たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出-モントリオール-旧市街

2024年02月04日 08時50分14秒 | モントリオールへの旅

旅の思い出-モントリオール

2001年12月29日(土)モントリオール旧市街、今となっては自分でも信じられませんが宿泊したB&Bの日本人女性オーナーに教えてもらってこの地図をみながら、雪の中を地下鉄に乗り、訪れました。英語とフランス語。日本語があっても老眼進行中でもうみえません。まだ若さがありました。生まれ前からの右足股関節脱臼により軟骨が摩耗しつつあることも全くわかっていませんでした。ガシガシ歩いていました。今杖ないと歩くの辛いのがうそのようです。わかっていたらできないことだったのかもしれません。

 

ノートルダム大聖堂、荘厳な雰囲気でした。

(『地球の歩き方-カナダ東部2012~2013』より)

「ノートルダム大聖堂は、モントリオール出身の歌手セリーヌ・ディオンが結婚式を挙げたことでも知られる、モントリオールの旧市街最大の見どころ。1829年建設のネオ・ゴシック様式の重厚な建物で、天高く伸びる2本の鐘楼には、東塔に10個の鐘から成るカリヨンが、西塔にあは重さ11トンもの巨鐘が納められている。内部には、正面に柔らかなコバルトブルーのライトに照らされて浮かび上がる黄金の祭壇がある。バラ窓と美しいステンドグラスから差し込む光が教会内部を照らし、精巧な彫刻とエメラルド色の天井を映し出す。静かに祈りをささげる信者たちの姿と、何百本ものキャンドルの明かりが、厳粛な気分へ誘う。

 内陣には、7000本のパイプをもつ世界最大級のパイプオルガンがあり、年間を通じて定期コンサートが行われている。なかでも夏期に開かれるモントリオール交響楽団によるモーツァルトのコンサートは有名だ。また夜間にはAnd Then There音楽と照明によるショーを開催している。」

 

 

 

 

ガイドツアーに参加しました。英語なのでもちろん断片的にしかききとれず殆どわかりませんでした。雰囲気だけ。

 お昼をチャイナタウンの中の中華料理店でいただきました。数日ぶりの麺だったか米だったか、ちょっとほっとしました。アンティークなお店はシーズンオフでいずれもしまっていましたが、灯りがともされていました。ディスプレイされているお人形たちがみえるようになっていて、とても綺麗でした。セント・ローレンス川のほとりも少し歩いたんだったか・・・。

 この旅ではいた靴は山歩き用のもの。荷物に入れて飛行機に乗り、モントリオールの空港で履きかえました。かなりお世話になりましたが、もう履くことはないので昨年お礼を言って断捨離しました。

 

「ひとくちに聖書を読むと言うが、当時、書物はつくるに大へんなてまと金のかかる貴重品であった。(このことは、ローマ時代後期に「少数派」、言いかえれば社会の下積で貧しかったキリスト教徒によって書かれた各福音書が、極めて短い書物にならざるを得なかった事情をも説明する。当時の原稿用紙であった羊皮紙は、貧しい福音史家たちに沢山買えるものではなかったのである。) だから、多くの教会や聖堂は中世の中期ごろまで、写本(書く、写す→読み書きをし、かつ読み書きをおしえる)、造本製本(技術、装飾のアトリエ)、蔵書(図書館)、書物の研究(学問)の中心でもあった。創意ある人々は(たとえば石工)、ただ石を積んで集会所を建てるだけでは満足せず、聖書にテーマを汲むさまざまの彫刻をほどこし浮彫で飾ることを思いついた。ずいぶんの昔からエジプトやローマにすでに存在した「吹きガラス」の技術がゲルマンの中で精巧の域に達して来ると、ガラス職人たちはこぞって、ステンドグラスと言う美麗この上ないもの(装飾だけでなく、文盲の人々への絵本聖書であった)を考え出し、聖書のテーマを描いて、「自分たちの地域の中心・教会」の窓を飾った。教会の司祭(文字が読めたので、中世、彼こそは文化人であった)や、聖書の福音的共同生活をより善く生きようとする人々が創立した各地の修道会の修道者たちの中には、どうしたら堅牢で使いやすく美しい集会所(建築物)が出来るのかを研究し、力学工学を勉強して、その分野での指導者となる者も出て来た。ミサにはパンと葡萄酒が使われるし、地域共同体的社会の生活の基礎はそもそもパンであるから、修道者たちの少なからぬ者は農耕技術の専門家であり、技術指導者でもあった。」

(犬養道子『聖書の天地』9~30頁より)

 

 

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