『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』より-「太古からの平和がただよえる故郷」-テニスン『芸術の宮殿』より
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/b9d27633d799a1d66125583bbf39ac15
「しかし幸いなことに、『テニスン研究』(西前美巴著、中教出版)に、詩のあらすじが紹介されていた。この本の記述を参考にしつつ、拙訳をまじえてご紹介しよう。
そして次の一枚は
イギリスの家の絵、
灰色の黄昏が舞いおりる
夕靄に濡れた草むらと森に
眠りにつくよりもそっと優しく、
すべてはあるべきところにあり
太古からの平和がただよえる
(テニスン『芸術の宮殿』82-88行、筆者訳)
草むらと森に囲まれた田園の家、そこに安らかな日没が静かに訪れる。田舎の、平和な夕景を描いた一枚の絵の描写である。その一節が、『アン』に引用されている。アンが、マシューの墓参りから帰る道すがらに丘の上から眺めた、アヴォンリーの夕景もまた、太古からの静けさと平和のただよう美景であった、という引用意図だ。
しかし、このときのアンは、心の底から満ち足りているのではない。むしろ、一抹の寂寥感とともに、暗くなるまで墓地に佇み、ひとりぼっちで、沈んでいく太陽とあかね色の村を眺めている。
なぜなら、彼女は、大学進学を諦めたばかりなのだ。家なき子だったアンは、やっと手にした自分の家グリーン・ゲイブルズを手放すくらいならアヴォンリーに残ろうと、進学を諦める。アンを子守やお手伝いとしてではなく、本当の家族として引きとり、育ててくれたマリラに恩返しするためにも、大学を断念して、島に残って教員になろうと決めたのだ。アンにとって、この決断に、悔いはなかっただろう。島に残れば、大切なグリーン・ゲイブルズを守り、夢のように美しい島で、マリラとともに穏やかに生きていける。それはそで幸せだろう。
けれど、文学学士になるという夢は、まだ消え去らず、アンのなかにほろ苦い余韻を残して、たゆたっている。自分から夢を手放した寂しさを、アンは、マシューのお墓に一人でたたずみ、村の日暮れをじっと眺めながら味わっていたのである。この虚しさを、マリラに話すことはできない。そんなことをすれば、マリラに負い目を感じさせるだけだ。アンは、何も言わなくても、いつも気持ちをわかってくれたマシューの墓前に行き、じっと嚙みしめるしかなかった。この場面は、そうした寂しさの滲む平安、という複雑な心境を示しているのだ。
実は、テニスンの詩もまた、ただ単に牧歌的で平和なのではない。『芸術の宮殿』は、人生の苦悩と低俗な世間、庶民を侮蔑し、そこから逃避して、高邁(こうまい)な芸術のために、高い丘の上に壮麗な芸術の宮殿をたてる物語だ。冒頭から見てみよう。
第一連
私は壮麗な歓楽宮を築いた
魂がそこで永遠に安らかに住めるように、
私は言った、「ああ魂よ、存分に楽しめ、安逸に
いとしい魂よ、すべては申し分ないのだから」
険しい岩場からなる巨大な高台の上に、つややかに輝く真鍮のような宮殿
はりめぐらした城壁は輝く
ふもとの草深い牧草地から
突如として光におおわれて」
輝く宮殿には塔が立ち、回廊がめぐらされ、美しい庭には噴水がある。屋内には、豪華な絵画が飾られている。さまざまな風景画(イギリスの田園風景のほかに、火山、海、森など)、そして偉大なる人々の肖像画(聖母マリア、アーサー王、シェイクスピア、ダンテ、ミルトン)だ。
そこに魂は、王としてうつり住み、芸術のための芸術にひたるが、やがて、その孤独、虚しさ、傲慢さに病んでいき、さいごには宮殿を出て、高台を守り、谷間の質素な小屋に移っていく。『テニスン研究』の西前美巴氏によると、この詩は、芸術は人と離れて孤高にあるべきものではなく、人界にこそあるべきだという、テニスンの芸術観が現れているという。
テニスンの詩の魂の選択は、アンの進路選択と驚くほど一致している。
アンは、文学という芸術を、大学で孤高に、マリラという家族を捨てて学ぶのではなく、農村の暮らしという日常のなかで文学を愛し続けていこうと誓い、丘の墓地を下りていく。興味深いことに、魂が丘の宮殿を下りるのと同じように、アンもまた、この場面で、丘の墓地(異界)から人界へと下りていくのだ。
こうした寂寥をたたえた感慨は、しかし物語の最後に、また光を得て急転回し、明るく輝き出す。」
(松本侑子著『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』、169-172頁より)
「初代テニスン男爵アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1st Baron Tennyson, 1809年8月6日 - 1892年10月6日)は、ヴィクトリア朝時代のイギリスの詩人。美しい措辞と韻律を持ち、日本でも愛読された。」(ウィキペディアより)
19世紀末のヴィクトリア朝は、シャーロック・ホームズ、ジキル&ハイドの時代。
『赤毛のアン』が出版されたのは1908年、モンゴメリさんは1911年7月、36歳でマクドナルド牧師と結婚すると、新婚旅行で祖国スコットランドを訪れました(モンゴメリさんもマクドナルド牧師もスコットランド系)。