このブログ、初の長崎県です!
長崎の空の玄関口・長崎空港は、大村湾の真ん中にあります。
世界で初めての海上空港だそうですよ!
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かつて広い広い大村湾一帯を治めていたのが、大村氏でした。
ある殺傷事件に端を発し平戸を撤退することになったポルトガル商人に、12代・大村純忠は自領での商売を許可しました。
これをきっかけに自らが洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となったのです。
大村湾の畔に、天正遣欧少年使節団の顕彰碑がありました。
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天正10(1582)年にローマ法王のもとに派遣された少年4人のうち、千々石(ちぢわ)ミゲルは大村純忠の甥にあたります。
大村純忠がキリスト教布教を強力に推し進めたことで、最盛期には領内に6万人もの信者(国内信者の半数)がいた、という記録があるようです。
大村市内にある本経寺を参拝させていただきました。
こういう背景のある土地に、どうやって法華のお寺ができたのか、とても興味がありました。
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山門(正門)です。仁王門になっているようです。
色彩の少ない、素朴な感じが、何とも言えずグッときます。
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扁額の文字・・・ん~、読めないなぁ・・・。
もしかして身延山総門にもある「開会(かいえ)」かな?
門をくぐって左手に小さめのお堂がありました。
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どうやら三十番神をお祀りしているようです。
北陸や中国地方のお寺ではよく見かけましたが、九州のお寺では初めてです。
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日蓮聖人のご尊像に合掌。
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目の表情が独特ですね~。
人の表面じゃなく、深層を見抜いているように感じるのは、僕だけでしょうか?
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本堂です。
天明7(1787)年に再建された歴史あるお堂ですが、よく手入れされています。
美人の富士額みたいな唐破風が印象的です。
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扁額には「三界独尊 一代権実 開顕妙体 本経法窟」の16文字。
「お釈迦様をご本尊にして、法華経を拠り所に修行する道場ですっ!」みたいな意味でしょうか。
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本堂前のソテツは、大村市の天然記念物に指定されているみたい。
言われてみれば壮観!
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長崎市のグラバー園にも巨大なソテツがありますが、異国の雰囲気を醸し出す植物ですよね~。
今はこんなに穏やかに本経寺をお参りできていますが・・・かつて大村に仏教不遇の時代があったことを、記しておかなければなりません。
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12代領主・大村純忠が領内でキリスト教布教を強力に進めていた頃、その裏では領内の寺社がことごとく壊され、僧侶や神職が殺されるなど、在来の信仰への弾圧が、それはそれは激しかったといいます。
純忠は大村家先祖代々の墓をも、壊したそうです。
命をつないでくれた先祖を、信仰が違うから認めないなんて、理解に苦しみますね・・・。
天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州平定を果たし、秀吉に協力した大村家は所領を安堵されました。
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その年に病死した純忠に代わり、19才で当主を継いだのが大村喜前(よしあき)公でした。キリシタン大名の父のもと、もちろん喜前公も洗礼を受けていました。
一方、九州統一を果たしたものの、長崎でキリスト教勢力があまりに拡大していた事実を知った秀吉は、バテレン追放令を出してキリシタンの抑え込みを図りました。
いくつかの事件を経てキリシタン弾圧は徐々に強まり、次の徳川幕府では更に厳しくなってゆきます。
幕府の姿勢が硬化してゆく中、喜前公は本当に悩んだと思います。
幕府と対立しても信仰を貫くか、領民を守るために棄教するか・・・。
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(↑画像は肥後本妙寺の清正公像)
思い悩む喜前公に、道を与えたのは加藤清正公でした。
二人は共に朝鮮出兵に参加し、また関ヶ原では東軍に就くなど、武士としてのベクトルも近かったのでしょう。信仰こそ違え、腹を割って話せる盟友だったのです。
清正公は喜前公が置かれた立場を十分理解した上で、自らの信仰である法華経の尊さを熱心に説きました。
果たして慶長7(1602)年、大村喜前公はキリスト教を棄て、法華経信仰に改めたのです。
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当時、大村にはキリシタンの領民もまだ沢山いたようですが、喜前公は領民に先駆けて自らが改宗する姿を見せたのです。
それは紛れもなく、領民を守るための、苦渋の選択でした。
その翌年、江戸幕府が開府し、喜前公は大村藩2万7千石の初代藩主に任命されました。
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喜前公を藩主とするからには、江戸幕府は信仰も含めた身体検査をしたはずです。
仏教への改宗は結果的に絶好のタイミングだったし、篤い法華信仰で知られる加藤清正公の後ろ盾、信用が、大きく作用したと思われます。
間もなく清正公の設計で寺院の建立が始まり、慶長13(1608)年に伽藍が整ったそうです。
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本経寺のある場所は、純忠の時代に普門坊というお寺を壊し、わざわざそこにキリスト教会を建てたという、いわく付きの土地でした。
新寺の建設地に再びこの場所を選ぶあたり、キリスト教に決別する強い意志が感じられます。
清正公から絶大な信頼のある、肥後本妙寺の日真上人を開山に迎え、そのお弟子さんの日恵上人を初代住職として、本経寺の歴史は始まりました。
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宗教的に複雑な背景を持つ大村において、4世紀以上も法灯を継いでくださってきた先師達に感謝しながら、歴代お上人の御廟を参拝しました。
ちなみに本経寺は、清正公の発願で建立された九州の五山、すなわち本妙寺(熊本)、法心寺(鶴崎)、本蓮寺(長崎)、本華寺(水俣)とともに、「題目の五ケ寺」と呼ばれています。
こうして多くの先師達に助けられながら、大村家は家門を繁栄させてゆきました。
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大村家歴代藩主が葬られている墓所があります。
初代・喜前公から11代・純顕公までの藩主と一族、そして家老が、手厚く弔われています。
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驚くのはその墓石の大きさ!
