エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#死ぬべき体も

2024-07-27 08:32:47 | 聖書の言葉から
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。

生きているのに
死んでいるあなたへ    

今朝は本田哲郎神父様の言葉から 


キリストを死んだ者たちの中から立ち上がらせた神が

あなたたちに宿っているキリストの霊によって

あなたたちの死ぬべき体をも 生かしてくださいます

ローマ人への手紙 第8章11節


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#大声で叫ぶ神

2024-07-27 08:01:00 | 聖書の言葉から
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の、真実が大事。

生きているのに
死んでいるあなたへ    

今朝は,リチャード・コートさんの言葉から。
原著のp.45から。
本日も木鎌神父様の翻訳に筆者が手を加えました。
 


「私は道である」(ヨハネ14・6),「私は門である」(ヨハネ10・7)と

私どもの主が話す時

主は 世界に向かって,人と人の中に立ち 2人を結びつけるのは私だ

と大声で叫んでおられるのです

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#初めてのミラリング #表情を真似する

2024-07-26 08:14:31 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。
 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『粗末にされたら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 
今日は,p.356から。



子どもらはお互いの表情を真似する練習をします。
 

 ミラリングは表情の真似から始まるようですね。
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#たわいもない夢

2024-07-26 08:07:49 | エリクソンの発達臨床心理
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。

Childhood and Society 第3章  p.149 ブランクから。

 
 (訳注:5.超自然)
  A. 夢のお告げ(成人式)

 均質な文化社会には,一連の鋭い閃きと 自己犠牲と不満に対する気高い名に 報いを与える 筋の通ったやり方があるものですね。この自己犠牲と不満は,子どもらが,伝統的な意味で,善く強くなる間に,体験しなくてはならないことです。しかし,自分は違うのかしら 与えられた名声は,自分が求めることじゃあない と感じる人はどんなでしょう。英雄になりたい思わない男や 英雄の仲間や助けてになりたいと思わない女だったら、どうでしょうか?
 私どもの西洋の文化社会では,フロイトさんが私どもの教えてくれたことは,神経症の人の夢を善く調べるのは,厳格に適応しようとする過程で,やらないままにしたけれども,ホットケナイことは何か,思わずにいたけれど ホットケナイ思いは何か,記憶せずに来たけれど、ホットケナイ記憶は何かハッキリとさせるためだ,ということです。私ども臨床家が,フロイトさんから教えられた この教えを用いるのは,トラウマに苦しめられている人が,自分の文化社会の中に居場所を見つられるように教えるためですし,あるいは,教育制度を批判できるように教えるためなんです。今の教育制度は,過剰な規則を押し付け,あまりにも多くの人を駄目にしていますし,教育制度そのものも駄目にしています
 スー族の人たちは,アメリカに元々住んでいた人々と同様,強者から導かれるため 見当違いな誤りを正すため に 夢を用いました。しかし,スー族の人たちは,大人になるまで夢を待ちませんでしたが,それは,未知をはずれた発達をさせないためでした。スー族の人たちが青年になりますと,またまだ人生の計画を決める時間があるのに,外に出て,夢 あるいは,むしろ,人生の指針を探しました。武器も持たず,裸で,ただし、ふんどしと革靴だけ履いて,大平原に出かけて,太陽と危険と飢えに晒されて,根が謙虚にならんことを,導かれんことを,神に祈ります。 神に祈るのは,4日目ですし,見通しを創造することの中にあります。その見通しがあれば,…その男は,狩り,戦,馬泥棒など,普段することを上手にこなす勇気がでます。あるいは,自分の部族の習慣に,新しい風をもたらし,新しい歌や踊りやお祈りを作ったりします。あるいは,医者や詩人のような一廉の人になることもありました。あるいは,とどのつまり,常習的な変質者がヤラカスことにお鉢が回ることもあります。
 たとえば,ライチョウを見たと思った人は,それを自分の相談役に報告したら,それ以来,その人は ヘヨカの神でした。その男は,相談役が癒しの免許皆伝と見なすまで,出来るだけばかばかしく,出来るだけ道化師みたいに振舞わなくてはなりません。ウィスリーは次のように,青年期の教育をす るヘヨカの神体験について述べています。
「私が13のころ,春のことです,太陽が低く,雨と嵐の気配がありました。 我が仲間は,4つのティピーにいました。私が夢に見たのは,父とその家族がティピーに一緒に座っている夢でした…。


