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あかない日記

写真付きで日記や旅行・趣味を書き留める

精神科医 神谷美恵子

2020-10-22 | 人物忌


 NHKTV「100分de名著」(2018/05放映)から

 

10月22日は 
精神科医師 神谷美恵子が
亡くなった日。

 

神谷美恵子は

1914(大正3)年1月12日
岡山県に、前田多門・房子の
長女として生まれる。
 ジュネーブの
 ジャンジャック・ルソー
   教育研究所付属小学校、

 ジュネーブ国際学校 、自由学園、
   成城高等女学校に学ぶ。

1935(昭和10)年
 津田英学塾卒業
   学生時代に
   多摩全生園聖書研究会に
   オルガン奏者として関わり

   ハンセン病患者のために
 働くことを志す。

  その後  コロンビア大学の
   医学進学課程に進む。

1944(昭和19)年
   東京女子医学専門学校卒業

   インターン時代に長島愛生園で実習を経験
   東京帝国大学医学部精神科医局で研究
1952(昭和27)年 
 大阪大学医学部精神科入局

1960(昭和35)年
 「らいに関する精神医学的研究」により医学博士

1957(昭和32)年
 長島愛生園精神科医師(非常勤)

1960(昭和35)年
 神戸女学院大学教授

1963(昭和38)年
 津田塾大学教授

1972(昭和47)年
 長島愛生園精神科医師を辞める。

1976(昭和51)年
 津田塾大学退職

1979(昭和54)年
 10月22日死去 享年65


上皇后美智子様が
皇太子妃のころにも
相談役なっている。


NHKTV「100分de名著」

 

当方もそれなりの歳を重ねて
「生きがい」について
 あらためて思いめぐらすが

チコちゃんに叱れるの
“ボーっと生きてんじゃねーよ!”
の口ですね
でも “日々是好日”でいければと・・・

 

 


小説家 原田康子

2020-10-20 | 人物忌


 (朝日新聞1995/11/23)

 

10月20日は 
小説家 原田康子が亡くなった日。

前回触れた 小説家 三浦綾子に続き
原田康子は 三浦の死後 
10年目の命日が同じ月である。

そして 共通する点が多い。
女性小説家であり北海道と同郷
両者とも無名からのデビューであり
作品が女性を主人公に
人間・家庭問題として
ベストセラー 
大旋風となり映画化された。


原田康子は

1928(昭和3)年
 東京生まれ
 生後1年で
 父親の赴任地である釧路に移住

 釧路市立高等女学校を卒業
1945(昭和20)年 
 東北海道新聞の記者となる

1951(昭和26)年
 同僚と結婚

1955(昭和30)年 
 文学同人誌「北海文学」で連載していた

 長編「挽歌」が
「群像」編集長の目にとまる

1956(昭和31)年 出版されて
 72万部のベストセラーとなり
 女流文学賞も受賞

1957(昭和32)年
  同名で映画化され
 大きな反響を呼ぶ

1999(平成11)年
 「蝋涙」で再び女流文学賞

2003(平成15)年
 「海霧」で第37回吉川英治文学賞を
 それぞれ受賞

 北海道文化賞を受章

また競馬 将棋を趣味とし
エッセイ集「はなれ駒あそび駒」や

1998(平成10)年の将棋王座戦の
観戦記を執筆し 
翌年 将棋ペンクラブ大賞
(観戦記部門賞)を受賞している。

2009(平成21)年 
 肺炎のため札幌市内病院で逝去



挽歌の舞台となった幣舞橋

 

 

 

 


小説家 三浦綾子 2

2020-10-15 | 人物忌


( 朝日新聞 1964/7/10 )

 

前回 小説家 三浦綾子 に続いて

小説家へのデビュー作
「氷点」について触れる。

1963年に朝日新聞による
大阪本社創刊85年
・東京本社75周年記念事業の

1000万円懸賞小説公募に
小説「氷点」を投稿し当選する。

作品「氷点」は 
1964年12月から翌年11月にかけて
朝日新聞朝刊に
連載された。

内容は 継母による継子いじめ
義理の兄妹間の恋愛感情など人間関係

加えて  キリスト教の概念 “原罪” が
重要なテーマとして背景となっている。

つまり ”氷点” は 
人間には 心が凍り付く瞬間がある
ことを表している。

1965年に朝日新聞社より出版され
71万部を売り上げている。

なお当時の1000万円は
現在の物価指数に換算すれば

4000万円に相当する。
 


  (Web資料から)


