「気狂いピエロ」と「勝手に逃げろ/人生」のDVDを立て続けに観た。かつて蓮實重彦が指摘していた箇所を引用したい。「夏目漱石論」とそっくりなのは当たり前としてもなお、観ていて「亀裂あるいは裂け目」のテーマが回帰してきた経緯を簡略に述べたいとおもう。
「ジャン=リュック・ゴダールには、しばしば疾走の比喩がつきまとう。それは、おそらく、問題の組み合わせがめまぐるしく変化するその変貌ぶりの激しさが与える印象なのだろう。だが、脱兎のごとく走り出すという走者のイメージほどゴダールの映画から遠いものもまたとあるまい。スピードが、かつてゴダール的な問題であったことなどないからである。ごく短いショットの素早い編集が煽りたてる速さの錯覚、激しい運動を追う移動撮影が印象づける疾走感といったものは、皆無というほかはない。ゴダールにあっては、逃亡や追跡さえが逡巡や迂回や停滞にみちており、その軌跡は決して直線におさまらないのである。実際、『気狂いピエロ』のベルモンドとアンナ・カリーナとは真一文字に南を目指しただろうか。『カルメンという名の女』のジャック・ボナフェとデートメルスとは、真一文字に北を目指しただろうか。国道ぞいのスーパーでの万引き男の挿話は、逃亡者は逃亡するという問題に斜めから介入する泥棒は泥棒するという問題として、疾走の速度と直線性とを大がかりに軽減させている。われわれがゴダールに見るものは、こうした逡巡であり、迂回であり、停滞なのだ。にもかかわらず疾走の比喩がゴダールにつきまとうのは、人びとが、変化の唐突さと走行のスピードとをとり違えているからにほかならぬ。逃亡者がその逃げ足の速さを誇ったりすれば、ゴダールの映画はフィルムとなる以前についえさるほかはあるまい。なるほど、ゴダールにあっても人は走る。だがその足どりは、『勝手にしやがれ』の最後でのベルモンドの瀕死の走行のように、いかにもおぼつかないものである。彼らは、過去から未来へと一目散に駆けぬけたりはしない。ゴダールにあって走る者たちは、現在と定かならぬ未来の一点の間をもどかしげにさ迷うばかりだ。『カルメンという名の女』の不運なドン・ホセことジョゼフは、自分のまわりにめぐらされている犯罪計画の全貌を知りえぬままに、ただ『あとで教えてあげるわ』という女の言葉に含まれる《あとで》と《いま》との間に宙吊りにされる。その宙吊りの時=空こそ『勝手に逃げろ/人生』の英語題名としてゴダール自身によって選ばれたスローモーションの一語が意味するものにほかならぬ。スローモーション。『勝手にしやがれ』のベルモンドの逃亡は、まぎれもなくスローモーションの疾走ともいうべきものだ。技法としての超高速度撮影こそ行われてはいないが、そこでの空間と時間とはゆるやかに引きのばされてゆく。そして、『勝手に逃げろ/人生』の映画を撮らない映画作家ポール・ゴダールを演じるジャック・デュトロンは、文字通りのスローモーションによって、スローモーションの死を生きることになるだろう。別居中の妻と娘とに駅前の雑踏で出会い、ふと言葉をかわし、あとずさり気味に二人から遠ざかるデュトロンは、さしてスピードを出していたわけでもない自動車にはねられ、路上で引きのばされた死を演じる。そのゆるやかなスローモーションは、恐怖は恐ろしい、孤独は一人ぼっちである、卑怯者は卑怯である、破局は破局的であるといういくつもの同語反復的な断言命題を画面に点滅せしめるに必要なだけ時間を引きのばしてゆく。だが、それにしても、人はこれほど抒情から遠いスローモーションを見たことがあるだろうか」(蓮実重彦「ゴダール革命・P.41~44」ちくま学芸文庫 二〇二三年)
こうある。
「『あとで教えてあげるわ』という女の言葉に含まれる《あとで》と《いま》との間に宙吊りにされる。その宙吊りの時=空こそ『勝手に逃げろ/人生』の英語題名としてゴダール自身によって選ばれたスローモーションの一語が意味するものにほかならぬ」
昨日参考として次のように引いておいた。
