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あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

発明家 平賀源内

2021-01-24 | 人物忌

 

1月24日は 日本のダ・ヴィンチとも言われた
江戸時代の 発明家 平賀源内 が亡くなった日。

その墓は 台東区橋場2-22-2にある。


説明文には

平賀源内墓 (国指定史跡)

平賀源内は享保13年(1728)、
讃岐国志度浦(現香川県志度町)に
生まれる(生年には諸説ある)。


高松藩士白石良房の三男で
名は 国倫(くにとも)。
源内は通称である。


寛延2年(1749)に家督を継ぎ、
祖先の姓である平賀姓を用いた。

本草学・医学・儒学・絵画を学び、
事業面では成功しなかったが、
物産開発に尽力した。

物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、
毛織物製造などをおこない、
エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、
火浣布(石綿の耐火布)を発明した。

一方で風来山人・福内鬼外などの
号名をもち、

「風流志道軒伝」などの滑稽本や、
浄瑠璃「神霊矢口渡」などの
作品を残している。


安永8年(1779)11月に
誤って殺傷事件を起こし、

小伝馬町の牢内で12月18日に病死、
遺体は 橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。

墓は角塔状で笠付、上段角石に

「安永八己亥十二月十八日 
智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。
後方に従僕福助の墓がある。

総泉寺は昭和3年(1928)
板橋区小豆沢へ移転したが、

源内墓は当地に保存された。

昭和4年に東京府史蹟に仮指定され、

昭和6年には松平頼壽
(よりなが・旧高松藩当主)により
築地塀が整備される。

昭和18年に国指定史跡となった。
 
 平成17年3月 台東区教育委員会 」


 

 

 

 


エンジニア 百瀬晋六 

2021-01-21 | 人物忌


(BS朝日「昭和偉人伝」から)

 

1月21日は 
 エンジニア 百瀬晋六 がなくなった日

百瀬晋六は  
飛行機屋から自動車屋になって
富士重工業のブランド車
”スバル360”  の生みの親


1919(T8)年 
 長野県塩尻市の造酒家の家に生まれる
 旧制松本高等学校を経て
1939(S14)年
 東京帝国大学
 工学部航空学科入学 原動機を専攻

1942(S17)年 
 中島飛行機入社

 その直後  招集 海軍技術士官として
 海軍航空技術廠に配属

 翌年 中島飛行機に派遣
 偵察機「彩雲」用「誉」
 エンジンの改造に従事

1944(S19)年
 除隊し 中島飛行機に復帰

「彩雲」の試作機が完成した時点で終戦

  終戦後 中島コンツェルンの
  財閥解体に伴い 伊勢崎工場を継承した

  富士自動車工業に転じて
  バスボディ架装設計にあたる

1949(S24)年 
   航空機技術を生かした
  フレームレス構造
  リアエンジンバス「ふじ号」を開発し

 日本のバス設計に大きな影響を与え
 後身の富士重工業が

 その後大手バスボディメーカーとして
 発展する礎を築く


1958(S33)年 
 高度な技術を組み込んだ
 先進的な「スバル360」の市販化を実現

 富士重工の四輪自動車メーカー
   としての地位確立に貢献

 2代目レガシィの歴史的な
   商業的成功を見届けて

1997(H9)年1月21日
  逝去 享年77

2004(H16)年
 日本自動車殿堂入り


百瀬が目標とした軽自動車は
大人4人乗り 悪路でも時速60km

昭和33年3月3日デビューし
売出し価格は
425000円だった。

先輩のスバル360に同乗して
遠方までドライブしたことを
思い起こす。

 

 


小説家 織田作之助

2021-01-10 | 人物忌


(日本経済新聞 2004/2/7)


1月10日は 
 小説家 織田作之助が亡くなった「善哉忌」

織田作之助は

1913(大正2)年
 大阪市天王寺区 
 仕出屋の長男として生まれる
1931(昭和6)年
 第三高等学校
 (京都大学教養部の前身)
 文科甲類に合格
1934(昭和9)年
 卒業試験中に喀血し
 白浜温泉へ転地療養 その後復学
1936(昭和11)年
 出席不足で退学
1935(昭和10)年頃
 宮田一枝と同棲生活へ

