エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

創造性の源 アインシュタインの連想遊び

2013-08-31 02:06:10 | エリクソンの発達臨床心理

 

 アインシュタインが自分の生活で、自分の研究で、イメージ遊びを大事にしていたことが紹介されました。今日はその続きです。

 

 

 

 

 

 晩年に、アインシュタインが物思いにふけったことは、「私は相対性理論をうまく定式化することになったのは、 私が自分自身にずっと、時間と空間に関する問いをぶつけ続けたからなんですね。その問いは、子どもでなければ知りたがらない問いです。」ということでした。アインシュタインは、1945年に次のように明確に述べています。

心理学的な視点から見れば、(あるイメージとあるイメージを)組み合わせて遊ぶことが、実り豊かな着想に不可欠な特徴だと思われます。それは、何らかの繋がりがあって、言葉や他の記号で論理的に組立てることで、ほかの人に伝えることができる、その前のことなのです。今申し上げた諸要素は、私の場合は、視覚的で、力強いタイプの遊びでした。型通りの言葉や他の記号を苦心して探さなくてはならないのは、次の段階になってからです。その時には、今申し上げた「連想遊び」が十二分に出来ていて、しかも、思うままにその「連想遊び」を繰り返すことができるのです。

 これに付け加えて、アインシュタインは、自伝的なメモに書いています(16才の時こう書いています)。

どんな権利があって、この人はこのような課題のある領域の思い付きを相手に、何かを証明する努力をチョットもせずに、いい加減に、単純に、働くのだろうか?(と読者は質問するでしょう) 私の弁解はこうです。つまり、私どもが考えていることはすべてには、いろんな概念(Begriffen[「理解する」を意味するドイツ語のbegreifenの過去分詞])と自由に遊んでいるという性質がある、ということです。この遊びをする根拠が、諸々の感覚が経験することをざっと見渡す方法にあります。その感覚が経験することに私どもが到達できるのは、この遊びの助けを借りて初めて可能なのです

 

 

 

 

 

 ここも、 実に面白いですね。相対性理論に至る着想の根っこに、イメージとイメージを組み合わせて遊ぶ遊びがあった、とアインシュタインは言います。しかし、このイメージとの戯れることが、連想遊びになり、感覚で経験したことを理解して、概念にまとめ、言葉にしていったのですね。

 それちょうど、赤ちゃんが様々な感覚が感じている感じ(sense この言葉ほどエリクソンが好きな言葉はないでしょう)で遊んでいて、その後にお母さんをはじめ、周りの人たちから、言葉を習って、この感じに名付けていき、その中から概念とその関係が改めて生じるのに、非常に似ていますね。創造は、赤ちゃんが言葉を覚えていく過程(系統発生)を、ひとりびとりが、繰り返す(個体発生)ことなのでしょうね。ただ、その違いがあるとすれば、その言葉と概念の結びつきは、創造の場合は、非常にユニークで個別的あるのに対して、赤ちゃんの時のそれは、ユニークであると同時に、より常識的、集団的であることでしょう。

 それにしても、アインシュタインが問い続けた、時間と空間に関する問いとは、いったい何なんでしょうか?

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アインシュタインの創造主 : 遊びとイメージ

2013-08-30 02:00:55 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「夢のスクリーン」、いかがでしたでしょうか?夢も集団のヴィジョンの影響を受けやすいけれども、たほう、患者のヴィジョンは、集団のヴィジョンを超越する新しい人間を示すヴィジョンたりうることに、ハッとさせられる思いです。

  さて、今日からは、第三章 「『共に見る』ヴィジョン」 第3節 「アインシュタインのパズル」に入ります。

 

 

 

 

 