「時間の空虚な形式あるいは第三の総合とは、何を意味するのだろうか。デンマークの王子〔ハムレット〕は、『時間はその蝶番から外れてしまった』と語る。もしかするとデンマークの哲学者〔キルケゴール〕も同じことを言うのではないだろうか。そして彼は、オイディプス的であるがゆえに、ハムレット的であるのではないだろうか。蝶番、《カルドー cardo》とは、時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルデイナル)な点に、その時間が従属しているということを、保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間、すなわち運動の数である)。反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれと運動との関係を覆してしまうような、そうした時間なのである。事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間のなかで繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち、円環であることを公然とやめるのである)。時間は、機軸的(カルデイナル)なものであることをやめて、順序的(オルデイナル)なものに、つまり、純粋な《順序》としての時間へと生成するのである。ヘルダーリンは、時間は『韻を踏む』のをやめる、なぜなら、時間は、〔詩の〕始まりと終りがもはや一致しなくなるような『中間休止』の前半部と後半部に、おのれを不幸に配分するからであると語っていた。わたしたちは、時間の順序を、以上のような中間休止に応じた不当なものの純粋に形式的な配分として定義することができる。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と。その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定ではなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。その場合、時間はもはや運動に従属していないがゆえに、そうした総合は必然的に静的なものである。もっとも根本的な変化の形式〔順序〕があるわけだが、この変化の形式は変化しないのである。《私》の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって<これを最後に>順序づけられる<前>と<後>である(中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点なのである)」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.245~246」河出文庫 二〇〇七年)
ここで「中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点」とある。ニーチェ「ツァラトゥストラ」から以下参照。
「思念と行為は別ものである。それと行為の表象とはなおさら別ものである。それらのあいだに因果関係の車輪は回っていない。
表象がこの青白い犯罪者を青白くしたのだ。かれが犯罪の行為をしたとき、かれはその行為と等身だった。しかしその行為を犯したのちに、かれはその行為の表象に堪えることができなかった。
そのとき、かれは絶えず自分をその犯罪行為の行為者として見るようになった。わたしはこれを狂気と呼ぶ。かれはおのれの例外行為をおのれの本質と誤認するにいたったのだ。
雌鶏(めんどり)のまわりに白墨で線を描けば、雌鶏は呪縛(じゅばく)されて動くことができない。それと同様に、犯罪者が行なった所業が、かれのあわれな理性を呪縛したのだ。ーーーわたしはこれを行為の《のち》の狂気と呼ぶ。
さらに聞け、法官たちよ。そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57~58」中公文庫 一九七三年)
これもまた昨日引いた中条省平の文章。