 同時期 作家活動を開始
 当初は劇作家志望で
 戯曲「饒舌」を発表したりしたが

 スタンダールに影響を受けて
 小説家へ志向を転換

 青山光二らと共に
 同人誌「海風」を創刊
1938(昭和13)年
 
処女作「雨」を発表して
 武田麟太郎の注目を受ける
1939(昭和14)年 
 帰阪し業界新聞の勤務を経験
 一方で作家活動も続け
「俗臭」を発表
 
室生犀星の推薦で
 芥川賞候補作となって注目される

 「夫婦善哉」が 改造社の
 第一回文芸推薦作品となり

 これを機に本格的な作家生活へ
1943(昭和18)年
 「聴雨」「勝負師」

1944(昭和19)年
 「木の都」発表

1946(昭和21)年
 「可能性の文学」は
 将棋棋士坂田三吉を題材

 12月 結核による大量の
 喀血を起こし入院

1947(昭和22)年1月10日
 死去 享年33

         (参照:ウィキペディア)



「善哉忌」にもなっている
作品「夫婦善哉」は
映画化(豊田四郎監督 1955年)され
日本映画ベスト150でも
49位に選ばれている。

森繁久彌と淡島千景の
掛け合いが秀逸

 

 

 


作曲家 山田耕筰

2020-12-29 | 人物忌


(BS朝日「昭和偉人伝」から)

12月29日は 
作曲家・指揮者 
山田耕筰がなくなった日

山田耕筰は 

日本の西洋音楽の分野で
初めて本格的な活動を行った
作曲家・指揮者。

大正から昭和の時代にかけ
日本における西洋音楽の
基礎を作るうえで

創作と演奏の両面に貢献した。


1886(明治19)年
 東京市本郷(現在の東京都文京区)
 旧板倉藩士だった
 医師の父の下に生まれる。

1896(明治29)年
 10歳の時に実父を亡くし、
 その遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)
 あった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)
 
に入館し、13歳まで施設で苦学する。

1899(明治32)年 
 姉の夫のエドワード・ガントレットに
 西洋音楽の手ほどきを受ける。

1904(明治37)年 
 東京音楽学校に入学し
 予科から本科声楽科、研究科へ。

1908(明治41)年 
 東京音楽学校(後の東京芸術大学)声楽科を卒業

1910(明治43)年 3年間、
 三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を
 受けてドイツ・ベルリン王立芸術アカデミー
 
作曲科に留学し、
 マックス・ブルッフなどに学ぶ。
 ベルリン高等音楽学校に留学し、
 ブルッフらに作曲を師事

1914(大正3)年
 日本最初の交響楽団である
 東京フィルハーモニー管弦楽団を
 創設して、自作を指揮、発表。

1917(大正6)年 
 米国に滞在(1年半)して
 カーネギー・ホールで自作の
 管弦楽曲による2度の演奏会を開催。

1920(大正9)年 
 日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興す、

1922(大正11)年 
 北原白秋と共同編集の月刊
 「詩と音楽」誌を創刊、連作歌曲を発表。

1924(大正13)年
 日本交響楽協会
(後のNHK交響楽団の母体)を設立

1926(大正15)年 
 定期演奏会を開始、
 また、指揮者として全国を巡演、
 交響楽の普及にも努める。

1930(昭和5)年 
 耕作から耕筰に改名

1936(昭和11)年
 フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章、

1937(昭和12)年 
 相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に、

1940(昭和15)年 
 演奏家協会を発足させ、自ら会長に

1942(昭和17)年 
 帝国芸術院会員、

1944(昭和19)年 
 日本音楽文化協会会長

1948(昭和23)年 
 脳溢血で左半身不随となるが再起する、

1954(昭和29)年 
 文化功労者、

1956(昭和31)年
 文化勲章受章

1963(昭和38)年頃まで
 作曲活動を続け、教科書の
 編纂などにもたずさわり、

 特に“日本語の美しさ”
 “日本独自の歌曲”を求め
 日本の洋楽普及に貢献する。

1965(昭和40)年12月29日
 世田谷区の自宅で、
 心筋梗塞により79歳で死去

 