 ガーランド・ホールトンは、最近の著書の中で、あの重要な理論の構築者、アルバート・アインシュタインの業績では、視覚化することがとっても大事だった、と私どもに教えています。私どもの関心をひかずにおかないのは、アインシュタインが子どもの頃、熱心にブロックを組立てて、ジクソー・パズルを組み合わせていた、ということです。ホールトンが報告しているところによれば、「4才が5才の頃、アインシュタインは、彼が「不思議なこと」と呼んだことを経験したことは、よく知られています。その時、父親が彼に磁石のコンパスを見せたのでした。それは、アインシュタインが繰り返し言及した経験でした」ということです。真の意味で、それこそ、彼にとっては、おもちゃだったのです。

 若いころアインシュタインがギムナジウムで、それは昔の高等学校のようなものですが、外国語を落第した事実を、ホールトンが大事にしたことは当を得たことです。それは、1895年にチューリッヒ工科大学の入試に失敗し、学校に戻らなければならなかった時のことです。その時になって初めて、アインシュタインは1つの学校を見つけ出しました。その学校は偉大なペスタロッチによっておおよそ100年前に設立され、ペスタロッチのヴィジョンを未だに文化的に継承していたのでした。ペスタロッチの教育原理は、Anschauung(ドイツ語で「直観」)、すなわち、私的な、それでいて、体系的な「ものの見方」が、すべての学びの絶対的な基礎である、ということでした。それで、「すべてが、どういうわけか、アインシュタインにとって、変わったのでした」。それは、一方では、最後的には相対性理論まで至る、彼の考え方を励ますものでしたし、また他方では、友情の良さに彼が気付くことにもなったのでした。ホールトンは次のように結論を言います。

像力の対象は、アインシュタインにとっては、明らかに、説得力のある形で、リアルな感じのある、目に見える素材でした。その素材を、彼は、自発的に、しかも、陽気で楽しく、こころに思い浮かべ、組み合わせることができました。たとえて言えば、それは多分、まるでジクソー・パズルの形と遊んでいるようなものだったのです。キーワードはBild(image イメージ)Spiel(play 遊び)です。そして、いったんこの2つの言葉に注意が向けば、アインシュタインの著作にこの2つの言葉がビックリするくらいたくさんあることに気付きます。

 

 

 

 

 厳密科学の中心である物理学の大学者、アインシュタインが、遊びイメージを大事にしていたことは、実に面白いことですね。前節の終わりで、エリクソンが、「厳密科学においてさえ、遊びヴィジョンの役割がいかに大事か」と言っていたことそのものが、早くもここで示されたわけです。遊びには、確かに、自発的で陽気で楽しい、が必ずあります。しかし、遊び見ることが、なぜこれほど真理を明らかにするときに、大きな役割を果たすのか? それが不思議でなりません。

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十分に分析された人間?

2013-08-29 03:34:24 | エリクソンの発達臨床心理

 

 患者は、人類全体がいっそう自由に、いっそう人間らしい暮らしを実現するために、そういったヴィジョンに私どもを誘うために、身代わりに苦難を担当してくださっている、という視点は重要ではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 しかし、再び認めなくてはならないのは、精神分析における、この強力に物語を作り出す要素は、文芸文化との相性の良さにおいて、現代の科学的ヴィジョンをも共有しなければならない、ということです。それは、精神分析が準解剖学的用語と唯物論的用語を用いている点において、明らかでしょう。そこで、これから研究することが大事になることは、このような「悲劇的な」ヴィジョンが、現代世界での仕事を通して、自力で成功した人間が抱く政治的なヴィジョンに対して、いかに適応するのか、ということだけではなく、「十分に分析された」人間というウソのヴィジョンにしきりになろうとする、人間を機械みたいに考える、機械論的な立場を、いかに示していると思われるのか、ということです。「十分に分析された」人間なんぞがいるとすれば、自分の衝動と空想をコントロールできるでしょうし、社会的に適応し、リアルに感じることそのものに対峙することができるでしょうけれども・・・。いかにこういったことが可能なのかを、歴史的自己評価の元で(もう一度)研究し(直さ)なくてはならないでしょう。というのも、私どもは結論として強調しなくてはならないのですが、そういった研究をするために、精神分析ほど準備が整っている分野は他には、ない、のですから。