「『勝手にしやがれ』のゴダールは映画史に亀裂を入れたのだ。脚本を書かず、撮影直前まで思索に思索を重ね、その結果をメモにして役者やスタッフに伝え、撮影すべきことを撮影しながら発見していく即興主義演出。隠しカメラを含めてカメラを縦横に操り、いま・ここで起こっていることをドキュメンタリーとして記録するような変幻自在のカメラワーク。カットとカットが自然な滑らかさでつながることを史上目的とせず、同時に、エイゼンシュタイン流のモンタージュのような人工的な付加価値を捏造することを拒否しつつ、無造作に切ってつないだ結果生じたジャンプ・カットという奇跡的な編集技法。映画史を意識し、自分の見た映画の記憶を作品作りの養分とし、それを自在に引用する独自の方法論。そうしたやり方で確かにゴダールは映画を別の次元に解放したのだ」(中条省平「ゴダール 回顧的断章」『ユリイカ臨時増刊ジャン=リュック・ゴダール・P.90』青土社 二〇二三年)
この「亀裂あるいは裂け目」について。例えばゾラは膨大な小説作品群のそのほとんどを通して語ってはいないだろうか。
「一族は、あまり満足な者はいなかった。多くは軽微ながら精神的欠陥を持っていた。彼は、時々この遺伝的欠陥を痛感した。それは彼が不機嫌だったからではない。以前彼が痩せていたのは、自分の発作的症状を自覚し、それを恥しく思ったからに他ならない。そうではなくて、彼の存在に、急に均衡の喪失が起ったからである。どこかが割れるか穴が開くかして、そこから彼の自我が逃げ出し、あらゆる物を歪める茫漠たる煙のようなものの中に溶け込んでしまうのだった」(ゾラ「獣人・上・P.77」岩波文庫 一九五三年)
ドゥルーズはいう。
「『獣人』の有名なテクストがある。『その家族は調子がよくなかった。多くの人が裂け目をかかえていた。彼は、ときに、はっきりと、裂け目を、遺伝的なその裂け目を感じた。彼の健康がすぐれなかったわけではない。彼が痩せ衰えたのは、発作の懸念と恥辱のときだけだったから。しかし、彼の存在の中で、平衡が突然に失われたわけである。亀裂や穴のように。そこを通って、ある種の大きな煙の只中で、自我が彼から逃れ去っていった。その煙はすべてを歪めーーー』[原書では引用文全体がイタリック]。ゾラは大きなテーマを発する。そのテーマは、別の形態の下で、別の手段によって、現代文学によって取り上げられることになるし、そして、常にアルコリスム[アルコール中毒、依存]との特権的な関係において取り上げられることになる。すなわち、裂け目のテーマである(フィッツジェラルド、マルコム・ラウリー)。」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.260」河出文庫)
ゾラは執筆当時に台頭してきた生理学用語である「遺伝」という言葉をなるほど使ってはいる。ところが「獣人」の登場人物セヴリーヌはルーゴン家に属さない。血族ではない。しかし。
「出会いは裂け目を共鳴させる。つまり、セヴリーヌのように、ルーゴン家に属さない人物が、同時に、ルーゴン家の一人の本能を固着させる対象として、しかしまた自分自身も本能と気質を備える存在として、最後に、他の裂け目と繋がる秘密の裂け目を証してしまう共謀者や敵としても介入してくる」
ゾラの小説が語っている「遺伝」は生理学とは何の関係もない。
「何が裂け目の周りに配分されるのだろうか。何が裂け目の縁に群がるのであろうか。ゾラの呼び方では、気質、本能、『粗野な食欲』である。ただし、気質や本能は、心理生理的な存在者性を支持するのではない。それはもっと豊かで具体的な知見であり小説の知見である。本能が支持するのは、一般に生活と生存の条件、歴史的で社会的な環境(ここでは第二帝政)の中で決定される生活方式の保持の条件である。それゆえに、ゾラの市民は、自分の悪徳・無気力・恥辱のことを簡単に徳に数え入れることができる。また、それゆえに、逆に、しばしば、貧民はアルコール中毒といった『本能』に還元されるわけだが、この『本能』は、貧民の生活の歴史的条件、貧民が歴史的に決定される生活を堪える唯一の仕方を表現している。ゾラの『自然主義』は、常に歴史的で社会的である。したがって、本能、食欲には、さまざまな姿形がある。あるときは、本能は、所与の有利な環境の中で身体が保持される仕方を表現する。この意味では、本能そのものが頑健と健康である。あるときは、本能は、環境の所与を自己の利益に転ずるために他の身体を破壊することがあるとしても身体が発明する生活方式を表現する。この意味では、本能は曖昧な力能である。あるときは、不利な環境の中で歴史的に決定される自己の実在を堪えるために、自己自身を破壊してでも堪えるために不可欠の生活方式を表現する。