静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

熱さまし・・

2012-09-29 10:18:02 | Weblog
九州の、ある本願寺僧侶が、自著の中で『歎異抄を
ひらく』という本を参考文献に上げ、『ひらく』の
著者の本は、
「やはり安心して読めます」
と書いているそうです。

それをこちらが好意的に取り上げたことについて、
件の坊主が、本願寺の僧侶に褒められ、あたかもこちら
が舞い上がっているかのように(例の如く早合点して)
書いているようです。

残念ながら、本願寺の僧侶に褒められて喜ぶ人は、
こちらにはありません。

なら、「なぜか?」の疑問もあるかもしれませんが、

「一葉落ちて天下の秋を知る」

そう言っておけば、察しのいい人には十分でしょう。

加えて言えば、件の坊主は、その九州の僧侶に対して
「少しでも浄土真宗を学んだ人なら最初の10ページで
放り投げたくなるでしょう」
とか、
「この人にとっての他力とは、自分の心のもちようで
楽になれるよくらいの自己セラピーでしか無いのだと
思います」
と厳しく批判しています。

この点に関しては、珍しく件の坊主と意見が一致しま
したが、だとするなら、なぜ彼らの教団は、こういう
間違ったことを教える僧侶を、そのままにしておける
のでしょう。

教団の命は、「教え」でありましょう。
教団とは、一つの教えに心を同じくし、その通り伝え
ようとする同志の集まりです。
教えの理解が統一されておらず、教えを乱す者が、その
まま身を置けるような教団なら、それはもう「教団」と
しては生命は終っているのでしょう。
鶏の首を切っても、しばらく走っているようなもので、
物体としては動いていても、生命体としては終わってい
ます。

さらに件の坊主は、『歎異抄をひらく』という本の著者
に対して、

「数千人の前でおおはしゃぎ」
とか
「こんなことする人は・・・・以外に世界に1人もいま
せん。なぜか。あまりに恥ずかしいからですよ」
とか、
「ほんとに頭大丈夫なのか真剣に考えて欲しいです」
とか、
「本願寺に認めてもらいたくて認めてもらいたくて仕方
がないのでしょう」
とか、
「周囲のイエスマンと検閲済みの『お手紙』でいくら
賞賛されても飽きたらず、自分を追い出した本願寺を
見返したくて仕方がないのでしょう。大した自己承認
欲求です」

と、実名を出して悪口中傷のオンパレードです。

【個人の尊厳】については随分やかましいのに、
ここまで見当違いの憶測、暴論を重ねて一人興奮し、
他人の【個人の尊厳】を傷つける人は珍しいと思います。

件の坊主は、他人から自分のことをとやかく言われると、
「憶測だ!」と腹を立てるくせに、自分のやっている
ことになると、牛のように鈍感のようです。

しかし、一般的に言えば、
他人の「個人の尊厳」を踏みにじる人は、自分の「個人
の尊厳」を主張する資格はないと考えられます。
もちろん、主張するのは自由ですが、そういう人は
信用されないということです。

隣国で、自分勝手な言い分を押し通すため、
日本の国旗に火をつけ、踏みにじり、さも善いことでも
したかのように、徒党を組んで正義漢を気取っている
人たちが、写真や映像で公開されています。

ああいう手合いに堕ちたいのならそれも自由ですが、
事は仏法なのですから、なおさらやめたほうがいい
でしょう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。