 このような一つの仕事において、新しいパラダイムを創りだすもう一人の創造主を認めることが助けになるかもしれません。そのもう一人の創造主は、厳密科学においてさえ、遊びヴィジョンの役割がいかに大事かということを、私どもに教えてくれるはずです(と分かります)

 

 

 

 

 ここはちょっと難しい科学論ですね。

 精神分析には、物語を創りだして、悲劇の中に人間の本当の喜びを発見する働きがありましたね。その働きは、ここでエリクソンが間接的に述べているように、遊びヴィジョンの働きと言ってもいいのです。しかし、現代は何と言っても、人間を機械のように考える機械論というものの考え方が有力です。機械論では、人間は、情念も衝動もない、機械と見なされ、いってみれば、「完全に分析が終わった」、逆説的ですが、神様のような人間を想定しているのです。しかし、現実には、そんな人は1人もいませんね。ですから、機械論が依って立つ人間に対する見方、すなわち、人間には、情念も衝動もなく、機械の様に働くことができる、という人間観、「機械仕掛けの人間」、神のように「完全に分析しきった」人間という見方には、ウソがあるのです。ですから、この精神分析の物語を創りだす要素が、どのように、機械論の前提する機械の様な人間に対する見方に対処できるのか、早い話が、その人間に対する見方を変更できるのか、が問われている、とエリクソンは言っているのです。ですから、次回から、アインシュタインの遊びを話題にするのです。

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世界にいっそうの自由をもたらす<新しいヴィジョン> 身代わりとしての患者

2013-08-28 02:00:39 | エリクソンの発達臨床心理

 

 患者のヴィジョンは、集団のヴィジョンを超越している、ということは、極めて大事な視点です。その患者のヴィジョンこそ、私どもが1つの人類本物の平和を実現するために、必要不可欠なものなのです。そういう意味では、患者になっている人はすべて、私どもが人間的な暮らしを実現するために、身代わりに苦難を担当してくださっている、と言って間違いありませんね

 

 

 

 

 このような学びによって、私どもがよりよく理解できるのは、革命的治療法は、その名に値するものであれば、世界に対する新たなヴィジョンをもたらたしてくれる、ということです。精神分析の実践と理論に暗に示された世界のイメージについて議論すれば、それは、ロイ・スカファーの『リアルに感じることに対する精神分析的ヴィジョン』に関する印象的な意見から始めるのがいいでしょう。彼はその著書の中で、物語を創る姿勢精神分析的なヴィジョンだといいました。その物語が悲劇であっても、喜劇であっても、風刺劇であっても、恋愛劇であっても、物語る姿勢は精神分析的なヴィジョンなのです。彼もまた、「リアルに感じることのヴィジョン」について語って、次のように言います。

ヴィジョンという言葉は、半ば主観に根差した判断を意味します。つまり、それは、想像する行為と信じることに根差した判断なのです。たとえ、その想像する行為や信頼することは、たてえ、幻想であったり、複雑であったりしたとしても、リアルに感じることに対して、別の角度ではなくて、ある特定の角度から見ることを、必ず意味するのです。ヴィジョンが客観的諸事実の取捨選択とその客観的諸事実の関係と解釈に影響するにつれて、ヴィジョン同士の間の衝突は、「証拠」に訴えかけるだけでは、解決できません。この衝突が、単に意見の問題だと思ったら、大間違いです。

ロイは、精神分析的な、「リアルに感じることに対するヴィジョン」を追い求める中で、精神分析化された新しい人のいう、1つのイメージをハッキリ述べています。そのイメージは、フロイトの治療的・哲学的雰囲気にまぎれもなく近いものです。

