静かな劇場 

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唯説弥陀本願海

2012-09-23 21:36:53 | Weblog
★「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)
          
「唯説」とは、「唯一つ説かれた」ということです。
お釈迦さまは生涯、「弥陀の本願海」(阿弥陀仏の救い)
だけを説かれたと、親鸞聖人は断言なされています。

これは即ち、お釈迦さまは、
「弥陀の救いと無関係なこと」
または、
「弥陀の救いを妨げるようなこと」は
一切、説かれなかったことも意味しています。

もし釈迦が、弥陀の救いと無関係、もしくはそれを妨げる
ようなことも一切経に説いておられるとするならば、
親鸞聖人の「唯説」という断言が、意味をなさなくなって
しまいます。

そのお釈迦さまの「唯説」された教えを親鸞聖人は、

★「我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」

「ばかりなり」と仰っているのですから、聖人もまた弥陀
の本願だけを説かれたことは明白でしょう。

さて、一方、
一切経に一貫する教えを、ひと言で表したものに
有名な「七仏通戒偈」と呼ばれるものがあります。

★「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
 (もろもろの悪をなすことなかれ
  もろもろの善をなして、心を浄くせよ
  これが諸仏の教えだ)

これは「善のすすめ」以外のなにものでもありません。

お釈迦さまが、弥陀の本願だけを「唯説」されたとする
ならば、一切経に一貫する「善のすすめ」は、弥陀の本願
と何の関係もない、あるいは妨げになるなどと言えるで
しょうか。

普通に理解・判断するならば、
「弥陀の救い」と「善のすすめ」は、
無関係ではありえないでしょう。

親鸞聖人はこう仰っています。

★「八万四千の法門(一切経)はみな是れ浄土の方便の善
 なり。これを『要門』という、これを『仮門』と名づけたり
(乃至)この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧め
 こしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に
 教えすすめ入れたまう」(一念多念証文)

 釈迦一代の教え(八万四千の法門)は、すべてみな弥陀
 の十九願の諸善のすすめである。これを要門とも仮門とも
 いわれる(乃至)弥陀は、この要門・仮門から十方衆生
 を照育し、他力信心・無碍の一道(本願一乗・円融無碍
 ・真実功徳大宝海)に導入させてくださる

この親鸞聖人のお言葉もまた、

「如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」

であることは言うまでもありません。


ただ、ここでよく注意しなければならないのは、、
だからといって、善をすれば無碍の一道に出られると教え
られているわけではないことです。
問題はそんなに単純ではないのです。

ならば、なぜ善がすすめられるのか?という疑問は、凡夫の頭
では当然、おきてくることですが、
弥陀の救いと無関係、もしくは妨げとなるようなことが、
「唯説弥陀本願海」と親鸞聖人が断言なされている仏教に、
教えられている道理もないことです。

仏教に、親鸞聖人の教えに、善が勧められている真意を理解し
得なかった人が、今日の正統派を名乗る教団の中枢を占めて
おり、ネット上で非難している人々もまた、そこに誤解がある
のだと思われます。

「弥陀の18願の救いは無条件だから」を理由に、あっさり
「善のすすめ」を否定し去る人たちは、あっちでもこっちでも
「救われた!」「簡単だった」と言って盛り上がっているよう
ですが、親鸞聖人は、

「微塵劫を超過すれども、仏願力には帰しがたく、大信海には
 入りがたし」(教行信証)

とか、

「善知識にあうことも
 教うることもまた難し
 よく聞くことも難ければ
 信ずることもなお難し」(浄土和讃)

と仰っています。

「30年聞いていて、まだ助からないのか!」とお叱りを受け
ていたそうですが、「善のすすめ」の真意を、多少なりとも知
らされた側からすれば、そういう人たちに「善のすすめ」の
真意を伝え、理解させることこそ、とても30年ではすみそう
もない難事業と、しみじみ覚悟させられます。


今、問題となっている小さな島が、日本の領土であることを
隣国の暴徒に説明し、納得させることは誰が考えても難しい
ことです。頭から湯気をたてている人たちに、理屈を説いた
ところで、火に油を注ぐようなものです。ますます徒党を組
んで暴徒化し、乱暴狼藉、悪口中傷の言いたい放題が予想さ
れます。
日本側はどう対応すればいいか。先の見えない紛争ですが、
少なくとも、あちらと同じような暴徒と化してはいけないで
しょう。







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