アインシュタインが自分の生活で、自分の研究で、イメージと遊びを大事にしていたことが紹介されました。今日はその続きです。
晩年に、アインシュタインが物思いにふけったことは、「私は相対性理論をうまく定式化することになったのは、 私が自分自身にずっと、時間と空間に関する問いをぶつけ続けたからなんですね。その問いは、子どもでなければ知りたがらない問いです。」ということでした。アインシュタインは、1945年に次のように明確に述べています。
心理学的な視点から見れば、(あるイメージとあるイメージを)組み合わせて遊ぶことが、実り豊かな着想に不可欠な特徴だと思われます。それは、何らかの繋がりがあって、言葉や他の記号で論理的に組立てることで、ほかの人に伝えることができる、その前のことなのです。今申し上げた諸要素は、私の場合は、視覚的で、力強いタイプの遊びでした。型通りの言葉や他の記号を苦心して探さなくてはならないのは、次の段階になってからです。その時には、今申し上げた「連想遊び」が十二分に出来ていて、しかも、思うままにその「連想遊び」を繰り返すことができるのです。
これに付け加えて、アインシュタインは、自伝的なメモに書いています(16才の時こう書いています)。
どんな権利があって、この人はこのような課題のある領域の思い付きを相手に、何かを証明する努力をチョットもせずに、いい加減に、単純に、働くのだろうか?(と読者は質問するでしょう) 私の弁解はこうです。つまり、私どもが考えていることはすべてには、いろんな概念(Begriffen[「理解する」を意味するドイツ語のbegreifenの過去分詞])と自由に遊んでいるという性質がある、ということです。この遊びをする根拠が、諸々の感覚が経験することをざっと見渡す方法にあります。その感覚が経験することに私どもが到達できるのは、この遊びの助けを借りて初めて可能なのです。
ここも、 実に面白いですね。相対性理論に至る着想の根っこに、イメージとイメージを組み合わせて遊ぶ遊びがあった、とアインシュタインは言います。しかし、このイメージとの戯れることが、連想遊びになり、感覚で経験したことを理解して、概念にまとめ、言葉にしていったのですね。
それちょうど、赤ちゃんが様々な感覚が感じている感じ(sense この言葉ほどエリクソンが好きな言葉はないでしょう)で遊んでいて、その後にお母さんをはじめ、周りの人たちから、言葉を習って、この感じに名付けていき、その中から概念とその関係が改めて生じるのに、非常に似ていますね。創造は、赤ちゃんが言葉を覚えていく過程(系統発生)を、ひとりびとりが、繰り返す(個体発生)ことなのでしょうね。ただ、その違いがあるとすれば、その言葉と概念の結びつきは、創造の場合は、非常にユニークで個別的あるのに対して、赤ちゃんの時のそれは、ユニークであると同時に、より常識的、集団的であることでしょう。
それにしても、アインシュタインが問い続けた、時間と空間に関する問いとは、いったい何なんでしょうか?