礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「開国」というのは、大名にすること

2022-10-03 00:37:40 | コラムと名言

◎「開国」というのは、大名にすること

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一四回目。本日、紹介するのもまた、「第五 古事記序文第一段」の一部である。

 元来この「邦」といふ字は支那の辞書を調べると大国、大きな国をいふのであります。「開邦」といふも「開国」といふも同じであります。この開国といふ言葉は開拓するとか、あるひは港を開いて外国と交際するとか、そんな意味ではないのでありまして、易〈エキ〉に師といふ卦〈ケ〉がありますが、その説明を見ると、「大君有命、開国承家」とあります。戦争の場合において功績が多かつた時は、国家の大君が命を下して国を開き家を承がしむ。その易の註を読んで見ると「若しその功大ならばこれをして国を開いて諸侯たらしむ」とあります。つまり国を開くといふことは大名にすることであります。家を承【ツ】かしむといふのは支那でいふ卿太夫〔ママ〕、諸侯より一段下の太夫〔ママ〕といふものにならせるのであります。領地を与へて大名にすること、分り易い言葉で言へば大名の領地として国をはじめて興すことを開国とかう言つた訳であります。一体封建政治の場合においてはこの開国といふことが適切に行はれるか行はれないかといふことによつて封建制度が成功するかしないかといふことになる。そこで大名になるについてはその領地を明確にしなければならない、境を定める必要がある、こゝからこゝまでといふ境を決めて、これだけが何の某〈ナンノナニガシ〉の大名の領地といふことになる、これで「開邦定境」といふことがはつきりする。支那では御存知の通り六国時代の秦の国が六国を統一しそれが次第に下つて唐の時代になる。その唐時代になるまで大名について五等の爵といふものを設けた。その五等の爵の上に開国といふ文字をつけた。最初の公ならば開国公、次は開国侯、開国伯といふ風に、あの書家で名高い顔真卿【ガンシンケイ】などは開国伯であります。たゞ公侯伯子男と開国公などといふのとの違ひは、単に公侯伯子男といへば名前ばかりでありますが、開国伯、開国男といへば領地を貰つてゐる伯爵であり男爵であります。かういふ意味で開国といふ言葉が出来てゐるのであります。この「開邦」といふ言葉は恐らく対句の必要上「国」といふと工合が悪いので「邦」といふ字に改めたのでありませう。支那流に言ふならば一定の境界を定めて沢山の諸侯をこしらへたことでありますが、 それを日本の史実に当て嵌めて参りますと、こゝは何の国である、こゝは何の県であるといつて国や県の境を定める、そしてそれぞれ国造〈クニノミヤツコ〉なり県主〈アガタヌシ〉、あるひは邑〈ムラ〉なら稲置〈イナギ〉になる、かういふ事を成務天皇がなされたのでありますが、それを土地を開拓するといふ風に考へたならばさつばり分りません。〈一五九~一六一ページ〉

 文中、「卿太夫」、「太夫」は原文のまま。ここは、「卿大夫」、「大夫」とあるべきところであろう。読みは、それぞれ、「けいたいふ」、「たいふ」。
 山田孝雄の『古事記講話』という本は、本文全二八五ページであるが、そのうち、「第五 古事記序文第一段」だけで、計八五ページを費やしている(九一~一七五ページ)。ちなみに、その次の「第六 古事記序文第二段」は、さらに長く、こちらは計九四ページを費やしている(一七六~二六九ページ)。

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