 たわいもない夢。
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#新しい心満ち溢れる毎日礼拝

2024-07-26 07:59:13 | エリクソンの発達臨床心理
「発達トラウマ障害 Enpedia」
は、内閣府情報調査室が情報操作をしているだろうGoogle検索ではなさらず、
MSN検索、あるいは、 Bing検索にて、ご参照ください。
としましたが、1日で、MSN検索、Bing検索にも、内閣府情報調査室が施したであろう、情報操作が入りました。
それだけ、「発達トラウマ障害 Enpedia」の真実が大事。 
 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』
 p.88から。



 人間は,生まれながらに,いつも何度でも,お互いに大切にし合い,確かな手ごたえを必要としている,ということを示すことは、ごまんとあります。確かにそうだと分かっていることは,いつも何度でも,お互いに大切にし合い,確かな手ごたえがありませんと,赤ちゃんをその根っこから駄目にするということです。それは,自分の実感はとても大切だ赤ちゃんが腑に落ちることを次第にしなくなったり,諦めてしまったりすることで,赤ちゃんをその根っこから駄目になるんです。人間は,生まれながらに,いつも何度でも,お互いに大切にし合い,確かな手ごたえを必要とするニーズは,人生のあらゆる舞台で,さらに新鮮で,さらにいのち豊かで,しかも,多くの人と共有できる 毎日礼拝を求めて,繰り返し現れます。この毎日礼拝は,顔と顔を見合わせて,「大切にし合い」名前と名前を呼びってお互いに 相手の気持ちにピッタリ合わせ合うのです。このような毎日礼拝は,強い心の絆を確かめる,いつも交わす挨拶から,お互い様を確かめる キリスト教の集会や 神から親身に関わって貰い,あるいは,神からの呼びかけられる中で,聖書の神様と出会うことまで,結果として,リーダーの「指導力」の中の出会いまで です。リーダーの「指導力」は,素晴らしい銅像や絵画,あるいは,何重にも重なった旗やテレビ出演によって,確かめられます。このような 毎日礼拝の様々な出会い全てが,一番うまくいけば,一見相矛盾すること,すなわち,「陽気で楽しい」と「美しい」を一体にします毎日礼拝の様々な出会い全てが,一番うまくいけば,繰り返しているから「お馴染み」なのに,毎日礼拝関わる度に,互いに大切にし合う「驚き」があります人類学者によれば、動物の毎日礼拝は,殊に,「明快な」シグナルの塊なのは,本能同士でぶつかり合うのを避けるためですが,人間の場合,「正反対に取れること」(と「曖昧なこと」)をなくすことが,毎日礼拝一番のお役目です。なぜならば,私ども人間は,自分の子どもや,子ども一般を大切に思い大切にすることができるように,子ども等も,憎しみや猛烈な恥を呼び起こすことができるからです。一番うまくいったときでも,大人たちは たとえ,危害を与えたり,魔女のようなことをしたりするわけではなくても,気ままに子どもを拒んだり、自分の相手を子どもに無理強いしたりします。私どもが大切にし,素晴らしいと思う相手は,同時にいつでも,敵にもなりますね。畏敬の念を抱く相手が,酷い相手にもなります。親身な関わりも,激しい怒りによって壊させる危険を宿しています。だからこそ,毎日礼拝によって聖書の神様のいのちを確かに分かち合うことは,日常施活から宗教的な礼拝まで様々ですが,二律背反の体験として欠くことができませんし,時代が変化している時には,新しい,心満ち溢れる形を見出すことに決まっています

 

 毎日礼拝は,新しい心満ち溢れる礼拝に決まっています。
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