静かな劇場 

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名号のいわれ

2012-09-19 22:44:29 | Weblog
阿弥陀仏の救いを妨げているものは「疑い」の心
一つです。

では、その疑いとはどういう疑いか?

親鸞聖人は、

「仏願の生起本末に疑心あることなし」となったのが、
聞(信)であると、仰っておられることは前回、申し
上げました。

蓮如上人は、

「その名号をきくというは、ただおほようにきくに
あらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六の字の
いわれをよくききひらきぬれば」(3帖目6通)

と仰っています。
仏願の生起本末も、南無阿弥陀仏の六の字(名号)のいわれ
も同じことです。

名号のいわれを、『教行信証』には次のように詳述されて
います。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無
し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不
可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業
の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる
無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・
不可称・不可説の至徳を成就したまえり (教行信証)


すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に
汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、
まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の
人びとを阿弥陀仏は憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆
載永劫のあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その
清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全
無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿
弥陀仏)を完成されたのである。


これが仏願の生起本末(名号のいわれ)で、「疑心あること
なし」となるのは、このことだと説明すると、
「穢悪汚染にして清浄の心無く、
虚仮諂偽にして真実の心無し」
と思えばいいのか?思えたら救われたことになるのか?
と、早合点する人もあるようですが、
この「思えたら」という点が曲者です

清浄の心も無い、真実の心も無い、といわれたその後から
「そう思えたらいいのか?救われるのか?」
などと言っても、そのこと自体、聖人のお言葉を
ひっくり返しているようなものである。

清浄の心も、真実の心も持っていない者が、清浄の心も、
真実の心も持っていない自分であることを、「分かる」とか、
「思える」などということがあるだろうか?

あると思えばこそ、そう言うのであろう。
自分のどこかに、清浄で、真実の心が、欠片ぐらいはあると
いう、私たちの根深い自惚れ心がそう言わせるのである。

すべては名号の仏智を賜って、初めて知らされること。
   
今日の真宗界には、弥陀に救われた気分になってしまった人
が、たくさんいる。名号を賜ったと本人は本気で思っていて、
ウソをついているとは思わないが、親鸞聖人とは関係ない
信心であろう。

上述の『教行信証』のお言葉を、言葉としては知り、口でも
認めておりながら、
「だからと言って、一切の群生海(すべての人)が地獄行き
なんておかしい」
と、堂々と言ってのけられるのだから。

「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に
堕在すべきものなり」(御文章)
を否定する、
「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」
に、疑心の晴れた人がたくさん存在するらしい。

蓮如上人が「この信心」と仰る信心は、
「仏願の生起本末に疑心あることなし」となった信心のこと
ではないのか?
疑い晴れる前も後も、
「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」
は変わらないのである。

仏願の生起本末。
簡単に分かると言う人もいるようだが、
果たしてそうだろうか?
何年も聞いてきたはずの人が、そんなことを言うのであるから、
簡単に分かることではないことが、いよいよ知らされるでは
ないか。



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