エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

ちょっと笑えるルター

2015-10-31 10:09:59 | アイデンティティの根源

 

 

 
仕える生活と現代科学の基
  「先生」と呼ばれる人まで「支配と服従」では、非常に困ります。 p360の3行目途中から。    ...
 

 

 

 

 ルターは40も半ばで、幸せな結婚生活をすることができましたが、それは信頼の賜物でした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.237の19行目途中から。

 

 

 

 

 

確かに、ルターの言葉には、露骨な性欲に触れている言葉が見られますし、あいかわらずのこだわりがあると言われるウンチやオシッコを出す必要も認められます。これに関しては、すぐに議論しましょうね。しかし、ここでは、他と同様、ルターは、一番平凡な人の性的衝動を支配しているもの、品のある人でしたら、自分では選ばないなぁ、自分に気持ちにはしっくりこないなぁ、と感じることを、単刀直入に、ロマンチックじゃないやり方で語ったまでです。ルターはまた、結婚について、深くて、甘ーい、しかも、ユーモアセンスがあって、新しいことを言ってます。

 1526年、息子が生まれると、ルターは洗礼名に、ハンスと名付けました。

 

 

 

 

 ルターはあくまで率直です。品がないと見る人がいても仕方がありません。

 でも、その分、人間的で、面白かったことでしょう。単なる真面目人間には見られない、楽しさのある人だったはずですね。バルトほどではなかったかもしれませんが、周りに笑いが絶えなかっただろうと想像します。

 

 

 

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感じることが、立ち入り禁止地帯になる

2015-10-31 04:12:47 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 自分の身体が感じることに意識を向けることは、エリクソンが「≪私≫という感じ」を意識するといったことと、結局、同じことです。

 ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第13章 Healing from trauma : Owing your self 「トラウマから癒されること :本当の自分を生きること」p.210の 2節の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 トラウマを負わされた人たちは、感じること自体が怖いと言います。敵になるは、加害者たち(さいわいにも、もう近くで自分らを傷つけることもありませんから)ではなくて、自分自身の身体が感じることだと言います。不快な感覚にハイジャックされたと感じれば、身体は固まり、気持ちがふさぎ込みます。トラウマが過去のことだけれども、感情脳は、苦しい人の気持ちを怖れさせ、どうしようもない気持ちにさせ続けさせる感覚を生み出し続けます。トラウマを負わされたたくさん人々が、強迫的に飲み食いするしたり、セックスするのが怖かったり、いろんな人との関わりを避けたりすることになるのも、不思議じゃぁありません。感じることは、大部分、立ち入り地区になっちゃうわけですね。

 

 

 

 

 

 発達トラウマのある愛着障害の子どもたちは、感じることができなくなります。怖いからです。ですから、感覚や感情を言葉にすることも苦手です。アレキサイミア、失感情語章になりやすい。

 

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依存症大国ニッポン

2015-10-31 03:14:51 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
支配と服従が横行する国
  高橋源一郎さんの手になる、今日の論壇時評「自由の足元 支配と服従の横行する国」(10/30,2014「朝日新聞」第12版▲,p15)も、非常に秀逸でしたね。日...
 

 

 

 依存症大国ニッポンの今晩です。

 依存症と一口に言っても、いろいろあります。

 アルコール依存症、薬物依存症、ネット依存に買い物依存…。今年2月にやった「ハートネットTV」によれば、薬物系の「アルコール・覚せい剤・危険ドラッグ・処方薬・ニコチン」の他にも、行動系の「ギャンブル・過食・買い物・ネット・事情行為・性・放火や窃盗」といった依存症があり、行動系の依存症が一層増加傾向にあると言ってしまたよね。

 しかし、共通するのは、「辛い気持ちが、依存の薬物や行動をしている時(アルコールを飲んでいる時、薬物をやっている時、ネットをしている時、買い物をしている時、…)だけ、ほんの束の間、スキッとする」ということです。束の間でも「スキッ」とするのが、ご褒美になって、それが辞められなくなっちゃう…。

 日本には、少なく見積もっても、アルコール依存症は109万人、ギャンブル依存症は536万人、ネット依存症が421万人、これだけでも、合計1,066万人、日本人の10人に1人は依存症です。しかし、実際は、アルコール依存症240万~300万、薬物依存症は、シッカリした統計がありません。脱法ハーブが拡散している時代には、500万くらいいてもおかしくないでしよう。ギャンブル依存症が550万、スマホの普及で、駅でも、道でも、前も見ないで歩いている人が日本の何処に行っても見かけますでしょ、ネット依存症は、1,000万を超えるかもしれません。タバコの依存もあるのですから…。ある精神科医は、依存症は3,000万を超えるという人もいるほどです(http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20130821/362040/?ST=p_bizboard)。実に日本人の4人に1人は依存症という訳ですね。

 何故、依存症大国ニッポンなんでしょうか?

