静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

真実の自己(6)法鏡に映った自己とは

2019-02-13 16:03:00 | Weblog
では次に、自分鏡はどうでしょうか。この自分鏡とは、あちらが他人からの評価でしたから、こちらは自己評価になります。
 自分で自分を評価する。これならどうでしょう。実はこれにも欠陥があって、この鏡も当てになりません。
 面接試験で、自己評価を聞かれた時、皆さんならどう答えるでしょうか。5段階で答えるとして、5と言うと自惚れているようなので言わないと思います。かといって1とか2は、自尊心が言わせないと思います。大概、人は自分は中の上と思っていますから、4ぐらいと答えるのではないでしょうか。しかし、それが本当なら、世の中は、中の上の人ばかりになります。しかし現実は、半分以上が3より下なのです。

 犯罪を犯して刑務所に入っている人なら、さすがに自己評価は低いだろうと思われるかもしれませんが、全然そんなことはないそうです。銀行強盗した人は、自分の大胆さを誇り、スリは自分の機敏さを自慢し、詐欺師は俺は頭がキレると自惚れています。
 このように人は、悪いことをやっていても、自分という人間は本当はすごい奴なんだと思いたいのです。
 こういうのを欲目といいます。この欲目があって、私たちは自分自身のことを正しく見れません。この鏡にはいつでも、まんざらでもない自分の姿が映るのです。

 たとえ口では、「私は何もできないお粗末な者です。どうか皆さま、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」と、へりくだってみても、心の中では「こういう謙虚さが大事なんだぞ」「これだけ頭の低い者がほかにおるか」と思っていて、頭は低く下げてはおりますが、「どうだ」と、相手を上から見ています。自慢話は見苦しいと思って言わないようにしても、そういう自慢しないことを、ひそかに自慢してしまうのですから、私たちの自惚れ心は、相当根深いものなのです。
 もちろん謙虚さは大切なのですが、「ダメな私」と自分で言っておきながら、人から「確かにあんたはダメだね」と言われると、腹が立ってきます。「そういうおまえはどうなんだ!」と言い返したくなるのは、本心、自分をダメとは思っていない証拠です。
 ですからこの自分鏡も、欲目が入るという致命的な欠陥があって、自分の本当の姿を映してはいないのです。

 しかし皆さん、考えてみてください。自分で自覚している「自分」「自己」というのは、何を見てのことでしょう。
 よく自己主張とか、自己啓発とか、自己肯定感が大事であるといわれます。そこで言われる「自己」とは、この他人鏡か、自分鏡に映った自己ではないでしょうか。
 しかし、この他人鏡も自分鏡も、今言った通り欠陥品ですから、ここに本当の自分は映っていません。だとすると、私たちが自覚している自己とは、本当の自分とは違うものだということです。
 となると私たちは、「自分とは何か」という出発点からそもそも大きな勘違い、錯覚をしていることになります。最初のボタンを掛け違えれば、あとのボタンは全部狂うように、自分を誤解していたら、それを主張したり、啓発したり、肯定することに、どれほど意味があるのでしょうか。
 いつの世も、どこの国でも、人は人生の最後に、「こんなはずではなかった」と後悔を繰り返してきたのもそのためなのです。
 では本当の自分とはいかなるものでしょうか。それを知るには3番目の「仏」という鏡を見ることが大切です。これは仏さまの目に映った私たちの姿です。お釈迦さまの本心が説かれている『大無量寿経』には、

 心常念悪
 口常言悪
 身常行悪
 曽無一善

と私たちのことが説かれています。これはどういう意味か、次回お話したいと思います。

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