“氷点”は 大ベストセラー
となり映画化されている。

映画「氷点」(1965年・大映)
監督:山本薩夫 脚本:水木洋子
配役:若尾文子(夏枝)大楠道代(陽子)

また ラジオ テレビでも放送されている。

なお テレビ番組 “笑点”
(1966年放送開始)の題名は

この氷点から付けたとも言われる。

 

 


小説家 三浦綾子

2020-10-12 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/10/25 )

10月12日は 
小説家  三浦綾子が亡くなった日

三浦綾子は

1922(大正11)年4月
    北海道旭川市で生まれる。
1939(昭和14)年
 旭川市立高等女学校卒業後

   7年間小学校の教師を務め
1946(昭和21)年 退職
  この年肺結核となり
  のち脊椎カリエスを併発して
  13年間闘病生活を送る。

  この間  病床でキリスト教の
   洗礼を受ける。

1964(昭和39)年
 「氷点」が 朝日新聞1000万円
   懸賞小説に当選し

 12月から翌年11月にかけて
 「朝日新聞」紙上に連載される。



1994・平成6年
   
北海道新聞文化賞
      (社会文化賞 第48回)

1996・平成8年
   井原西鶴賞(第1回)「銃口」
   北海道文化賞
1997・平成9年
   アジア・キリスト教文学賞(第1回)
   北海道開発功労賞

1999・平成11年
  キリスト教功労者賞

1999(平成11)年10月12日 死去


北海道上川郡和寒町塩狩


「長野政雄氏殉職の地」

 

碑の声明文には

「明治42年2月28日夜、
   塩狩峠に於て、最後尾の客車
  突如連結が分離、逆降暴走す。
 
乗客全員、転覆と恐れ色を失い
  騒然となる。時に乗客の一人、
  鉄道旭川運輸事務所庶務主任、
  長野政雄氏
乗客を救わんとして、
  車輪の下に犠牲の死を遂げ、
  全員の命を救う。

  その懐中より、クリスチャンたる
  氏の常持せし遺書発見せらる。

「苦楽生死均しく感謝、
  余は感謝してすべてを神に捧ぐ」
 
右はその一節なり 三十才なり 」


塩狩峠記念館

 

三浦綾子旧宅を復元
「氷点」執筆の部屋や
小説・映画「塩狩峠」に
関する資料を展示されている。

 

 

 


早船ちよ

2020-10-08 | 人物忌


     (日本経済新聞 2003/10/4)


 (Web資料から)

 

10月8日は 小説家 児童文学作家
早船ちよ が亡くなった日。


早船ちよ  は

1914(大正3)年 
 岐阜県古川町に生まれ  高山市で育つ。

 小学校を卒業して東洋レーヨン
 
片倉製糸などに働き
 その間に 文学に関心を抱く。
1934(昭和9)年  作家 井野川潔 と結婚する。
1962(昭和37)年  埼玉県浦和市に
 夫とともに児童文化の会を設立

 進歩的な児童文化運動を推進する。

作品に 鋳物の街 埼玉県川口を
舞台にした青春小説
「キューポラのある街」で
日本児童文学者協会賞

自伝的な「峠」「湖」「街」
「冷たい夏」「炎群の秋」
「熱い冬」の六部作(1979)など
また

「七ヒキノコガニ」(1941)
「ポンのヒッチハイク」(1962)
「春のシュトルム」(1974)
などの 児童文学作品がある。

その後 75歳まで小説  随筆
童話と幅広い執筆を続けた。

2005(平成17)年  死去  91歳

社会批判の眼と人間信頼の心に
裏打ちされた作品が多いといわれる。


特に「キューポラのある街」は
1962(昭和37)年に映画化された。

監督・脚本:  浦山桐郎
脚本: 今村昌平
出演 : 吉永小百合  東野英治郎   浜田光夫

この映画を観て
今井昌平監督の
映画「にあんちゃん」(1959)と被る。

今井監督は キュポラでは脚本を担当し 
昭和30年代の世相を背景に
在日朝鮮人にも関わるからか? 