作品には オペラや管弦楽曲から
映画音楽まではば広いジャンルにわたる。

また歌曲や童謡の作曲にも取り組む。



〇北原白秋の詩

「からたちの花」
「この道」
「ペチカ」
「待ちぼうけ」
「砂山」
「あわて床屋」

〇三木露風の詩
「赤とんぼ」
「野ばら」

北原白秋とのかかわりは深く
映画「この道」(2019年)にもなっている。

 

 

 

 

 

 


永田雅一と東京スタジアム

2020-12-20 | 人物忌


1974当時 (Web資料から)


現在 (googleから)

 

前回に次いで 
千住製絨所跡に触れる。

千住製絨所跡の説明文

「 この付近一帯には、
明治12年(1879)に創業された
官営の羊毛工場である
千住製絨所があった。

工場建設用地として強固な基盤を持ち、
水利がよいことから、
隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地
(現南千住6-38~40、45付近)が選定された。

敷地面積8,300余坪、
建坪1,769坪の広大なものであった。

明治21年(1888)に陸軍省管轄となり、
事業拡大とともに、
現荒川総合スポーツセンター
あたりまで敷地面積が拡張された。

構内には生産工場にとどまらず、
研究施設や福利施設などが整備され、
近代工場の中でも先進的なものであった。


戦後民間に払い下げられ、

昭和37年(1962)、敷地の一部は
野球場「東京スタジアム」となり、
人々に親しまれてきた。

一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
     荒川区教育委員会」

 

説明文にあるように
この跡地は プロ野球の
「東京スタジアム」に
利用されていた時期があった。

東京スタジアムは
千葉ロッテマリーンズの前身にあたる
毎日大映は 当時後楽園球場を
レンタルして本拠地としいたが 
オーナーだった
永田雅一(1906-1985)は
私財を投じて 
自前の本拠地球場の建設を

この南千住の大和毛織工場跡地に決定した。

建設工事は
1961(昭和36)年7月に着工し

わずか 1年足らずの翌年の5月31日に竣工し
「東京スタジアム」と命名される。

球場は 後楽園球場より明るい照明が
設置され「光の球場」とも呼ばれ

二層式のスタンドやスロープを備え
3万5千人収容の斬新的な球場であった。

施設の運営管理は
かつてオリオンズの
オーナー企業だった
大映の
関連子会社である
㈱東京スタジアムが行っていた。

しかし 成績も
7年連続 Bクラスと低迷し 
観客動員が年々減少し
その経営は 破綻し
1972(昭和47)年限りで 閉鎖され
1977(昭和52)年に解体された。

ただ この球場の
ハイライトシーンがあった。

1970(昭和45)年10月7日
ロッテ・オリオンズが
10年ぶり リーグ優勝を
この球場で遂げた。


その優勝の瞬間 
グランドになだれ込んだファンは
濃人監督(1915-90)や選手より先に

永田オーナーを胴上げしていた。


現在の跡地は
大半が荒川区の管理する
「荒川総合スポーツセンター」
となっており 体育館や
軟式野球場などがある。
一部は 南千住警察署

都民住宅の敷地となっている。

 

 

 


製絨所所長 井上省三

2020-12-14 | 人物忌


  東京都荒川区南千住6

 

12月14日は 製絨所所長
井上省三 が亡くなった日

井上省三 は 
官営工場千住製絨所初代所長で
旧長州藩士 萩藩厚狭毛利氏家臣
奇兵隊隊長として 倒幕に活躍していた。

1871(明治4)年
 北白川宮能久親王に随行して
 ドイツのベルリンに留学

   兵学から工業に転向し猛職技術を修得
1875(明治8)年
 帰国し 内務省勧業寮へ配属

   その後 再度の欧州留学を行う
1879(明治12)年
 官営千住製絨所の初代所長に就任

1886(明治19)年
 病死 享年42

”日本毛織物工業の父”
とも呼ばれている。

説明文には

「 井上省三(いのうえせいぞう)君碑
 この碑は、官営工場千住製絨所初代所長
 井上省三の功績を後世に伝えるものである。

 
 省三は、長州(現山口県)出身で、
 木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し
 毛織物の技術を修得した。

