静かな劇場 

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真宗界の崩落の歴史(11) 戦時教学

2010-06-14 18:31:16 | Weblog
前回、大本事件にふれましたが、その3年後には『蟹工船』で知られるプロレタリア作家・小林多喜二が、特高に逮捕され、築地警察署で拷問の末、虐殺されるという事件が起きました。『赤旗』の記事によれば、その多くは共産党員ですが、多喜二と同じ警察署内で、虐殺80人、拷問による獄死が114人、病気による獄死が1503人にのぼったということです。いかに当時、思想・宗教弾圧が常軌を逸していたか、お分かりと思います。

こういう時代、親鸞聖人の教えに忠実に、後生の一大事を説き、一向専念無量寿仏を貫くことが、いかに大変なことか。おおよそは分かると思います。
後生の一大事の詳しい説明は、下記のURLを参照ください。

http://www.shinrankai.net/2010/05/gosyou.htm

国家総動員法(昭和13年)が制定され、日本が狂気の如く全面戦争に突入していくと、「人間死んだら地獄へ堕ちる」などという布教が、当局に受け入れられるはずもありません。
そんな、殺すことも殺されることもためらわれるような教えは、当時において、国政に反する危険思想だったのです。
男は戦場に赴き、敵と戦い、潔く戦死するのが最高の誉れとされた時代、「死んだら地獄」では困るのです。
戦死したら靖国神社の英霊として祭られ、護国の神となる、そう信じ込まなければ、どうして敵弾飛び交う中、突撃できるでしょう。

こういう時代背景の下、布教の現場から、後生の一大事は引っ込められ、その解決である「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏一仏に向かい、阿弥陀仏一仏を信じよ)」の教えも、公然と捻じ曲げられていったのです。

恐怖が支配するこの時代、こうした真宗僧侶・学者の〃変節〃ぶりを、平和な時代に生まれ育った者が批判するのは容易いことです。ですからここは、批判めいたことを書くのは避けることにし、いかに教えが曲げられたか、その事実だけを淡々と述べることにします。それは昔のことを蒸し返し、ということではなく、それが今日の〃浄土真宗〃の状況を理解するのに必要だと思うからです。


「戦時教学」とも呼ばれる教義の変質を、当時の代表的な真宗学者の言説から見てみましょう。『宗教と現代社会』(信楽峻麿)から多く引用しました。

まず、天皇制が徹底されるにつれ、阿弥陀仏と天皇を重層させてとらえるという解釈が生まれました。

〈弥陀の本願と天皇の本願と一致している〉(東・曽我量深)

〈天皇が仏に帰せよと仰せられるから天皇の仰せによって仏に帰依し、仏に帰依することにより天皇に帰依する。平面的に天皇即仏ではいけない。(中略)天皇が奥の院である。弥陀がその前にある〉(東・暁烏敏)

〈もし仏陀が日本国に来生せられるならば、必定まず天皇絶対をお説きになり、以て国体を明徴したまうことはいうまでもないことであろう〉(西・佐々木憲徳)

〈真宗の信仰もまた、その信仰を挙げて天皇に帰一し奉るのである。一声の念仏を称うるにしても、その念仏にこもる力を挙げて、上御一人(天皇)に奉仕しているのである〉(西・普賢大円)

また、日本神道と妥協し、阿弥陀仏と神との一体化が計られます。

それまで本願寺は、神祇不拝の立場を貫き、門徒にもそのように指導していたにも関わらず、昭和11年12月、東の法主・大谷光暢は、明治神宮、靖国神社に相次いで参拝。翌年1月には伊勢神宮に参拝。西本願寺も昭和12年1月、当時の法主・大谷光照が伊勢神宮を公式参拝しています。

さらに15年には勧学寮も、伊勢神宮の大麻拝受を「宗義上差し支えなきものと存候也」と認定するに至ります。

〈大慈救世聖徳皇、父の如くおはします。大悲救世観世音、母の如くおはします、の聖徳皇の代わりに天照大神の名を、観世音の代わりに弥陀を立ててよい。父と母は形は二つあるが絶対である。子より見れば一体である〉(東・曽我量深)

〈神道の一部として仏法を崇めてゆく〉(東・金子大栄)


日本を神国と捉え、国体の尊厳を主張する国家神道からは、仏教の穢土観は到底、是認できず、また国体、天皇こそがすべてであり、仏法はその内にこそ包摂されるべきという主張が主流となっていきます。

〈仏法は別に要らない。(中略)皇国の道というものが、即ち我々の遵守すべきものである。仏の教というものは、それの縁になるものである〉(東・金子大栄)

〈真宗の信者は宗教圏で一心一向の修養をしているので、国家圏に入るときには、一心一向に唯天皇陛下御一人に絶対随順したてまつる〉(西・佐々木憲徳〉


浄土真宗の肝腑骨目である「一向専念無量寿仏」のみ教えは、ここにきて完全に破壊されたといわざるをえません。


ところがこれらの本願寺学者たちは、戦後、別段、責任を追及されるわけでもなく、反省の弁もなく、そのまま教団、あるいは宗門大学(龍谷、大谷大学など)の中心に居続けることになりました。
以下は、戦後の彼らの動向です。

○曽我量深……昭和26年大谷大学名誉教授。36年・大谷派から教学特別功労者として表彰
○暁烏敏……26年・東本願寺宗務総長就任
○金子大栄……19年・大谷派最高学階の「講師」を授与される。26年・大谷大学名誉教授。38年宗務顧問に就任 
○普賢大円……19年司教。42年龍谷大学名誉教授。同年勧学に就任
○佐々木憲徳……21年勧学

 戦時中、西本願寺法主の座にあり、故人となった勝如(前門主)は、昭和52年、引退に当たりこう述べています。

〈宗門は戦中戦後を通じて相当の期間、多くの困難や障害を経験したわけであります。(中略)このように、私は大きな変動の時代を体験したのでありますが、その体験を通して深く感じましたのは、政治の方向がどのように変ろうとも、社会の制度がどのように動こうとも、浄土真宗の御法義の根本には、いささかのゆるぎもないことで、時と所とにかかわらずその真価を発揮する浄土真宗は、まことに尊くありがたく、聖人が真実の教えとお喜びになったお気持も、さこそと味わわせていただくのであります〉

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