 


遠藤周作 周作忌

2020-09-29 | 人物忌


 (日本経済新聞 2003/6/14)

 

9月29日は 小説家 遠藤周作が
亡くなった周作忌。

遠藤周作は

1923(大正12)年  東京・巣鴨で誕生
  父の仕事のため満州で幼少時代を過ごす。
  帰国後  12歳でカトリックの洗礼を受ける。
 上智大学を中退 
1948(昭和23)年  慶應義塾大学文学部仏文科卒業
1950(昭和25)年  渡仏。帰国後批評家として活動
1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞
1957(昭和32)年  小説「海と毒薬」を発表
1958(昭和33)年  新潮文学賞、毎日出版文化賞を受賞
   マルキ・ド・サド研究のため渡仏
1960(昭和35)年  体調を崩し入院
  手術を繰り返す。

1963(昭和38)年  転居した町田市玉川学園の 家を
「狐狸庵」と名づけ

「狐狸庵山人」の雅号を使って
  軽妙なエッセイを継続的に発表。

1966(昭和41)年「沈黙」で谷崎潤一郎賞受賞。
 
以降「イエスの生涯」
            (国際ダグ・ハマーショルド賞)

        「キリストの誕生」(読売文学賞)
        「侍」(野間文学賞)ほか
  一貫しカトリック作家として
  日本人とキリスト教の問題を根底に
 
人間の心の奥底を追究している。

また 狐狸庵もの ぐうたらものと
面白エッセイや娯楽性に富んだ
大衆文芸作品も多く執筆している。

1993(平成5)年「深い河」を発表(95年映画化)
1995(平成7)年 文化勲章受章。
1996(平成8)年9月29日 病没  享年73


 

 


御木本幸吉

2020-09-21 | 人物忌


 (中央区銀座4丁目 ミキモトパールビル)


9月21日は 真珠王 御木本幸吉が亡くなった日。

御木本幸吉は 実業家で真珠の養殖と
そのブランド化などで富を成し

御木本真珠店(現・ミキモト)の創業者。
世界の真珠王とも呼ばれた。


銀座 ミキモト店舗脇にある
「真珠王記念碑」の説明文には

「 銀座文化碑
御木本幸吉翁は本年九十五歳
養殖真珠の創始者で

真珠王の名は全世界に及んでいる
當處南北十間の地は

翁の店舗の場所である

昭和28年4月 銀座通聯合会 」

略歴は
1858(安政5)年   三重県鳥羽大里町に生まれる。
1878(明治11)年 20歳のとき東京、横浜へ視察旅行
1881(明治14)年 鳥羽藩士の娘うめと結婚
1888(明治21)年 大日本水産会幹事長・柳楢悦に面会
 神明浦で真珠貝の培養試す。

1890(明治23)年 柳の紹介で箕作佳吉博士に面接
 真珠養殖の指導を受ける。

1893(明治26)年 相島(真珠島)で半円真珠完成
1899(明治32)年 東京銀座裏に御木本真珠店を開店
1905(明治38)年 赤潮被害の中で真円真珠5個発見。
1908(明治41)年 真円真珠特許権を受ける。
1951(昭和26)年 有限会社御木本真珠ケ島
 (現・ミキモト真珠島)創立
1954(昭和29)年 9月21日 死去 享年96

 

 


9代目市川團十郎

2020-09-14 | 人物忌

9代目市川團十郎像 「暫」 (台東区浅草寺)



9月13日は

9代目市川團十郎が亡くなった日。

九代目 市川團十郞 は
明治時代に活躍した歌舞伎役者。

1838(天保9)年に江戸に生まれる。

7代目市川団十郎の5男で
本名は堀越秀(ひでし)。

生後まもなく
6代目河原崎権之助の養子となる。

1852(嘉永5)年
  初代河原崎権十郎を襲名

1854(安政1)年
   兄の8代目団十郎が自殺

1861-62(文久2-3)年
 「勧進帳」「助六」初演

1868(明治元)年
   養父の権之助が強盗に刺殺される。

1869(明治2)年
   7代目河原崎権之助を襲名

1873(明治6)年
   河原崎三升を名乗る。

1874(明治7)年
   河原崎座を芝新堀町に 
   新築開場を機に市川家に復帰して

   9代目市川団十郎を襲名。
1876(明治9)年
 12代目守田勘彌に
   招かれて新富座に出演。

1877(明治10)年以降
 「活歴物」に注力

1887(明治20)年
 天覧歌舞伎開催

1889(明治22)年
 歌舞伎座が開場

 5代目尾上菊五郎 
   初代市川左団次とともに「団菊左」で
  明治歌舞伎の黄金時代を築く。

1897(明治30)年
 養子に迎えていた5代目市川新蔵が急死

1903(明治36)年9月13日
 急性肺浸潤に尿毒症を併発して死去。
   享年64.

