静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

因果の道理を説くと、救いから遠ざかる??

2009-10-31 19:04:51 | Weblog
因果の道理から当然の結論として廃悪修善を説いていますと、そんなことを教えると仏法の救いから遠ざかると言われる方があります。
では、悪を勧めるのですか?と尋ねると、「そんなことは言っていない。世間法として善を勧めるのは当然」といい、あくまで仏法の救いと善の勧めを切り離して考えているようです。

でも、それは本当に正しいことなのでしょうか?

善因善果 悪因悪果 自因自果と教えられる因果の道理の、因とは私たちの行為のことで、仏教では業(ごう)と言います。私たちのやる善悪の行為(業)が、それぞれ幸不幸という結果をもたらすことは、これまで何度も書いてきました。

ここで業といわれるものに三つあり、これを身口意の三業といわれます。
すなわち身業(体の行為)、口業(言葉を話す)、意業(心で思う)の三つです。

道徳・倫理で重視するのは、身業、口業の二つです。心の中でどんな恐ろしいことを思おうが、それを言葉にしたり、体で実行しない限り、他人に迷惑はかかりませんから、道徳的には問題とされません。
昨日書きましたように、道徳・倫理の目的は、世の中の秩序を保ち、みんな仲良く、ということにあるのですから、心は無視しても支障はないのです。
つまり道徳で勧められる善とは、あくまで身業、口業の範囲に限られてきます。

ところが仏法では、身業、口業ももちろん重要ですが、もっと重く見るのが心の行い(意業)なのです。ここがまず仏法と道徳との大きな違いとよく知っていただきたいと思います。

仏教では心で悪い事を思うことは、悪いことを行ったよりも、はるかに悪いと教えられます。
体や口の悪い行為は繰り返さないようにも出来ますが、悪い考えはすべて悪事を生み出すものです。体や口の悪い行為は他の悪い行為への道を滑りよくするだけですが、悪い考えはこの道へどしどし人を引っぱり込んでゆくものです。

心は火の元の様なものであり、口や身に現れるものは、大空に舞い狂う火の粉の様なものです。大空の火の粉は地上の火の元から舞い上るように、あらゆる行為の火の元である「心」こそが最も怖ろしい。消火の際も火の粉よりも火の元に重点がおかれるのも至極当然です。

にもかかわらず世間では「心」については、ほとんど自由放任で、心中いかなる悪らつ無道を念じ、羞恥すべき醜想をいだいても、そのことが直に社会問題になったり法律の対象とはなってきません。

それをいいことに、私たちは口や体の行為は慎むものの、心では思いたい放題ではないでしょうか。

しかし因果の道理は人に知られる、知られないとに関わらず、普遍する法則ですから、人知れず心に思ったことでも、思えばそれは業となり、善因善果 悪因悪果 自因自果で、それ相応の結果を生じるのです。

故に仏法で勧められる善は、道徳が身業、口業が専らであったのに対し、身口意の三業、しかもその中で心の善悪が最も重視されるということです。

このことが、冒頭の問いかけとどう関わってくるのか、それは次回に譲ります。(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。