 
 明治12年の千住製絨所の開業、
 日本羊毛工業の発展に尽力したが、

 明治19年に42歳の若さで死去。
 
 明治21年に製絨所の職員・職工の有志が、
 省三の偉業をしのびこの碑を建立した。

 上部の題字と撰文は、省三と同郷で、
 交遊のあった、
後の外務大臣青木周蔵と
 東京農林学校(後の東大農学部)
 教授松野礀による。

         荒川区教育委員会 」

もう一つの説明文には

「明治12年(1879)この地に官営の
 千住製絨所が設立された。

 それまで輸入に頼っていた
 羊毛製品の国産化を意図して
 建てられたもので、初代所長には
 ドイツで毛織物の技術を学んだ
 井上省三(1845〜1886) を迎え、
 ここに日本の羊毛 工業が始まった。

 
 昭和20年操業が停止するまでの
 70年間、大規模な毛織物の製造が
 行われ日本の羊毛工業の発展に寄与した。

 
 地域の人々から「ラシャ場」と
 呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、
 荒川区が近代工業地帯として
 発展するきっかけとなった。」

 

 

 


映画監督 小津安二郎

2020-12-12 | 人物忌

(日本映画ベスト150から)

 

12月12日は 
映画監督・脚本家 
小津安二郎が亡くなった日

何と小津の誕生日 
還暦を迎えた日であった。

小津 安二郎は
“小津調”と称される独特の映像世界で
優れた作品を次々に生み出し

世界的にも高い評価を得ている。

その特徴は
 ・
ローポジション
 ・
50mm標準レンズ 
 ・イマジナリーライン
と言われている。

1903(明3)年
 東京深川区万年町
 (江東区深川1丁目)に生まれる

1913(大2)年
 父の故郷・三重県飯南郡神戸村
 (松坂町→松阪市)へ転居

      映画「シヴィリゼーション」を
 見て映画の道を志す
1916(大5)年 
 三重県立第4中学校
 (宇治山田中学校)入学 寄宿舎住まい
1921~22(大10~11)年
 進学受験に続けて失敗 代用教員に
1923(大12)年
   代用教員を辞して妹と上京
 一家が移転した東京市深川区和倉町へ
 松竹キネマ蒲田撮影所に
 撮影助手として入所
 関東大震災で家が焼失
1924(大13)年
 本家肥料問屋廃業で
 小津地所部の事務所兼自宅に移転
1927(昭2)年 
 監督に昇進 
 第1回作品「懺悔の刃」の
 撮影中に予備役で入隊
1932~34(昭7~9)年
 「生まれてみたけど」
 「出来ごころ」「浮草物語」で

 3年連続のキネマ旬報ベストワンに
 父寅之助死去
1936(昭11)年 
 「一人息子」製作
 母と弟と芝高輪に転居
1942(昭17)年
 「父ありき」で第1回日本映画賞受賞
1943~45(昭18-20)年
 軍報道部映画班員として南方へ従軍

 主にシンガポール滞在
1946(昭21)年
 疎開中の母のもと
(千葉県野田市)に帰還
1947~62(昭22-37)年
 戦後初の作品「長屋紳士録」(47)や

 “小津調”の代表作「東京物語」(53)
 など15作を製作・公開
1952 (昭27)年 
 大船撮影所で火災があったため
 母を連れて鎌倉山之内に転居

 ここを終の棲家とした。
1958(昭33)年 
 代表作「東京物語」が
 ロンドン国際映画祭にて
 サザーランド賞を受賞
1962(昭37)年
 最愛の母あさゑ(84歳)が死去
1963(昭38)年 
 築地の国立がんセンターに入院
 還暦を迎えた12月12日
 ガンにて死去 享年60

