日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

金六山慰霊塔(身延町角打)

2022-10-01 13:46:17 | 旅行
JR身延駅

久遠寺参詣の起点として、日蓮宗信徒にお馴染みの駅です。
久遠寺側、つまり西側に駅の出口があります。



一方、駅裏には山が迫っており、ほぼ手つかずの大自然!


駅裏、線路と並行する一本道
小さな沢に架けられた、その名も「えきうらはし」



そのたもとから山に入ってゆく小道があります。


山道を5分も歩くと、眺めの良い山頂に至ります。
地元の方は「丸山」と呼ぶ小山です。
富士川、奥に身延山だ!
おぉ~!身延駅が真下に見える!!



丸山の頂上に、巨大な石碑があります。
身延線創設五十周年の、良い砌に整備された記念塔、そして顕彰碑です。


身延線の前身である富士身延鉄道を開通させ、最終的に国有化させるまで、特に貢献した6人を銅製のレリーフにして、その功績を称えています。
6人は結構な有名人、それこそネットで検索すればすぐに出てくる方ばかりです!
日蓮宗門も関係していそうなので、レリーフの画像とともに、紹介してゆきましょう。


まずはこの方、2代目社長を歴任した堀内良平氏(会社設立当時40才)です。

黒駒出身の堀内氏は、富士北麓を大リゾート地に開拓した第一人者、今の富士急の創始者ですね!
ご先祖様は日蓮聖人とのご縁が深い、代々法華信仰の篤い家系です。

堀内良平氏の伝記「富士を拓く」(塩田道夫著)によると、堀内氏は9才の時、父と初めて身延山登詣をしたそうです。しかし大雨が続き、富士川が増水してしまいました。まだ明治時代のこと、富士川に架かる橋もなく、半月も身延山に足止めされたということです。

(↑富士川難所の一つ、天神ヶ滝辺り)
この苦い経験が原点となっているのでしょう、富士川沿いに鉄道を通し、皆を安全、確実に参詣させたい、という思いを持ち続けていました。
明治の終り頃、富士身延鉄道の構想を最初に切り出したのは、堀内良平氏だったのです。


こちらは富士身延鉄道の初代社長、小野金六氏(会社設立当時58才)です。

韮崎出身の小野氏は、生糸取引で大成功し、東京に出てからは鉄道、銀行など幅広い業界で経営に参加した、著名な実業家だそうです。
当時の甲州財界を動かすならばこの人、キーパーソン的な存在でした。
時間さえあれば日蓮聖人の御遺文を読み耽る、熱心な法華信者だったといいます。


丸眼鏡がお似合いの紳士は、根津嘉一郎氏(会社設立当時50才)です。

今の山梨市出身の実業家、特に全国の鉄道敷設や再建に実績を持ち、「鉄道王」の異名をとったそうです。
衆議院議員としても活躍していたため、この方が持つ政界とのパイプは重宝されたのでしょう。
東武鉄道の社長をしていた時代、利根川水運から鉄道輸送への転換を経験されたようで、同じ川沿いの路線、彼のノウハウや人脈は、余人をもって代えがたい存在でした。


袈裟をかけたこちらの老僧は、身延山79世(会社設立当時70才)の小泉日慈上人です。

加賀出身。三村日修師、新居日薩師などに学び、静岡蓮永寺を経て、祖山の法主様に就かれた方です。


身延山史によると、身延山の御廟域が、現在の静謐なエリアに整備されていったのは、日慈上人の発願がきっかけだとか。ただただ、感謝ですね!


ちょっと話を脱線させますね(鉄道で脱線はマズいか!笑)。
富士身延鉄道がまだ構想段階だった頃、こんなエピソードがあったそうです。

堀内良平氏は当時、甲州政財界の二大巨頭だった小野金六氏、根津嘉一郎氏の協力を、どうしても必要としていました。
(↑身延山聖園にある堀内良平氏銅像)
鉄道敷設は巨大事業となります。
信用もあり、人脈豊富な彼らを発起人に担ぎ上げることができれば、事業は甲州、駿州だけでなく国も巻き込んで、一気に現実味を帯びるはず・・・。


堀内良平氏は早速、両氏の説得に行きました。

すんなりと協力の意思を示してくれた根津嘉一郎氏に対し、小野金六氏は富士川沿いの鉄道敷設に否定的でした。
(韮崎・旧小野家蔵座敷内の小野金六氏胸像)
「あの辺りの急峻な地形は、土木工事が難航するはずだ。費用がかかりすぎて採算が合わなくなるだろう。」

かつて富士川沿いに鉄道を通すという計画はいくつかありましたが、どれも構想段階で頓挫、小野金六氏はそれらにも深く関わってきただけに、言葉には重みがありました。


(↑JR身延線 井出駅付近)
しかし間違いなく小野金六氏はキーパーソン、彼の協力がなければ事業は計画倒れになるだろう・・・。
どうにかして小野氏の首を縦に振らせようと、堀内良平氏は奇策を練りました。


