エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

インターメッツォ: エリクソンの叡智 : 自分の足で立っていい 自分の感じのままで生きていい

2016-12-06 04:14:52 | 間奏曲

 

 
「ねばならない」ことと、神の恵み の間 悦びを忘れない!
   幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理  どんな技術でも、その目的を忘れて使う人間は、最も人間らしいものを失っています。それは、大川小学校の「......
 

 

 さっきの本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』の、マカリオイ μακάριοι 自分の感じに従ってやっていい感じ≫の流れから。

  Chilhood and Society p.252から。

 

 

 

 

 

 (母)親が元気づけるおかげで、2歳3歳の子どもが「自分の足で立つ」ことができるのと同様に、周りの大人が元気づけるおかげで、2歳3歳の子どもは、恥をかいたり疑いを抱いたりする、意味のない恣意的な体験をせずに済みます。

 

 

 

 

 

 元気づけられるのが、(母)親なのか、神様なのかの違いがありますが、元気づけられると、人は自分の感じに従って生きることができるようになります。それが、オートノミーの感じ、マカリオイです。

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近親相姦とデブな女

2016-12-06 04:08:34 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
「ねばならない」ことと、神の恵み の間 悦びを忘れない!
   幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理  どんな技術でも、その目的を忘れて使う人間は、最も人間らしいものを失っています。それは、大川小学校の「......
 

 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.146、第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 これは、フェリッチが24年の診療で出会った、2番目の近親相姦の患者でした。しかも、10日後に似たような話を聞いたんです。フェリッチと彼のチームが詳しく調べて、彼らが衝撃を受けたのは、病的に太っている患者のほとんどが、子どもの頃に性的に虐待されている、と分かったからです。それから、もうひとつわかったのは、家族の問題がたくさんある、ということでした。

 

 

 

 

 

 無意識の圧倒的な暴力の恐ろしさ。家族内では、その無意識の圧倒的な暴力は、解決できず、むしろ、拡大再生産されてしまう場合が少なくない、ということです。

 

 

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聖書の言葉 : #ヘセド 再び

2016-12-06 03:36:06 | 聖書の言葉から

 

 

 
伊藤一隆を葬るの辭 札幌バンド 会員番号1番
   日本の公教育の病理 その4 「共の見通す」ことの大事さと一人の大人  今の日本の学校は、東電や例の「一流デパート」「一流レストラン」に優るとも劣ら......
 

雨宮慧先生り『こころの時代 旧約聖書を語る』上巻,p.38から。

 

 

 

 

 

ヘブライ語(ヘセド)はもともと「二つの存在を結びつける愛とか敬虔」を意味しており、「誠実さ」という意味をも含んでいます。ですから、本能的な愛情の表れというよりは、自覚と意志を伴った慈愛を指します。

 

 

 

 

 

 ですから、神様のヘセドは、意識的に赤ちゃんに献身する母親の慈愛に近いと言えますね。

 


 

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聖書の言葉 : マカリオイ μακάριοι とエリクソン

2016-12-06 03:07:35 | 聖書の言葉から

 

 

 
人間としての繋がり
   幼稚な道徳と、青年の価値意識と、大人の倫理  どんな技術でも、その目的を忘れて使う人間は、最も人間らしいものを失っています。それは、大川小学校の「......
 

 今宵は、特にうれしいご報告です。

 本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。

 

 

 

 

 

 「貧しい人々は、幸いである」の「幸い」も、やはり誤訳だと思います。新共同訳では、カトリック、プロテスタント、どちらの聖書学者も、この訳文の不十分さを認め、言い回しを変えることに賛成していた。けれども、「耳になじんだ定着度の高い表現を変えるわけにはいかない」ということになってしまって、従来どおりに戻ってしまった。わたしは、この箇所は「心底貧しい人たちは、神からの力がある」と訳しています。なぜ、そう訳せるのかといえば、「幸い」と訳されてきた「マカリオイ」というギリシア語は、ヘブライ語の「アシュレー」、つまり「祝福されています」、「そのままつきすすんでいいよ」という保証、元気づけのことばです。いま持っている感性のままで堂々と進んでください、ということであり、いまの貧しい状態にそのままいなさい、貧しいことは幸いなのですよという意味ではない。

 

 

 

 

 

 これは、エリクソンの言うa sense of autonomy ≪自分の感じに従ってやっていい感じ≫と全く同じです。エリクソンが、聖書の言わんとすることに非常に敏感であることが解かります。0歳1歳の時のa sense of basic trust がピスティス πιστις ≪自分の感じを人は大事にしてくれるし、自分も大事にできると信頼していること≫、 1歳2歳の時のa sense of autonomyが、マカリオイ μακάριοι 自分の感じに従ってやっていい感じ≫なんですからね。


 

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