「日本映画ベスト150」の
 監督ベスト10で2位に選ばれているが
2012(平24)年 
 英国映画協会の映画監督が選ぶ
 世界の映画100では
 ベスト1に選ばれている。


(NHK「歴史秘話ヒストリア」から)

 

“小津調”とは “オズの魔法” とも

・ローアングル 
・50mm標準レンズ
・イマジナリーライン
・回想シーンは入れない


また 小津組として 
同じ俳優・女優を繰り返し
キャスィテングし

日本の伝統的な
中流家庭を描いている。

   (参考:ウィキペディア 他)

 


剣客 斎藤弥九郎

2020-12-06 | 人物忌


千代田区九段北 靖国神社 境内

 

12月6日は 
剣客 斎藤弥九郎が亡くなった日

斎藤弥九郎は 幕末の剣術家。

1798(寛政10)年 
 越中国(富山県)氷見郡仏生寺村の
 郷士の長男として生まれる。

1812(文化9)年
 志をたて江戸へ神道無念流の
 岡田十松吉利に入門

 同門の江川太郎左衛門
 藤田東湖らと親交を結んだ。

1826(文政9)年
 29歳で独立し 江川の援助で
 九段下俎橋畔に道場 練兵館を開いた。

1835(天保6)年
 江川が伊豆韮山の代官になると
 その手代として文武の指導
 道路河川の改修,品川御台場の
 築造などに当たった。

1838(天保9)年
 道場を 三番町に移した。

 このころ渡辺崋山とも知り合い
 思想的に尊王攘夷派へと
 傾いていった。

 長男の 新太郎(2代弥九郎
 1828~88)が萩で長州藩士の
 剣術指導をしていたことから

 練兵館には長州や薩摩の
 志士が多く集まり
 門下三千余人ともいわれた。
1868(慶応4)年
 明治政府に出仕し
 会計官権判事となって大坂に赴任
1871(明治4)年
 死去  享年74

境内の説明文には

「 幕末志士ゆかりの練兵館跡

 この練兵館(れんぺいかん)は、
 神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣客
 斉藤弥九郎(さいとうやくろう)により、
 それまで俎(まないた)橋付近にあった
 練兵館が 天保9年(1838)の火事で
 類焼したため、この地に再建され、
 その後約30年間隆盛を誇った。 

 練兵館には、高杉晋作、
 桂小五郎(木戸孝允)、
 品川弥次郎など幕末の志士が
 多数入門し、特に桂小五郎は
 剣の腕前も優れ、
 師範代もつとめている。

 また、伊藤俊輔(伊藤博文)も
 出入りしていたといわれる。

 なお、この練兵館は
   千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、
 桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館
 とともに、幕末三道場といわれている。」

 
 (NHK「英雄たちの選択]から)

 

 

 

 

 


小説家 海音寺潮五郎

2020-12-01 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/11/15)

 

12月1日は 
小説家 海音寺潮五郎が亡くなった日

 

海音寺潮五郎は

1901(明治34)年
 現在の鹿児島県伊佐市に生まれる

 本名は 末冨 東作
1923(大正12)年
 國學院大學高等師範部に入学

1926(大正15)年
 國學院大學卒業後   中学校の教師に

1929(昭和4)年
 サンデー毎日の懸賞小説に
    応募「うたかた草子」が当選

1932(昭和7)年 
    サンデー毎日創刊10周年記念
    長編小説に応募「風雲」が当選

1934(昭和9)年
 サンデー毎日大衆文芸賞を受賞

 教師の職を離れ 作家に専念する
1936(昭和11)年
  「天正女合戦」と「武道伝来記」が
   第3回直木賞受賞

1953(昭和28)年
  「蒙古来る」を読売新聞に連載

1958(昭和33)年 
    直木賞の選考委員就任

1959(昭和34)年
  「武将列伝」をオール讀物に連載開始
 
1968(昭和43)年
 第16回菊池寛賞受賞

1969(昭和44)年
 新聞・雑誌からの依頼に
  応じないという引退宣言

1970(昭和45)年
  直木賞選考委員を辞任

1973(昭和48)年
 文化功労者

1977(昭和52)年
 日本芸術院賞受賞

1977(昭和52)年
 脳出血で倒れ 心筋梗塞を
   併発して逝去 享年76

平安時代の「平将門」 
鎌倉時代の「蒙古来る」
戦国時代の「天と地と」

幕末の「西郷と大久保」
などと  時代を問わず
壮大なスケールの長編小説を発表した。


一方「武将列伝」「悪人列伝」
「赤穂浪士」など 
史伝作家の第一人者でもある。


 


