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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

東條首相も陛下を擁して満洲へ赴く意図にあらずや

2019-09-15 00:33:47 | コラムと名言

◎東條首相も陛下を擁して満洲へ赴く意図にあらずや

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一〇日の日記を紹介する。

十日午前十時
  細川護貞氏来訪
 高松宮殿下に拝謁【はいえつ】し来れりとて「殿下は矢張りどうしても早く和平をやるがよい。どう考えても早い方がよい」というお考えなりと報告。

同日細川氏の来訪前
  舎弟水谷川【みやがわ】忠麿男来訪

 公正会の明石〔元長〕男爵より聞きたりとて、石原莞爾中将と会ったら中将は、
 本土は防衛の第一線だ。ここが守り切れなくなったら陛下を京城へ奉遷し、京城がだめになったらさらに満洲へお出を願うのだ。
と言っていたという話。
 此の話は東條首相の参謀総長としての部内に対する命令と符節を合するものあり。サイパンを死守せず本土において防衛せんと欲する陸軍の肚【はら】を如実に物語るものにあらずして何ぞ。海軍は、サイパンを失陥すれば本土の防衛不可能なりと叫ぶ。常識にて考うるも海外の交通を遮断せられ、本土を防衛するの不可能事に属するは明瞭なり。もちろん、陸軍といえども此の見易き道理を解せざるにあらず。結局は東條首相も陛下を擁して満洲へ赴く意図にあらずやと思考せらる。石原中将と東條首相とは不仲なるも元来、同じ満洲組なれば、首相の考えも中将と同一線上に彷徨【ほうこう】しつつあること疑なかるべし。
(付記、この予の観察は早速、木戸内府に書面をもって通報せり)
 なお、以上を裏付ける材料として後藤隆之助氏は「今朝鮮へ兵を集めている」と言い、長野朗〈アキラ〉氏は「山梨県に非常に食糧を集めている」という。

 注1 木谷忠麿 男爵、近術文麿公の末弟。貴族院議員、戦前、戦後、奈良・春日大社宮司をつとめた。昭和三十六年、五十八歳で死去。
 注2 公正会 貴族院の一会派。当時の貴族院は皇族、華族、勅選、多額納税、学士院会員の各議員で構成。近衛公ら公爵と侯爵は火曜会、伯爵と子爵は研究会、男爵は公正会をつくり、勅選、多額納税両議員は同成会、交友倶楽部、会に属し、学士院会員(四人)は無所属だった。翼賛政治体制下でも貴族院の各会派は、社交クラブとして存続を認められた。
 注3 明石男は明石元長〈モトナガ〉男爵。台湾総督、陸軍大将明石元二郎の長男で、昭和十四貴族院議員となる。
 注4 石原莞爾【略】
 注5 後藤隆之助【略】
 注6 長野朗 陸士〔陸軍士官学校〕二十一期で石原莞爾中将と同期だったが大尉で退官、農民運動にはいった異色の評論家。日本に孫文の「三民主義」や「華僑」の新語を最初に紹介したという中国問題の専門家でもある。「遊撃戦、遊撃隊」「昭和農民総蹶記録」など著書多数。戦時中、吉田茂氏らと反東條運動を行なって、近衛公や重臣に中国問題、食糧対策で招かれ会っていた。現在、全国郷村会議委員長、拓大名誉教授。福岡県出身。「近衛日記」の記述について氏は「戦争末期、政府は大本営を長野県松代に移し、海軍は山梨、陸軍は長野に集結する計画が進んでいた。近衛公はそのことを書いたのだろう」と語っている。

※明日は、都合により、ブログをお休みいたします。

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