エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

現世考 : その2 #どうせ世の中は変わらないとあきらめているあなたへ #子孫を残すのが唯一の自由になる小市民的な錯覚の抑圧

2017-09-28 09:43:11 | ハンナ・アーレントの真実

 
まずは落ち着いて : 発達トラウマ障害(DTD)セラピーの初め
   「こうしたい」という意志が誕生する時   人とのやり取りの中で、自分の気持ちを自由に出せないでいると、ビョーキになるのは、当たり前ですね。でも、こ......
 

 フェースブックで,兼平キャスターの投稿をシェアした際の文書です。若干訂正しましたが。

 

 

ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の「徹底的支配」の章で,「(徹底的支配は)多様で,ひとりびとりが違う人類全体を,あたかも「どうせ世の中は変えられません」と信じ込んだ,たった1つの人間しか存在しないかのよう,にしてしまいます。…問題になるのは,存在しないのに,「子孫を残すこと」が唯一の「自由」になるケダモノみたいな,人間もどきでっちあげることです」の述べています。お役人と,お役所仕事から利益を得ている人たちの偽らざる姿を,ハンナ・アーレントの鋭い感性は,えぐりだしていて,今のニッポンを考えるうえで,欠かせません。





 これは,エリクソンが言う「人類を上下2つの分けるウソ」に通じるものの考えだと,私は考えますね。

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本物は、なんにもしないところから・・・。

2015-08-15 10:20:15 | ハンナ・アーレントの真実

                       本物の信頼は、エバーグリーン!

 

 ルターは鼻が利くからでしょう、ミセカケやゴマカシは、お嫌いでした。

 Young Man Luther 『青年ルター』p.219の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターが感じていたのは、当時のキリスト教界が、パウロのキリストに対する信頼やキリスト自身の信頼を忘れ去って、「ユダヤや、トルコや、ペラギウス派の」考えに戻っちゃった、ということです。特に、彼らが、以前に決まった儀式を後生大事にすることを強調した点ですね。私どもは、ルターがローマで、天国行の切符を、無料有料に関わらず、必死で集めてたことを知れば、ルターが何に本気だったか? が分かりますでしょ。ルターは後に、この態度を風刺画的に言ってますよね「その時の私は、聖ヤコブに、ローマに、エルサレムに、あれやこれやと、助けを求めてひた走ったかと思えば、聖ブリギッテに、あれもこれもと、お祈りし。今日も明日も断食したかと思えば、あっちでもこっちでも、懺悔の告白をしに行っては、この人あの人にお伺いを立てる…。それでも、心からの平安が得られませんでした」とね。

 

 

 

 

 

 心に平安がない人が、やる典型ですね。いいえ、心の中に、自分でも分からない、深い不安と激しい怒りがある人の典型だ、と言うべきでしょうか。静かに立ち返ることを知らないんですね。静かに立ち返る、その良さを知らないんですね。 

 そこに、儀式という形に囚われる温床が出来るんですね。何かをすることが、平安に繋がると誤解してんですね。何かをすることが、信仰だと誤解してるからですね。間違いですね。 

 逆説に聞こえるかもしれませんが、なんにもしないことが信頼です。敢えて言えば、本物の信頼は、何もしないところから生まれます。神様の恵みだからですね。けれども、信頼が与えられると、漲る力が湧いてきますから、自ずから行動が生まれてくんですね。その行動だけ見ていると、その行動が、信頼(信仰)と誤解しやすい。でも、間違いですね。

 本物の信頼は、なんにもしないところから、静かにしているところから生まれます。神様の恵みだからですね。

 

 

 

               本物の信頼は、エバーグリーン!

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アイヒマン裁判の性質

2015-03-05 15:29:01 | ハンナ・アーレントの真実

 

 アイヒマンの裁判の冒頭場面です。

 『エルサレムのアイヒマン』Eichmann in Jerusalem の3ページの6行目途中から。

 

 

 

 

 

裁判官たちの長い壇は、数えきれない数の本が置かれ、15冊以上の証拠書類が、速記者の隣に並べられていました。裁判官のすぐ下には、通訳がいて、被告人、ないしは、被告代理人と裁判所が直接的にやり取りするのに、通訳が必要なんですね。その他は、ドイツ語を話す被告側が、ほとんどの傍聴人と同じように、ヘブライ語の訴訟手続きを理解できたのは、同時通訳の無線のおかげです。同時通訳は、優れたフランス語ですし、まあまあの英語なのに、本当の喜劇なんですが、しばしば理解不能なドイツ語です。

 

 

 

 

 

 処刑という結論が決まっていたからでしょう、裁判の中身が被告側に理解されてもされずとも、どっちでも良かったんですね。ドイツ語が第一言語だった、アーレントは、同時通訳のドイツ語が滅茶苦茶なことは、すぐに理解できたでしょう。同時に、この裁判の性質も…。

 何よりも、原理を大事にする哲学者にとって、その裁判の性格がどのように映るのか? それは火を見るよりも明らかですね。

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