静かな劇場 

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親鸞聖人の教えられた信心

2012-09-21 09:57:01 | Weblog
親鸞聖人は、
「仏願の生起本末」に疑心有ること無しとなったのが、
真実の信心と仰り、それは「二種深信」のことです。

本願寺の勧学も、
「この仏願の『生起』を聞いたのが機の深信の内容で
あり、『本末』を聞いたのが法の深信の内容である」
と書いていましたから、この点に異論はなかろうと
思われます。

では、この二種深信について、『親鸞聖人の花びら』
からの解説を紹介します。(全文ではありません)

二種深信といいますのは、二種の深信をいいます。
二種とは、機(自己)と法(本願)の二つをいい、
深信とは、ツユチリほどの疑いもなくなったこと
をいいます。

★一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死
 の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、
 出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)

いままでも、いまも、いまからも、助かる縁のない
極悪人の自己が、ハッキリした。

★二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもっ
 て衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力
 に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
                  (法の深信)
この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の
誓い、まことだったとハッキリした。

 機とは、罪深い自己のことであり、
法とは、阿弥陀仏の本願のことです。

 金輪際助かる縁のない自己に、ツユチリほどの疑心
もなくなったことを機の深信といい、そんな者を必ず
助けるという、弥陀の本願にツユチリほどの疑心もな
くなったのを、法の深信といいます。
これを機法二種深信といいます。

 次に、親鸞聖人の『歎異抄』での二種深信の表白を
示しましょう。

★いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定
 すみかぞかし(歎異抄)

修行も学問も修養も、自力のすべてが間に合わなかったと、
地獄一定の身が知らされた(機の深信)。


★弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞
一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてあり
けるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ
                     (歎異抄)
と、他力不思議に摂取された(法の深信)。

 堕ちる機と助ける法の二つに、ツユチリほどの疑いもなく
なったのを、二種深信というのです。

 この二つの深信は、いつでもどこでも変わらず念々に
相続しますから、機法二種一具の深信といわれます。

 堕ちる者が助かる者、助かる者が堕ちる者、全く反する
二つの深信が、同時に相続する不思議な信心ですから、
「絶対矛盾的自己同一」と言った哲学者がありましたが、
親鸞聖人は不可称・不可説・不可思議の信楽(信心)と
讃仰されています。


この二種深信が立っていなければ、阿弥陀仏に救われた
人とはいわれません。


【余録として】

「機」と「法」の関係は、「Aが分からなければ、Bも
分からない」という関係ではない。

あちら側からすれば、罪悪感の深まったのが機の深信と
こちらが思い込んでいる、あるいは教えている、と言い
たいところでしょうから、ひと言、申し添えておきます
と、それはあちらの〃憶測〃で、そんなことは教えてお
りません。



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