堀内良平氏は、静岡の蓮永寺に小泉日慈上人を訪ねます。
(↑貞松山蓮永寺の山門)
蓮永寺は六老僧・日持上人開創の古刹です。
小泉日慈上人は、ここに檀林を設けて県下のお坊さんを教育したり、また日持上人の伝統なのでしょうか、海外布教にも熱心だったといいます。

当時、小泉日慈上人は、近く身延山の法主様に就任することが決まっており、祖山の未来を案じていたと思われます。


(↑身延山久遠寺の三門)
小泉日慈上人に拝謁した堀内良平氏は、鉄道が実現すれば日蓮宗信徒が身延山を参詣しやすくなること、そうすれば必ずや祖山の繁栄にも寄与できることを力説しました。


四方を山に囲まれた身延山久遠寺、実はつい100年前まで、参詣したくても、富士川沿いの険しい道を草鞋履きで歩いてくるか、急流の富士川を舟で下ってくるかしか、手段がありませんでした。
(昔の富士川 身延町屏風岩辺り:身延山古寫眞帖;身延山久遠寺刊より引用)
全国の信徒を参詣しやすくさせてあげたい、という堀内氏の訴えに、小泉日慈上人も強く共鳴しました。


(↑身延山久遠寺境内)
その上で堀内良平氏は、次期法主様である小泉日慈上人から直々に、協力を渋る小野金六氏を説得してほしい、と要請しました。
小野金六氏は熱心な日蓮宗信徒、祖山への思いは人一倍だったのです。


果たして、堀内良平氏の作戦は成功しました。
(韮崎・旧小野家蔵座敷の鬼瓦)
小野金六氏は小泉日慈上人から何かを感じたのでしょう、この事業を「仏のお導き」とし、一転、全面協力することになりました。それどころか初代社長として、この難事業に全身全霊で尽くしたといいます。

一方、祖山として富士身延鉄道に協力することに対し、当初、宗門内に強い反対があったそうです。
しかし小泉日慈上人は全くブレることなく、協力の姿勢を貫きました。


(↑JR身延線 寄畑駅付近)
会社名、路線名を「富士甲府鉄道」とせず、「富士身延鉄道」としたあたりに、日慈上人、小野氏、堀内氏、お三方の気持ちが、汲み取れるような気がしてなりません。


富士から北上してきたレールが身延まで延伸し、身延停車場が開業したのが大正9(1920)年のことでした。
(↑丸山からJR身延駅を望む)
翌年は宗祖降誕七〇〇年、さらに翌年は大正天皇から日蓮聖人に大師号が宣下されるという良い砌でもあり、鉄道を乗り継いで身延山に上る信徒が急増し、久遠寺も門前町も大いに賑わったといいます。


実は富士身延鉄道、当初は富士川西岸に線路を通す予定でした。
しかしまだ鉄道のメリットすら理解されていなかった時代、地権者達の激しい反対運動に遭い、更に険しい富士川東岸ルートを、選択せざるをえなかったそうです。

今の身延駅が川の東側にあるのは、そういう理由です。


身延停車場が開業した当時、参拝客が身延山に行くには、まず富士川の河原まで下りて行き、船に乗って対岸に渡って、さらに大野山の裾を山越えしたといいます。
(身延停車場と身延橋:目で見る境南の100年;郷土出版社刊より引用)
乗客の利便性を考慮し、富士身延鉄道はまず2年かけて富士川に身延橋を架けました。
橋は大正12(1923)年に開通、鉄道会社が架けたんですね!


(初代身延橋:身延山古寫眞帖;身延山久遠寺刊より引用)
激流にも耐えられるよう、鉄製の頑強な吊り橋だったそうです。
(当初は住民を除き、渡り賃十銭を取ったとか!)


(現在の身延橋:昭和47年完成の2代目らしい)
また大野山(↑画像では左手前の山)にはトンネルが掘られました。
これは身延村の事業でしたが、祖山も多大な資金を援助したそうですよ!


(現在の大野トンネルの北側にある、旧大野トンネル:現在は歩行者専用)
大野トンネルは身延橋完成の前年に開通、これにより身延停車場から身延山総門まで、ほぼフラットな道が確保されたのです。
文永11(1274)年に日蓮聖人によって身延山が開闢されて約650年、これは革命的なことだったと思います!


