下さった何ものかに感謝をしながら、僕も読経唱題させて頂きました。



自分がどこに漂着したかも恐らくわからない日朗上人、これからどうやってお祖師様のもとへ赦免状を届けるのでしょうか?
季節はまだ雪がばんばん降る3月初め・・・もうひと山ありそうだぞ。