責任と選択の問題が分析に加わるにつれて、悲劇的理解がますます強調されます。そのとき、分析を受けている患者は、承知の上で、しかも、残念そうにさえしながら、しかし、当然のことながら、自分を苦難に巻き込むことになるだろうと知っている選択をするのです。ただし、同時に、その患者は、自分の人生を楽しむチャンスとともに、自分が出逢う危険や面倒を減らすチャンスも高める自由をより満喫できるだろう選択をも、しているのです。

 

 

 

 

 

 精神分析は、患者になっている人がいっそう自由になるための選択である、ということが示されました。それは、当初は苦難であっても、結局は、患者その人に、人生を愉しみ、危険と面倒を減らすチャンスに恵まれることになる、という福音なのです。その先覚者が、患者と同様な状況を経験した、エリクソンやフロイトやユング達でしょうね。彼らは、自分が得た自由を独り占めすることなく、私どもに、その自由をお裾分けくださっているわけですね。今現在、患者を担当してくださっている人も、私どもがいっそう自由に、いっそう人間らしい暮らしができるように、苦難を担当してくださっていることになります。

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集団のヴィジョン<クライアントのヴィジョン

2013-08-27 02:27:55 | エリクソンの発達臨床心理

 

 精神分析(心理療法)は、クライアントに対して他者(権力)から支配されない自由の場を提供することで、クライアントが無意識から支配されない自由を手にすることを支援するのです。自由は、人間にとって根源的に必要不可欠な条件ですし、民主主義の根幹ですから、心理療法は民主主義の基盤を作っているということになります。日本では、まだまだ心理療法がマイナーなのは、日本の自由民主主義がそれだけマイナーだからです。

 

 

 

 

 私は、既にたくさんの文脈において、ハッキリ知りたいと思ってきたのは、この自信過剰な事実の結果が、精神分析の概念化にもたらしたものは何なのか? ということでした。精神分析の注意は、明らかに、心の中の目に見えない出来事に集中しますし、実際問題、「心の中の力」と呼んだり、「心の中の制度」とさえ呼んだりする者の同士の間のやり取り、例えば、超自我との関係の中での自我を理解しようとします。社会的な制度は、その代りに、「心の外なる目に見える世界」の一部として呼ばれます。それは、目には見えない出来事を映し出す(投影する)馬鹿でかい外なるスクリーンと言って間違いではありません。私は、しばらく、目に見える制度目に見えない制度が、実際に、お互いに、お互いによって、どのように補い合い、どのように存在するのかを、より詳しくお話ししようと思います。ところで、1人の患者の心の中のスクリーンに映りだされたことが少なくとも示しているのは、その人個人が、その集団のヴィジョンによって、生きているという事実以上のことを、その人の臨床歴が、私どもに教えてくれている、ということです1人の患者の心のスクリーンに映っていることは、多くの場合、患者本人が知っていたり、告白したりすること以上なのです。しかも、その集団のヴィジョンが、たとえ、宗教的な世界のイメージの形であっても、政治的世界のイメージの形であっても、それを1人の患者の心のスクリーンに映っていることは超えていますし、あるいは、集団のヴィジョンが、言葉にできる思想や輝かしい政策のような過剰に意識的なものに見えたり、「生き方」としてボンヤリ分かるだけだったりする場合も、それを1人の患者の心のスクリーンに映っていることは超えています。すなわち、集団が持っているヴィジョンが、人々の心に深く根を下ろした、純粋に信頼する体系なのか、それとも、まだたま、目に見えない形の取引でも目に見える形の取引でも、大なり小なり狡い罠のママなのか、に関わらず、それを1人の患者の心のスクリーンに映っていることは超えている、のです。

 

 

 

 

 

 1人の患者の心のスクリーンに映っていることは、集団のヴィジョンを超えている。逆に申し上げれば、集団のヴィジョンを超えたヴィジョンを抱えている人が、患者に見える(患者になっている)、ということです。

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