   (長野市川中島)


「天と地」は 
週刊朝日に連載(1960-1962年)

NHK大河ドラマ(1969年)
角川映画(1990年)にもなる。

 

 

 


浮世絵師 小林清親

2020-11-28 | 人物忌


(TOKYOMX アートステージから)

 

先日(11月7日) 当ブログで
版画家 川瀬巴水(1883-1957)
に触れたが

11月28日は 明治時代の浮世絵師
小林清親  が亡くなった日

小林 清親(きよちか)は
江戸の木版技術を継承して

最後の浮世絵師の一人といわれた。

1847(弘化4)年 
 江戸本所 御蔵屋敷頭取の
 子として江戸に生まれる。

1862(文久2 )年 
 父の死により15歳で家督を相続。
 幕臣として維新の動乱期を過ごす。
1874(明治7)年
 画学の道へ。

1876(明治9)年 
 従来の浮世絵に光と陰影を
 取り入れた「光線画」と
称される
 風景版画を発表し人気を博す。

1884(明治14)年
 「清親ポンチ」と呼ばれる
 戯画・風刺画を新聞などに掲載する。

1894(明治27)年
  「清親画塾」を開く(~1896年)
1915(大正4)年
 死去 享年69

 

*光線画とは
浮世絵の一種。
明治時代初期に
小林清親によって
始められた新しい様式の
名所絵や風景画。

同時期の他の浮世絵師たちが、
明治期特有の毒々しい色彩を
使用していたのと対照的に
清親らは文明開化の波に晒された
江戸から東京へ移りゆく
都市景観を、光と影を
効果的に用いて
新しさと郷愁とが同居した
独自の画風で描き人気を博した。



          (Web資料から)

*ポンチ絵
 風刺や寓意を込めた
こっけいな絵や漫画
また 概略図や構想図で製図の
下書きとして作成するものや、
イラストや図を使って
概要をまとめた企画書などのこと。

           (ウキペディア他)


小説家 三島由紀夫

2020-11-25 | 人物忌


(1970/11/25 朝日新聞夕刊)
 写真の注意書きに“二人の首がある“とある。


11月25日は
小説家 三島由紀夫が
亡くなった憂国忌

その死の衝撃は 世間を騒がせた。

独自の組織「楯の会」の
メンバーと共に

陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
(現 防衛省)の総監室を占拠
籠城し 
バルコニーでの演説の
後に自決した。

その日が 1970年であるので 
今年で丁度50年 半世紀なる。

三島由紀夫は

本名  平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925(大正14)年1月14日
 現・東京都新宿区
 四谷4丁目に生まれる。

1931(昭和6)年
 学習院初等科に入学 

1941(昭和16)年
 「花ざかりの森」を書き上げる。
1944(昭和19)年
 高等科を卒業
 東京大学法学部に推薦入学

 大学卒業後  大蔵省に
 入省するも 9ヶ月で退職 

1949(昭和24)年
 「仮面の告白」を発表

1958(昭和33)年
 川端康成夫妻の媒酌で
 杉山瑤子(ようこ)と結婚

1970(昭和45)年11月25日
 自決 享年45

 

〇代表作
「仮面の告白」(1949年)
「潮騒」 (1954年)
「金閣寺」(1956年)
「鹿鳴館」(1956年)
「鏡子の家」(1959年)
「憂国」 (1961年)
「サド侯爵夫人」(1965年)
「豊饒の海」(1965年-1971年)

 


興行師 川上音二郎 2

2020-11-13 | 人物忌


千代田区三崎町2

 

前回 川上音二郎 に触れたが


千代田区三崎町に開いた
「川上座」跡がある。

 