9代目は
演劇改良運動に意欲を燃やし
史実を忠実に舞台にあげようとする
「活歴」を創始するなど様々な活動した。

その数多い功績から
「劇聖」(げきせい)と謳われ

また歌舞伎の世界で単に
「九代目」というと、
通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。

父7代目団十郎の
「歌舞伎十八番」制定の遺志を継いで
活歴物 松羽目物のなかから
「紅葉狩」「鏡獅子」など
得意芸を集めた「新歌舞伎十八番」を
選定している。


活躍した舞台跡が 
東京・中央区と港区にある。


説明文には

「新富座跡
所在地 中央区新富2丁目6番1号
新富座は万治3年(1660)
木挽町五丁目(現在の銀座6丁目、
昭和通り西側)に創建された
「森田座」を引き継ぐ
歌舞伎の劇場でした。

森田座は代々森田勘弥(かんや)が座元で、
天保14年(1843)浅草猿若町
(現在の台東区浅草)に移り、
安政5年(1858)に「守田座」と改めました。
明治5年(1872)には、
守田座12代勘弥が新富町に移転進出し、
同8年(1875)に「新富座」と改称しました。

新富座は市川団十郎・尾上菊五郎
・市川左団次などの名優を集めて
積極的な興行を行いました。
劇場は近代的な様式を取り入れた
大規模な建物で
「東京第一の劇場」と称され、
周辺には歌舞伎関係者が多く居住し、
一帯は芝居町となっていました。

明治22年(1889)に歌舞伎座が開場するまで
芝居興行の中心的存在でしたが、
大正12年(1923)の
関東大震災で焼失しました。

明治期の錦絵には海鼠壁(なまこかべ)の
上に絵看板を並べた大劇場の様子が見え、
往時の繁栄ぶりがうかがえます。

平成16年3月
  中央区教育委員会 」

 
港区芝2丁目

説明文には

「河原崎座跡地
(7代目河原崎権之助が
現在地に開場した
河原崎座において、

明治7年7月9代目市川團十郎を襲名す。
河原崎座は、その後新堀座等に
改称したが、

明治18年11月に廃座となる。」

 

 


水上 勉

2020-09-08 | 人物忌

(日本経済新聞 2003/9/27)

 

9月8日は 
小説家 水上 勉が
亡くなった帰雁忌。

水上 勉は
1919(大正8)年 福井県に生まれ。
幼時臨済宗相寺の徒弟になる。

立命館大学国文科中退。
宇野浩二 に師事。

1961(昭和36)年
 「雁の寺」で 直木賞。

 社会派推理小説の「飢餓海峡」
 女性の宿命をえがいた
「越前竹人形」などで
 流行作家となる。

1971(昭和46)年
 「宇野浩二伝」で 菊池寛賞

1984(昭和59)年
 「良寛」で 毎日芸術賞

1998(平成10)年
 文化功労者。 芸術院会員。

2004(平成16)年9月8日死去。
 享年85


作品「五番町夕霧楼」
「越前竹人形」は

母性思慕をモティーフとして
女性の目覚ましい進出時と
相まって人気になった。

また 自らの経歴体験を
もとにした「雁の寺」では
直木賞受賞し

「宇野浩二伝」「一休」
「寺泊」「金閣炎上」
「良寛」などがある。


更に 北陸や京都を舞台とした
「五番町夕霧楼」
「越前竹人形」などでは

弱者の視点から
社会を描いている。

 

特に「飢餓海峡」では
純文学と推理小説の
間の境界線が消え

純文学作家が 次々に
推理小説にも筆を進めており

推理小説でデビューした作家が
一般の文学賞を取ることも
珍しくなくなった。



  青森県下北半島西岸「仏ケ浦」

 

 

 


