雀ばぁば

おしゃべり雀、孫7人

私の戦争に関する記憶

2006-07-23 21:28:34 | Weblog
生まれて気づいたときは、
戦争の真っ最中。

毎日、
空襲警報 発令! 空襲警報 発令! と、
メガホン持ったおじさんが走り回っていた。

サイレンが鳴り、やがて
B29という飛行機が
どこかを空襲するべく
飛んで行くのを
双眼鏡を持ったおじさんが
どこそこ方面だ… と。

子供は、
戦争ごっこで遊び、
両手を広げて、飛行機になって
道路を走り回った。

当時、守口市に住んでいた。

そして、あの大阪大空襲の日、
私と妹は二人だけで
防空壕に入れられていた。
2歳と4歳。しかも、夜。

すぐ来ると言った母が
いくら待っても来ない。

母を呼ぼうと戸を開けた。

夜なのに
4歳の眼に一生消えない
異様な空の光景が。

紫 と オレンジ色の 飛行機雲で
空は 塗りつぶされていた。



ヒュルヒュルヒュル~
絶え間ない
焼夷弾の音が…

大阪では、地獄だったろう。


何もかも、焼けてしまった大阪を通り抜け
父の里へ疎開した。

汽車の中は、通路、洗面所、網棚の上まで
人が乗っており、
窓から乗り降りする状況。

母の話によると、
ありったけの食料を弁当にしたのに、
盗られてしまって
一日中、飲まず食わず、
私と妹がグズグズ言わなかったので
助かったと。

2歳も4歳も
異常事態を何となく
理解したのかもしれない。

途中、一泊して
お米を出して、炊いてもらった由。
当時、お米が無くては
泊めてもらえなかったとか。

一家は無事、
父の実家に落ち着いた。

戦争の影響は
この後もまだまだ
続いた。

優しかった叔父は
飛行機に乗っていたので
海の藻屑と消えた。

私には、この叔父の記憶があるが、
三つ違いの叔父の娘には、
父の記憶はない。


ず~っと後のことだが、
花火大会で我が耳を疑った。

パッと開いた花火が
ヒュルヒュルヒュル~

これは、焼夷弾の音ではないか  

多くの犠牲者を出した

あの焼夷弾の記憶を

大人は

もう

忘れてしまったのか 

当時すでに、私も大人だったが

未だに、納得していない。