ホントにでかくて、人の身長の2~3倍はあります。
宝塔タイプや五輪塔タイプだけでなく・・・
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こんな感じの石霊屋(いしたまや)タイプもあります。
しかも、それぞれがとんでもなくでかい!!
2万7千石の小藩主としては、国内でも破格の大きさだそうですが・・・墓石を巨大にする、というのには理由がありました。
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あれだけ熱心に信仰していたキリスト教を、大村氏が本当に棄てたのだろうか?表向き改宗したと言っても、本当はどうなんだろう?・・・
幕府の中には、大村氏の改宗に懐疑的な意見も根強かったようです。
そんな折、大村からほど近い島原でキリシタン達による大規模な一揆(島原の乱)が起きました。
一揆は力ずくで鎮圧されましたが、更なるキリシタン勢力の反乱を恐れた幕府は、禁教策をより強化することになります。
結果、棄教しない一部のキリシタン達は、信仰を隠して潜伏してゆきます。
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大村歴代藩主の墓石が特に巨大化するのはこの頃からです。
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実は、本経寺の目と鼻の先に長崎街道が走っており、地域のお目付役の長崎奉行がこの道をよく通過していったそうです。
もちろん巨大な墓石群は街道からも見えます。
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法華経に深く帰依した事実を内外に、特に幕府にアピールする意味が大きかったと思われます。
ちなみに大村の領民の中にも、潜伏キリシタンが相当数、いたようです。
「郡(こおり)崩れ」という事件では、多くの潜伏キリシタンが検挙され、処刑されました。
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大村の町なかには、生々しい史跡が沢山あり、胸が痛みます。
幕府の体制維持のために、信仰の自由が制限された時代・・・。
変化を受け容れ、まず自らが遵守し、それを領民にも強制しなければならなかった、藩主という立場も大変ですよね。
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一見豪華に見える巨大墓石ですが、当時の複雑な事情を象徴する、ちょっと悲しいモニュメントのようにも感じました。
ところで巨大な墓石群の中にあって、ひときわ小さなお墓(↓画像右側)がありました。
大村藩家老・小佐々前親(あきちか)公の愛犬「華丸」のお墓です。
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前親公は、先代の早世のため2才で藩主を継ぐことになった3代・純信公のお守り役を務め、改易の危機から必死で藩を護りました。
しかし純信公が33才で急逝してしまい、前親公は追腹して殉死しました。
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地元の獣医師達が建立したかわいい墓石に、義犬華丸の由緒が刻まれていました。
前親公は愛犬家で、狆(ちん)の華丸をとても可愛がっていました。
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いつも膝の上に華丸が乗っているくらい、華丸も前親公が大好きだったといいます。
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殉死した前親公が荼毘に付される時、華丸は炎に飛び込んで後を追ったそうです。信じられない事が起こるものですね・・・。
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家老は藩主に命懸けで尽くしましたが、華丸は華丸で家老に命懸けで尽くしていたんだと思います。
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ちなみに華丸がこの世を去ってから約370年、ということで先ほどの古いお墓は、日本初の犬のお墓だそうです!
いや~、めちゃくちゃ濃厚だったな~本経寺!大村!!
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時代に翻弄され、ギリギリのところを綱渡りしながら逆境を生き抜いてきた、大村藩の心意気を見たような気がします。
最後に紹介し忘れてましたが、本経寺の山号は・・・
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「萬歳山」です!
信教の自由が保証されている今の世の中に感謝しながら、本経寺をあとにしました。ばんざい!!