富士身延鉄道の初代社長として、重責を果たした小野金六氏。
(↑小野金六氏:富士を拓く;塩田道夫著より引用)
長年の心労もあったのでしょう、大正12(1923)年3月11日、72才で亡くなります。
亡くなる直前まで、消えそうな声で、お題目を唱え続けていたといいます。


小野金六氏の訃報を受けた小泉日慈上人は当時83才、それでも自分が小野金六氏に引導を渡すのだと、急いで身延停車場から東京に向かいました。

各界に顔の広かった小野金六氏のこと、参列者の途切れない盛大なお葬式で、小泉日慈上人は大導師を務めました。
ところが3月23日、小野氏のわずか12日後に、小泉日慈上人は遷化されます。


(↑身延山久遠寺総門)
「日蓮が弟子檀那等は 此の山を本として参るべし 此れ則ち霊山の契りなり」(波木井殿御書)

かつて人々が細い山道を歩き、激流の富士川を舟で下り、命がけで辿った身延山への道。
それが今や身延停車場へ鉄道が乗り入れ、信徒は汽車で祖山を参拝できるようになった。


(↑JR身延駅構内)
夢のような光景を見届けたかのように、小野金六氏、小泉日慈上人は、同じ時期に、この世を去られたのです。
信仰の世界では、我々の常識が到底及ばない、不思議な出来事があるものですね。
さらにこのブログを書いている今年は偶然にも、お二人の百遠忌です。他生のご縁が、ちょっぴりあるのかもしれません。

・・・脱線が長かったですね、話を丸山のレリーフに戻しましょう。

こちらは3代目社長を務めた小野耕一氏(会社設立当時29才)です。

小野金六氏の嫡男として、父親の信仰、経営スタンスを継承しました。


小野家のあった韮崎市内、若宮八幡宮の境内にある↑小野金六翁頌徳碑には、父子で韮崎尋常高等小学校に立派な講堂(現在の価値で数億円規模!)を寄付したと刻まれていました。

(↑韮崎若宮八幡宮内 小野金六翁頌徳碑)
自分の手からこぼれる分は地元に還元するというのが、小野家なのでしょう。富士身延鉄道の経営にあたっても、そのスタイルは遺憾なく発揮されました。


最後のレリーフは河西豊太郎氏(会社設立当時37才)、4代目、つまり最後に社長を務めた方です。

現在の南アルプス市出身、誠実な人柄は根津嘉一郎氏からの信頼が厚く、根津財閥の大番頭として活躍しました。
堀内良平氏と年が近く、青年期に南八代村(今の笛吹市)にあった私塾「成器舎」で同門となるなど、知己の関係だったようですね。


(↑JR身延線 甲府駅)
富士身延鉄道が甲府まで延伸し、全線開業したのは昭和3(1928)年のことでした。
会社設立から実に17年、いかに難事業だったかが想像できます。
当時の社長は堀内良平氏、本当に嬉しかったでしょうね!


(↑かつて富士身延鉄道の本社が入っていたJR南甲府駅舎)
ところがこの時代になると世の中は大不況、軍国主義が台頭し始めます。
旅行を楽しむ雰囲気はなくなり、私鉄であった富士身延鉄道の経営も、次第に悪化してゆきます。


(JR身延線 甲斐大島駅)
太平洋戦争直前の大変な時期、堀内氏から社長のバトンを引き継いだ小野耕一氏、河西豊太郎氏の二人が奔走して、昭和16(1941)年、富士身延鉄道は国有化され、現在のJR身延線に至ります。



身延停車場が開業して4年後、堀内良平氏が中心となり、小野金六氏の銅像を建立しました。
参詣客で賑わう身延停車場を見下ろす丸山山頂です。何よりの慰霊となったでしょうね。


残念ながら太平洋戦争により銅像は供出され、長らく↑台座だけが、残されていました。


昭和38(1963)年、富士身延鉄道のスタート区間、加島(富士)~大宮(富士宮)間が開業してから半世紀の砌、残された台座に新しいブロンズを載せたようですね。
功績者6人のレリーフも、その際に設えられたのでしょう。


機関車の動輪、上には・・・鳩かな~?
そして下の植物は、日蓮宗の橘でしょう。

先人達の深い信仰が、鉄道開業を大きく後押しした、という面も確かにあったわけで、僕にはとても象徴的なモニュメントに見えました。


今年の10月14日は、1872(明治5)に新橋~横浜間に鉄道が開通してから150年にあたるそうです。
(↑JR身延線 内船駅付近)
いかなる宗教、宗派であろうと、聖地を実際に参詣できること。
それが人の心を、どれほど豊かに、幸福にするか・・・。
人の信仰は年齢を重ねるにつれ、深まるように、最近特に感じます。

多くのローカル線が存続の危機にある今、庶民、弱者にも祖山参詣の自由をくれたこの路線に、改めて思いを巡らしたいと思い、僕は今回、丸山山頂を訪れました。



6人のレリーフの裏側に、「金六山慰霊塔」として協賛者が刻んだ銅板があり、これを今回のご霊跡のタイトルとさせていただきました。

南無妙法蓮華経。