説明文には

「 川上座(改良座)跡 

 川上座は 明治29年(1896)6月、
新派劇の祖といわれる
川上音二郎によって建てられ、
開場した劇場である。

建坪は、212坪・桟敷定員150
・土間577、大入場354人で
立見場はなかったと記録されています。

川上音二郎は オッペケ節で
自由民権思想の普及・歌舞伎劇に
対抗して壮士芝居(新派劇)を
興したことで有名です。

また 女優 川上貞奴は
彼の妻であることは 周知のとおりです。

 
同34年1月から改良座と改称しましたが

36年4月6日失火して焼失、
以後 再建されませんでした。


 なお、三崎町一帯は
三崎座(現三崎町2丁目11番)
・東京座(現三崎町3丁目3番)   
などがあって、三崎三座と称され、
東京の演劇界の
一つの中心として賑わいました。

 
  平成2年3月 千代田区教育委員会  」

 

 


興行師 川上音二郎

2020-11-11 | 人物忌


上野谷中霊園にある顕彰碑
(台座上の銅像は戦時中の
 金属拠出により撤去されている)

 

11月11日は 明治時代の
  興行師 芸術家 新派劇の創始者

 川上音二郎 が亡くなった日

川上音二郎は 

1864(文久4)年
 博多の藍問屋に生れる。本名音吉
    維新で家業が没落
    継母とも折り合いが悪く
1878(明治11)年
    博多港から大阪に渡り歩いて
    東京まで行き  給仕や巡査などの
    職を転々としたのち
    郷里で政治運動に投じ
    自由童子と名乗って
    過激な言動により
    検挙投獄数十回にもなった。
    
   やがて  政談演説が禁止されると
    落語家桂文之助に入門
    浮世亭○○の芸名で大阪の寄席で
    時局風刺の漫談を演ずる。

1887(明治20)年
 京都の中村駒之助一座で
    川上音二郎の芸名で俳優となる。

   その後 書生芝居の一座を組んで
    巡業を始め東京の開盛座や
    中村座公演を果たしたのち
    自由民権運動をからませた
    羽織袴に陣羽織姿にハチマキ
   手には日の丸の軍扇という
   出で立ちで唄った
  「オッペケペー節」が一世を風靡した。

 1903(明治36)年
 日本で初めてのセリフ劇
  「オセロ」を日本バージョンで上演する。
    
  以後「ハムレット」「ヴェニスの商人」など
   翻訳劇を公演し演劇界に新しい潮流を作った。
1908(明治41)年
 興行師として成功し
   大阪市北浜に
 洋風の劇場・帝国座を開場する。

   同時に帝国女優養成所も創設。
1910(明治43)年
 福岡博多区に洋風劇場の
 「博多座」(初代)を建設。

1911(明治44)年11月11日
    急性腹膜炎により
    帝国座の舞台上で死去。享年48。



オッペケペー節の第一声

「権利幸福きらいな人に/
自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい/
オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー/
堅い裃角とれて/
マンテルズボンに人力車/
いきな束髪ポンネット/
貴女や紳士のいでたちで/
うわべの飾りは立派だが/
政治の思想が欠乏だ/
天地の真理がわからない/
心に自由の種をまけ/
オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー」

 

 

 

 

 


版画家 川瀬巴水

2020-11-07 | 人物忌


川瀬巴水「増上寺の雪」(Web資料から)

 

11月7日は 
版画家 川瀬巴水が亡くなった日

川瀬巴水は

1883(明治16)年 
 糸組物職人の長男として
 現在の東京都港区で生まれる。

1908(明治41)年 
 父親の家業を継ぐが、
 画家になる夢を諦めきれず、

 日本画家・鏑木清方(1878-1972)の
 門を叩いたが、洋画家の道を
 進められた。

 岡田三郎助(1969-1939)から
 洋画を学ぶが挫折を経験

1910(明治43)年
 清方に再度入門を申し出許され
 「巴水」の画号を与えられる。

1918(大正7)年 
 伊東深水(1898-1972)の版画
 「近江八景」に影響を受けて
 版画家に転向し 
新版画を唱える
 渡辺庄三郎(1885-1962)の下で