 いろんな背景、いろんな議論があるのでしょう。しかし、私の考えを述べたいと思います。

 依存症患者の心理にヒントが隠れていると私は考えます。さきほど、たとえばアルコールをやると、束の間「スキッ」とする、と言いましたでしょ。気持ちがよくなるんですね、ほんの一瞬だけ。すると、それがご褒美になって、辛い思いをしたとき、怖い思いをしたとき、悲しい思いをした時に、その気持ちそのものに向き合わないで、その「スキッ」とさせてくれるもの、アルコールなどに頼るようになっちゃう。自分の気持ちから逃げちゃうわけですね。しかも、それが心の生活習慣病になる訳です。つまり、自分の心にウソとゴマカシをやることが、心の生活習慣病になっちゃいます。あらゆる依存症が、自分にウソとゴマカシをやる「否認の病」って言いますでしょ。自分の心に向き合わないで、ウソとゴマカシをやるのが常習になってる。

 でもよく考えたら、こういう行動バターンの人って、依存症に限りませんでしょ。日本人はおしなべて、コンフォーニズム、集団同調主義、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「みなさん御一緒に」ですよね。食品偽装の時も、マンション偽装の今も、ユーザーのお客様や、自分の(良)心に向き合うよりも、会社の利益・自分の利益を優先してますでしょ。そこにウソとゴマカシがあります。まだ「依存症」を発症していない多くの会社員、公務員も、その心の在り方は、すでに「依存症」と言う場合が、多いのじゃぁないかしらね。自分の(良)心よりも、会社の利益・自分んの利益を優先する生き方です。その生き方が多いでしょ。

 

 自分の(良)心よりも、会社の利益・自分の利益を優先する生き方そのものが、依存症なんですね。

 ですから、依存症大国ニッポンなんですよね。

 そこで私は、福沢諭吉に倣いまして、次のように申し上げたいと思います。

 独立の気力なき者は、依存症になりて悪事(食品偽装〔食の人権侵害〕・マンション偽装[住の人権侵害]・偽装政治[労働権・平和的生存権・知る権利などの人権侵害])をなすことあり(『学問のすすめ』から)。

 

 

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信頼という天来の恵み

2015-10-30 08:26:53 | アイデンティティの根源

 

 

 
あなたは、子どもを操縦してませんか?
  フロムとエリクソン、精神的には親戚でしょうね。 p115の7行目から。     ...
 

 

 

 

 ルターは、幸せな子ども時代を過ごせたみたいですよね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.237の13行目途中から。

 

 

 

 

 

所帯を持って落ち着きましたし、また有名になって落ち着きますと、ルターは子どもを前にして、ヒドイことを言いました。しかも、ラテン語ではありませんでした。でもこれは、いろんな語り口のあるルターのお喋りの一面でしかありませんね。ルター御みずからは、自分自身を寛容にも「お喋り」ホモ・ヴァ―ボスタスと呼びました。超が付く程のしなやかさが示されたのは、まさに、何年も修道院で禁欲的で童貞の若者時代を過ごした後に、幽閉されたのにもかかわらず、ルターが明らかに幸福な結婚生活に、45にして入ることができた、と言う事実です。

 

 

 

 

 

 ルターは、信頼を回復したおかげで、家庭生活はおしなべてうまくいったみたい。でも子供にひどいことを言ったのは、考え物。

 ルターが幸いな結婚生活に入ることができたのも、信頼という名の恵みだったのかもしれませんね。

 

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#大いなる恵み   「#私の感性」の大切さ その1 

2015-10-30 07:28:28 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
今の日本にも活かせる、バルメン宣言
  バルメン宣言。そう聞いて、それを知っている日本人は、10人の内1人もいないでしょう。しかし、そのバルメン宣言が、今の日本でも活かすことができる、と、この書を読...
 

 

 

 精神分析も、マインドフルネス同様、瞑想法だって、知ってました?

 The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p87の第2パラグラフの9行目途中から。

 

 

 

 

 

しかし、≪私≫≪私たち≫をもっと体系的に研究すれば、人間関係の現象を心理学的視点で理解することに必要なだけではなくて、精神分析の心理学を本当につかむ上で根幹に関わることでもあります。もちろん、私は、この≪私≫に関してお話する、言葉の上の難しさに気付いています。それは、「エゴ」や「自己」を語る難しさと一緒です。しかしながら、「≪私≫の感性」「私自身」に気付いていることですし、実際は、一連の、いろんな私自身に気付くことなんですね。さまざまに変わる自分の経験すべてが、概して(欠点を補う取り柄なんですが)、実際に経験もし,様々に変わる自分の経験も自覚している≪私≫が自覚し続けているものにもなる訳です。

 

 

 

 

 いかに、「≪私≫の感性」が大事か分かりますよね。それは、精神分析理解の根幹でもある、という訳ですね。自動運転や、「いつもやってることだから」と日々を漫然と生きるのではなくて、ハッキリしたヴィジョンを生きるためには、目的を持って生きるためには、≪いまここ≫を毎日イキイキ・ピチピチ生きるためには、「≪私≫の感性」を意識して生きることが、何にも増して大事になります。

 「≪私≫の感性」は,非常に主体的で自覚的です。ですから,「≪私≫という感じ」という訳語をとることを止めました。

 それは1つの大いなる恵みです。

 

 

 

 

 

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