岡倉天心

2020-09-02 | 人物忌

 


9月2日は 
美術行政家・思想家
岡倉天心 が亡くなった日。

岡倉天心は
1863(文久2)年 
横浜に生まれる。本名は覚三。

東大卒後  文部省に入り
美術教育・調査保存にあたる。


1884(明治17)年
 フェノロサと鑑画会を結成
 新日本画の開拓に努め
 美術調査員としてともに渡欧。

1890(明治23)年
 東美校校長となり
帝国博物館理事等を兼任
この間 美術誌「国華」を創刊。


また 日本青年絵画協会及び
その後身である
日本絵画協会を組織した。 

1898(明治31)年
 校長排斥運動(美校事件)で辞職し

 橋本雅邦 横山大観 
   菱田春草らと日本美術院を結成した。

1904(明治37)年 
ボストン美術館東洋部長に就任。

 また文展審査員・国宝保存会委員も
つとめ 明治期美術の
指導者としてばかりでなく、

すぐれた国際感覚のうちに
日本及び東洋の文化の
優秀性を内外に訴えた。

著作に「東洋の理想」
「日本の覚醒」「茶の本」など。

1913(大正2)年 死去。享年50。

その日本美術院等跡が 
台東区谷中にある。

構内の説明文には

「東京都指定旧跡
 岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡
  所在地 台東区谷中5丁目7番 
  昭和27年11月3日

日本美術院は明治31年(1898)
岡倉天心が中心になって
「本邦美術の特性に基づき
その維持開発を図る」ことを
目的として創設された民間団体で、
当初院長は天心、
主幹は橋本雅邦、
評議員には横山大観、
下村観山らがいた。

活動は絵画が主で、
従来の日本画の流派に反対し、
洋画の手法をとり入れ、
近代日本画に清新の気を与えた。

この場所に建てられた美術院は
明治31年(1898)9月に竣工した
木造2階建で、南館(絵画研究室)と
北館(事務室・工芸研究室・書斎
・集会室)からなり、附属建物も
2、3あったといわれている。
明治39年(1906)12月に
美術院が茨城県五浦に移るまで、
ここが活動の拠点となっていた。

昭和41年(1966)
岡倉天心史跡記念六角堂が
建てられ、堂内には
平櫛田中作の天心坐像が
安置されている。

 平成11年3月31日建設 
  東京都教育委員会 」

とある。

 

  六角堂

茨城県天心記念五浦美術館 (北茨城市)

五浦の六角堂

 

 

 


有吉佐和子

2020-08-30 | 人物忌

 日本経済新聞 (2004/1/24)

 

8月30日は 
小説家 有吉佐和子が
亡くなった日。

1931(昭和6)年1月
 和歌山市で生まれる。

銀行勤務の父とともに
幼時から外国で暮らし

国内でも転校を繰り返した。

東京女子大学短期大学部
在学中から創作活動を始め
1956(昭和31)年
伝統芸術の世界を描いた

「地唄」が芥川賞候補と
なって文壇にデビュー。

その後 紀州を舞台にした年代記
「紀ノ川」「有田川」
「日高川」の三部作

一外科医のために献身する
嫁姑の葛藤を描く「華岡青洲の妻」

「出雲の阿国」「和宮様御留」と
数々のヒット作をだした。

そして社会問題に鋭い目を向け
認知症老人を扱った
 「恍惚の人」 (1972年)

環境汚染問題に迫った
 「複合汚染」(1977年)は

ともに大ベストセラーとなり

“恍惚の人” “複合汚染” は
その年の流行語になった。

また 演劇にも造詣が深く
いくつかの戯曲作品があり

自作小説を中心に脚本化や舞
台演出も数多く手がけた。

1984(昭和59)年8月30日
 急性心不全にて死去。 享年53

 

「恍惚の人」は 
認知症をいち早く扱った作品だが
当時まだ介護保険制度がなく
これがきっかけで 
痴ほう・介護問題が
クローズアップされ
2004(平成12)年4月
介護保険制度ができた。

痴呆症は
脳や身体疾患を原因として
慢性的に低下を
きたした状態で、
社会生活、家庭生活に
影響を及ぼす状態に

75歳以上は 10%
85歳以上は 20%~25%
発症しているそうだ。

当方も
その発症の域に入っている。

人のお世話にならぬよう
 お世話ができるよう・・・・

 