この意味では、アルコール中毒、倒錯、病気が、耄碌でさえもが、本能である。本能は、ある生活の様式を永続させる努力を常に表現[=発現]する限りにおいて、当の生活の様式を保存する傾向がある。ただし、この生活の様式、本能そのものは、語の狭い意味で保存的[保守的]であるのに劣らず破壊的でありうる。本能が表出するのは、健康そのものだけではなく、退化、病気の促進、健康の喪失でもある。どの形態においても、本能は決して裂け目と混じり合わないが、本能と裂け目は可変的な緊密な関係を取り結ぶ。あるときは、身体の健康のおかげで、一定期間、善かれ悪しかれ、本能は裂け目を覆い隠したり貼り合わせたりする。あるときは、本能は、裂け目を拡大し、裂け目に別の方角を与えて裂け目を破裂させて、身体を衰微させる事故を引き起こす。例えば、『居酒屋』のジェルヴェーズでは、アルコール本能が、元来の欠陥としての裂け目に裏地を張る。(最終的に裂け目を反感できる進化的ないし理念的な本能があるのかという問いは、当面は脇に置いておく)。
裂け目を通して、本能は、生活様式の歴史的で社会的な境遇の中で本能に対応する対象を探し求める。葡萄酒、貨幣、権力、女性ーーー。ゾラが好む女性のタイプの一つは、神経質な女性である。彼女は、自分の豊かな黒髪に疲労困憊しており、受動的であり、自分の真価に気づいておらず、何らかの出会いで自ら鎖を解いて荒れ狂うことになる(ルーゴン・マッカール叢書に先立つ『テレーズ・ラカン』のテレーズ、『獣人』のセヴリーヌ)。恐るべきことに、神経と血の出会い、神経質と多血質の出会いが、ルーゴン家の起源を再生産する。出会いは裂け目を共鳴させる。つまり、セヴリーヌのように、ルーゴン家に属さない人物が、同時に、ルーゴン家の一人の本能を固着させる対象として、しかしまた自分自身も本能と気質を備える存在として、最後に、他の裂け目と繋がる秘密の裂け目を証してしまう共謀者や敵としても介入してくる。裂け目-蜘蛛。ルーゴン-マッカール家では、すべてがナナで頂点に達する。ナナは、根底では、彼女の活発な身体では、健全で善き娘であるが、他人を魅惑し自分の裂け目と交流させ他人の裂け目を明るみに出すための対象となる。下品な生殖質である。以上から、アルコールの特権的な役割も出て来る。すなわち、この『対象』のおかげで、本能は裂け目そのものとの最深の合流を遂行するのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.262~264」河出文庫)
ドゥルーズのいいうように「獣人」後半で露わになるセヴリーヌとその周囲の変容について、ひとつ引いておこう。
「或る晩、部屋の中を少し歩けるようになったジャックが、起きて窓の傍に行くと、ミザールの家で角燈があちこち動いているのを見た。彼が探しているのに違いなかった。しかし、その翌晩再び様子を窺っていると、セヴリーヌの眠っている隣室の窓の下の往来に、カビューシュの大きな黒い影が立っているのを見て、ジャックは驚いた。それは、なぜかは分らなかったが、彼をいた立たせる代わりに、彼の心を同情と悲哀で満たした。ここにも不幸な男がいる。あの大きな野獣のような男が、夫人に夢中になった忠実なけもののように、あすこに突立っている。してみると、あんな華奢な、仔細に見ると美しくもないセヴリーヌが、漆黒の髪と色の淡い雁来紅の眼で、未開人のような男でさえ、愚鈍なあの大男でさえ、あのようにその肉体を捕えられ、おずおずした少年のように戸口に夜を過すほど、それほど強い魅力を持っていたのか?彼は、カビューシュがいそいそとして彼女の手伝いをしていたことや、奴隷のように屈従的な目で彼女に仕えていたことなどを思い出した。そうだ、たしかにカビューシュは彼女を愛し、彼女を求めていたのだ。翌日彼を監視していると、ベッドを作りながらセヴリーヌの髷から落ちたヘア・ピンを密かに彼が拾うのをジャックは見た。そして、返そうとはせず、彼はそれを握りしめていた。ジャックは、自分自身の悩み、これまで苦しまされた欲望、健康の回復と共に蘇って来た悩ましくも恐ろしいすべてのことを考えていた」(ゾラ「獣人・下・P.226」岩波文庫 一九五三年)
またしても「亀裂あるいは裂け目」が永遠回帰してくるのである。