エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

聖書の眼

2016-12-01 07:15:21 | 聖書の言葉から

 

 

 
「善い人生だったなぁ」と言って死んでいきたいあなたに
   技術 << 目的  「人を大事にする=上手にセックスする」という短絡は、どこから生まれたのでしょうかね? p82の15行目途中から。  &nb........
 

 

 福音を聴く耳、福音を見る眼は、自動運転で毎日を暮らしている人には、失われてしまっています。本当の自分、本当の命を生きる、耳と眼を手にしれたいと思いませんか?

 雨宮慧先生の言葉から。『こころの時代 旧約聖書を語る』から。

 

 

 

 

 

 聖書が期待する目は出来事の背後で神が働いていることを見る目なのです。

 

 

 

 

 

 そんな目は、根源的信頼感漲る目ですね。

 闇の中に光を見つけ出す目

 病の中に命を見つけ出す目

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患者さんのためでなく、利益集団のためのDSM

2016-12-01 07:07:27 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの

 

 

 
愛着障害のカウンセリングはこれだぁ! その10 「≪約束≫に基づく遊び」セラピーもPCITです
   言葉のイメージ  「言葉のイメージ」という言葉を知っていますでしょうか?  この「言葉のイメージ」と対になるものが「眼に見えるイメージ」、人形、フ......
 

  発達トラウマ障害(DTD)=愛着障害の子ども。ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』p.145、第3パラグラフから。

 

 

 

 これは、悲しい仲間はずれでしたね。つまり、大多数の臨床医たちが正確に診断できなかったし、臨床医たちも研究者達も、発達トラウマ障害(DTD)の人たちの治療法を実証的に開発することができなかったのです。だって、存在しない病状に対する治療法を開発するバカが何処にいますか? うつ病、パニック障害、双極性障害(躁うつ病)、境界性人格障害の治療に追われている時に、しかも、そのどの診断名も患者さんたちが対処していることを正しく言い当てていない病名である時に、虐待され、裏切られ、見捨てられたことに対処している人たちの治療がどうやったらできるでしょうか? 出来るはずないでしょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「診断もできず、治療もできないような病名は、DSMには入れられない」と、DSM幹部は考えたわけです。苦しんでいる人たちの役に立つための診断マニュアルではなくて、医者の世界が潤うこと、医者の世界が得することを第1に考えた、政治的判断のために、ヴァン・デ・コーク教授らの努力が、無にされたわけですね。

 アメリカの組織は、日本の組織みたいにムラ社会でもなく、タコツボ社会でもありません。ですから、ヴァン・デ・コーク教授のような開明的な人もDSMの作業グループに参加できたと思います。しかし、そのアメリカの組織にして、開明的なヴァン・デ・コーク教授らを排除したわけですからね。組織の改革には、それ相当の知恵と工夫が必要です。

 

 

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早く「良い子」にしようと思うほど、「悪い良心」の子、になる不思議  悪い良心は、本当の目的を見失っている

2016-12-01 04:35:38 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
反社会的組織が、身勝手な内部ルール優先する生き方
   技術 << 目的  「人を大事にする=上手にセックスする」という短絡は、どこから生まれたのでしょうかね? p82の15行目途中から。  &nb........
 

 Chilhood and Society p.252から。

 

 

 

 

 子どもが「良い子」になろうとしすぎると、早すぎる(悪い)良心を育てるになることでしょう。そうすると、目的のある繰り返しによって、試すために、何かを手にする(ポゼス)のではなくて、繰り返すことそのものに強くこだわる(オブセス)ようになってしまいます

 

 

 

 

 

 悪い良心は、本当の目的、を見失っている良心です。

 良い良心は、本当の目的、を肌身に感じる良心です。

 

 

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「クリスチャンだったら、怒りで心を乱していいの?」

2016-12-01 04:03:20 | 間奏曲

 

 

 
ジェームズ・ヒルマンにとって、聴くことと祈り 改訂版
   ポスト3.11の視点で見た、蘇える内村鑑三  内村鑑三といえば、堅いキリスト教の中でも、ことさらお堅い「無教会」(無教会キリスト者)の元祖。お堅い......
 

 聖書でも、翻訳が随分「間違っている」って、思いませんか? そして、正確に知ると、なんだか、新鮮な気持ちになりませんか?

 怒り。昔から、「怒っちゃ、ダメでしょ」と言われる場合も多くないですか? 

 本田哲郎神父様『釜ヶ崎と福音』から。

 

 

 

 

 

 「怒ることは心の狭さの現れではないか、罪ではないか」…

 「平和を願うはずのキリスト者が怒りで心を乱してどうするのか」…と、社会人としての、キリスト者としての教養が意義を申し立てる訳です。…

 痛みの共感と同時に自分のうちに怒りが湧き上がってくるのを知るとき、キリストに従おうとするものとして、そこに霊性上の深刻な危機を感じるのです。

 …

 危機を乗り越えるいちばんいい方法は、聖書がしばしば語られる「神の怒り」「キリストの怒り」の場面を、目をそらさずにていねいに見つめてみることです。その結果、「怒り」が霊性上大事なはたらきをするものであることがわかってきます。…

 イエスはエルサレムの神殿の境内で、供え物用に牛や羊や鳩を売っている人たちや、献金用の両替をする商人たちを見て、貧しい人たちに肩身の狭い思いをしいるこのような宗教上の制度に怒りを覚え、「縄でむちを作り、羊も牛もすべて神殿から追いはらい、両替屋たちの金をまきちらし、台という台をひっくり返した」(ヨハネ2章13-17節、マタイ21章12-17節、マルコ11章15-19節、ルカ19章45-48節参照)

 「怒り」には二通りあるようです。自分のわがままから出る威圧的な怒りと、痛みの共感・共有から湧き上がる解放を求める怒りです。

 前者は利己心と憎しみの現れであって悪であり、こういう怒りは抑え込む必要があります。しかし者は、社会的弱者が不当に抑圧されていることへの怒りであり、解放(社会正義の実現)のはたらきに踏み込むための大切なエネルギーとなるものです

 

 

 

 

 

 ですから、解放のための怒りを、大いに怒ってまいりましょう。

 

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