 


浜口雄幸

2020-08-26 | 人物忌

 床のひし形印が遭難の現場(東京駅構内)

 

8月26日は
大正・昭和期の官僚政治家
浜口雄幸(おさち)
亡くなった日。

 

死去に至った
直接の経緯は 東京駅構内
中央通路案内所近く
8番乗り場の手前にあった。


柱の説明文には

「浜口首相遭難現場
昭和5年11月14日 午前8時58分、
内閣総理大臣浜口雄幸は、
岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、
午前9時発の特急「つばめ」号の
1等車に向かって
プラットホームを歩いていた。
このとき、一発の銃声がおこり
浜口首相は腹部を
おさえてうずくまった。
かけつけた医師の手によって
応急手当が加えられ、
東京帝国大学医学部付属病院で
手術を受け、一時は快方に
向かったが
翌昭和6年8月26日死去した。
犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、
ロンドン条約批准問題などで
軍部の圧力に抵抗したことに
不満を抱き、凶行に
およんだものといわれている。」

 

浜口雄幸は 
1870(明治3)年
 高知県・土佐に生まれ
 浜口家の養子なる。
 
第三高等学校をへて
1895(明治28)年
 東京帝国大学政治学科卒業後

 大蔵省に入り 山形県収税長
 松山 熊本の各税務管理局長
 
東京税務監督局長などを歴任。
1904(明治37)年 
 以降は 煙草専売局に勤務

1907(明治40)年 
 専売局長官になった。
 この間 後藤新平の知遇を得る。

1912(大正1)年 
 第3次桂太郎内閣の
 後藤逓相のもとで
 逓信次官に就任。

1914(大正3)年 
 第2次大隈重信内閣の
 大蔵次官となり
 立憲同志会に参加。

1915(大正4)年 
 第12回総選挙に
 高知市から立候補して当選。

 以来 6回連続当選した。

1927(昭和2)年 
 内閣総辞職で辞職。
 6月憲政会と政友本党との
 合同で成立した
 立憲民政党の初代総裁。

1929(昭和4)年7月
 大命により内閣総理大臣

1930(昭和5)年 
 金解禁を中心に産業の構造改善

 ロンドン海軍軍縮会議の成功に
 よる対英米親善外交に努めたが

 軍縮や政党の腐敗などを
 非難する勢力の攻撃を受ける。

同年11月 
 右翼の青年にピストルで狙撃され

 臨時首相代理をたて治療に専念
1931(昭和6)年
 やや回復して職務に復帰したが

 4月 後事を若槻に託し辞職。
 8月26日 死去。

謹厳実直 頑固一徹な性格と
眼光鋭いその風貌から庶民からの
人気はとても高く
「ライオン宰相」と
親しみを込めて呼ばれた。

 

城山三郎著「男子の本懐」は
浜口雄幸が 
第一次世界大戦後の慢性的不況を
脱するために 多くの困難を
克服して 昭和5年に断行した
金解禁政策に生命を賭けた
長編経済小説。

 


伊藤左千夫と蓼科山 2

2020-08-13 | 人物忌

 

前回の伊藤左千夫と蓼科山で

左千夫の「蓼科山歌」10首
について触れたので
挙げてみた。

 

〇思ひこひ生の緒かけし蓼科に
 上野老いのこもりを許せ山衹
          (やまつみ)

