しばらくお休みしていましたが、読みたいと言われる方もあるのを知りましたので、またゆるゆると始めてみたいと思います。
よろしくお願いします。
二次元平面上には、〇であり、かつ△という図形は存在しません。しかし、三次元空間上には、円錐(えんすい=駐車場にあるコーンのような立体図形)というものが存在し、それは底から見れば〇に見え、横から見れば△に見えます。
つまり「〇でありかつ△」というものは、平面上にはなくても、空間上には存在するということです。
同様に、平面上の2直線は、
①平行ならば交わらない
②交わるならば平行ではない
という真理が成り立ち、
③平行ではなく、かつ交わらない
という2直線は絶対に存在しません。
しかし、空間上においては、平行ではなく、かつ交わらない2直線など、いわゆる「ねじれの位置」といわれるもので、無限に存在しています。
二次元平面上の〃真理〃というのは、あくまで二次元平面上でのことであり、三世十方を貫きませんから、三次元空間上では成り立たなくなるのです。
さて、ここからが肝心です。
凡夫が〃正しさの基準〃にしている「合理性」という次元においては、
①助かるに間違いないなら、堕ちることはない
②堕ちるに間違いないなら、助かっていない
ということになり、
③「助かるに間違いなく、かつ堕ちるに間違いない」という事実など、論理的には存在しません。これを認めるならば、論理は破綻してしまいます。
ところが、「堕ちるに間違いなく、かつ助かるに間違いない」絶対矛盾的自己同一というべき人が、事実として存在しているのです。
それは、凡夫の考える合理性が、三世十方を貫く真実ならば、ありえない存在なのですが、現実に存在している以上、凡夫の合理性とは、あくまで凡夫の次元の〃正しさ〃であり、仏智の世界では成り立たない、すなわち三世十方を貫かないといえます。
そんな凡夫に理解不能な「真実」を、そのまま示して、凡夫を導くなど不可能であります。導くには、凡夫の理性に合わせた方便が必要なのは当然でしょう。
それを「方便など要らん、真実だけでいい」と主張する人たちは、「方便」「真実」と同じ言葉を使ってはいても、根本的なところで何か勘違いをなさっているのでしょう。
さらに言えば、先ほど申しましたとおり、真実とは凡夫の合理性など超絶した「不可称・不可説・不可思議」なものなのですから、方便と真実の間に〃整合性〃の橋は架からないと考えるのが普通です。
なのに、善など勧めては「無限にループするだけ」などと言い、鬼の首でも取ったかのように批判する人たちの「根拠」とするところが、この〃整合性〃なのですから、どういう程度の非難かお分かりだと思います。
真実に転入する道程まで凡夫の知恵で整合性のつくものなら、それは凡夫の世界の延長ということでしょう。真実とは別物です。
私たちが根拠とすべきものは、あくまで親鸞聖人のお言葉でなければなりません。
よろしくお願いします。
二次元平面上には、〇であり、かつ△という図形は存在しません。しかし、三次元空間上には、円錐(えんすい=駐車場にあるコーンのような立体図形)というものが存在し、それは底から見れば〇に見え、横から見れば△に見えます。
つまり「〇でありかつ△」というものは、平面上にはなくても、空間上には存在するということです。
同様に、平面上の2直線は、
①平行ならば交わらない
②交わるならば平行ではない
という真理が成り立ち、
③平行ではなく、かつ交わらない
という2直線は絶対に存在しません。
しかし、空間上においては、平行ではなく、かつ交わらない2直線など、いわゆる「ねじれの位置」といわれるもので、無限に存在しています。
二次元平面上の〃真理〃というのは、あくまで二次元平面上でのことであり、三世十方を貫きませんから、三次元空間上では成り立たなくなるのです。
さて、ここからが肝心です。
凡夫が〃正しさの基準〃にしている「合理性」という次元においては、
①助かるに間違いないなら、堕ちることはない
②堕ちるに間違いないなら、助かっていない
ということになり、
③「助かるに間違いなく、かつ堕ちるに間違いない」という事実など、論理的には存在しません。これを認めるならば、論理は破綻してしまいます。
ところが、「堕ちるに間違いなく、かつ助かるに間違いない」絶対矛盾的自己同一というべき人が、事実として存在しているのです。
それは、凡夫の考える合理性が、三世十方を貫く真実ならば、ありえない存在なのですが、現実に存在している以上、凡夫の合理性とは、あくまで凡夫の次元の〃正しさ〃であり、仏智の世界では成り立たない、すなわち三世十方を貫かないといえます。
そんな凡夫に理解不能な「真実」を、そのまま示して、凡夫を導くなど不可能であります。導くには、凡夫の理性に合わせた方便が必要なのは当然でしょう。
それを「方便など要らん、真実だけでいい」と主張する人たちは、「方便」「真実」と同じ言葉を使ってはいても、根本的なところで何か勘違いをなさっているのでしょう。
さらに言えば、先ほど申しましたとおり、真実とは凡夫の合理性など超絶した「不可称・不可説・不可思議」なものなのですから、方便と真実の間に〃整合性〃の橋は架からないと考えるのが普通です。
なのに、善など勧めては「無限にループするだけ」などと言い、鬼の首でも取ったかのように批判する人たちの「根拠」とするところが、この〃整合性〃なのですから、どういう程度の非難かお分かりだと思います。
真実に転入する道程まで凡夫の知恵で整合性のつくものなら、それは凡夫の世界の延長ということでしょう。真実とは別物です。
私たちが根拠とすべきものは、あくまで親鸞聖人のお言葉でなければなりません。