 塩原三部作「塩原おかね道」
 「塩原畑下り」「塩原しほがま」
を制作、
 数々の作品を渡辺版画店より発表し始める。
 「旅みやげ第一集」(1920)
 「東京十二題」「旅みやげ第二集」(1921)
1923(大正12)年 
 関東大震災で
写生帖188冊をはじめ、
 自身の画業の成果をすべて失う。
 
渡辺庄三郎の励ましを受けて
 
「日本風景選集」(1926)
 「旅みやげ第三集」(1929)
 「東京二十景」(1930)
 「日本風景集東日本編」(1936)
1952(昭和27)年
 「増上寺の雪」が
 伊東深水「髪」と共に
 無形文化財技術保存記録の
 作品に認定された。

 この二点セットで日本を訪れた
 国賓の方々に日本政府から
 プレゼントされてもいた。
1953(昭和28)年
 文化財保護委員会から
 伝統的木版技術記録の
 保持者に選ばれた。
1957(昭和32)年
 自宅において胃癌のため死去。
  享年74

巴水の独自の叙情性を持つ
風景版画は“昭和の広重”ともいわれ
欧米でも高く評価されて人気があり
北斎・広重と並び称され
頭文字から風景画の
3Hと呼ばれている。


 (テレビ東京「美の巨人たち」から)

 


 (テレビ東京「美の巨人たち」から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

川瀬巴水「東京二十景」(テレビ東京「美の巨人たち」から)

 


幕末志士 橋本左内

2020-11-01 | 人物忌


 荒川区南千住6丁目

 

11月1日は 
幕末志士 橋本左内 が亡くなった日

橋本左内は 幕末の越前福井藩士

1834(天保5)年3月
 福井藩奥外科医の子として生まれる。
1848(嘉永元)年6月
 15歳の時「啓発録」を著す。
1854(安政元)年3月
 江戸に遊学。
 坪井信良、杉田成卿に蘭学を学ぶ。
 緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、
   藤田東湖や西郷隆盛ら他藩士と
  交友を結ぶ。
1857(安政4)年
 藩主松平慶永(春嶽)の側近として
 藩政改革を行う。
 また 松平慶永の意を受け、
 一橋慶喜の将軍擁立のため活動を始め
 他藩士や幕閣の間を奔走する。
1858(安政5)年
 井伊直弼が大老に就任し一橋派を
    弾圧する安政の大獄で。
 慶永は隠居・閉門、左内は謹慎。
 数度の尋問を受ける。
1859(安政6)年
 一藩士が将軍継嗣に
   関わったことが問題とされ、
 小伝馬町の牢屋敷において斬刑となり、
 小塚原回向院へ埋葬される。
  25歳の若さであった。

何故 套堂(さやどう)がここに?

説明文に

「橋本左内の墓旧套堂復元と
   福井県との交流を記念して
 
「橋本左内の墓旧套堂」
(区登録有形文化財〔歴史資料〕)は、
もと回向院(南千住5丁目)の
境内入口にあったものです。
平成18年、同院の境内整備の際、
荒川区に寄贈されることになり、
同21年、ここに復元・保存されました。
 
南千住には、この套堂ばかりではなく、
福井県ゆかりの史跡や
幕末の史跡が多く所在しています。
回向院境内北側に新たに設けられた
史跡エリアには、
福井藩士橋本左内の墓、
小浜藩士梅田雲浜の墓があり、
また、同院内には、
小浜藩医杉田玄白らの
「ターヘルアナトミア」の翻訳と
「解体新書」の刊行を記念して
つくられた観臓記念碑があります。

これらは、地域の人びとにとって
身近なものであり、福井県にとっても
重要な史跡となっています。
多くの方々のご協力を得て、
この地に復元が叶った今、
「橋本左内の墓旧套堂」は
地域の歴史を伝えるモニュメントとして、
また荒川区と福井県との交流の場として、
新たなスタートを切ることになりました。
  
 平成21年3月26日 荒川区  」


 説明文の写真