〇朝露のわがこひ来れば
 山祇のお花畑は雲垣もなく

〇久方の天の遥けく朗かに
 山晴れたり花原の上に

〇秋草は千草が原と咲き盛り
 山猶蒼し八重しばの山

〇信濃には八十の高山ありといへど
 女の神山の蓼科われは

〇吾が庵をいづくにせんと
 思いつつ見つつもとほる天の花原

〇空近く独りいほりにて秋の夜の
 澄み極まれる虫の音に泣く

〇山深み世に遠けれや虫の音も
 数多は鳴かず月はさせども

〇淋しさの極みに堪て天地に
 寄する命をつくづくと思う

〇草の葉の露なるわれや群山を
 我が見る山といほり居るかも

1909(己酉・明治42)年8月26日


伊藤左千夫と蓼科とのかかわりは

弟子の篠原志都児が
この地の出身で
伊藤左千夫や
平福百穂を蓼科親湯温泉へ
誘ったことが機となった。

左千夫はここ蓼科が気に入り
「蓼科山歌」10首を詠み
弟子の篠原志都児に与えた。

左千夫が亡くなる
4年前のことであった。

その後、左千夫を中心に
この地で歌会が
開催されるようになり

左千夫を通じて 
島木赤彦 斎藤茂吉
土屋文明 高浜虚子
柳原白蓮 をはじめとした
多くの文人歌人達が
蓼科親湯温泉の歌や俳句を
詠んでいる。

1939(昭和14)年1月
太宰治は 井伏鱒二の紹介により
山梨で女学校の教師をしていた
石原美知子と見合いをし
結婚した。 


その新婚旅行先が
ここ蓼科の温泉であった。


左千夫は 新婚旅行先まで
面戸を見ていたとは・・・
  (参考:蓼科親湯温泉HP)


 蓼科の白樺林

 

 

 


伊藤左千夫と蓼科山

2020-08-09 | 人物忌

 

先日 伊藤左千夫に触れたが

当ブログ 
信州紀行 蓼科高原・女神湖
(2014/04/26)

伊藤左千夫の山唄

「信濃には八十(やそ)の
 高山ありといへど
 女(め)の神山(かみやま)の
 蓼科われは」

と讃えている歌碑を話題にしていた。


(写真:日本百名山「蓼科山」2530m)


また 深田久弥著
「日本百名山・63蓼科山」でも

伊藤左千夫に触れている。

「中でも左千夫の
絶唱であるところの
”さびしさの極みに堪へて
 天地に寄する命を
  つくづくと思う”
は、やはりこの高原に
あっての感動であった。

それから四年経て、
左千夫は東京の
陋巷(ろうこう)で死んだ。
彼の眼底には時折蓼科の
「天の花原」が
去来したことであろう。」

と記している。

蓼科山は 北八ヶ岳の連なりの北端に
孤高を誇るかのように聳えている。

その姿は 別名「諏訪富士」とも
よばれ 美しい円錐形で

北へ 約30km余にわたり
広大な裾野を伸ばして
優美な姿をさらけ出している。

 
この姿が
深田久弥に日本百名山の
一つに選ばせている。


また かつてのアララギ派の歌人
島木赤彦  伊藤左千夫  斉藤茂吉 らが
この山について 詠んだことも
選定理由のひとつに
なっていると思われる。


伊藤左千夫は
冒頭にある句を詠み讃えている。

古来その山容から
神としてまつられ
山頂にある蓼科神社の奥社は
9世紀ごろのものでは
と伝えられてもいる。


北アルプスの
槍ヶ岳や穂高連峰のような山容とは
対極の山容をもつ蓼科山は
その姿だけでも
名山の風格を備えているという。

 


小説家 松本清張

2020-08-04 | 人物忌

 

8月4日は 
小説家 松本清張が
亡くなった日。

松本清張は
1909(明治42)年
  現・北九州市小倉北区で生まれる。

給仕  印刷工など種々の職を
経て 朝日新聞西部本社に入社

1951(昭和26)年 
 41歳で懸賞小説に応募
 入選した「西郷札」が
 直木賞候補となる。

1953(昭和28)年
 「或る小倉日記伝」で芥川賞受賞。

1958年 (昭和33)年
「点と線」は推理小説界に
 “社会派”の新風を生む。

以後「ゼロの焦点」「砂の器」
などの代表作を執筆。

また 日本古代史をはじめ
近代・現代史に取り組み諸作品を生み

生涯を通じて旺盛な創作活動を展開した。

1992(平成4)年 
 肝臓がんにて死亡。享年82


「ゼロの焦点」のあらすじは

板根禎子は 広告代理店に勤める
鵜原憲一と見合い結婚した。

信州巡る新婚旅行を終えた
10日後 憲一は
仕事の引継ぎをしてくると言って
金沢へ旅立つ。

しかし 予定を過ぎても
帰京しない憲一が
北陸で行方不明になった旨
勤務先から知らせがあった。

急遽金沢へ向かう禎子。
憲一の後任である
本多の協力を得て
憲一の行方を追うが
その過程で彼女は
夫の隠された
過去を知ることになる。

  憲一が自殺?した ”ヤセの断崖”