雀ばぁば

おしゃべり雀、孫7人

検疫犬 ビーグルちゃん

2021-04-17 22:44:00 | 思い出
ニュージーランドに旅行した時のこと。

到着後、通関待ちの時、ふと振り向いたら
仲間の一人が
検疫の人にリュックを調べられていて
その側に検疫犬がきちんと座っていた。
勿論、何事もなく放免されたが、その訳は・・・

実は彼女、
家にいっぱいあったから持ってきた!
飛行機の中で食べよう!
と、ミカンを3個リュックに入れていた。

機内で美味しく食べて皮は機内に。
持込禁止を守ったんだけれど香りを持ち込んでしまった😁

可愛い、お行儀の良いビーグル犬はちゃんと仕事をした訳で、
もしかして、検疫官がビーグル犬のミスと認定したら可哀想。
ちょっと言い訳をしてあげれたらよかったかなぁ。

最近、テレビで同じ光景を目にすることがある。
持ち込んではいけない物を持ち込もうとする人達、
そして、必ずあのビーグル犬があの時と同じく座っている姿も。

見る度に思い出し、懐かしくて笑ってしまう光景です。



小さな畑

2012-04-07 13:52:28 | 思い出
朝ドラ「梅ちゃん先生」では今、
戦後のバラックがひしめく光景。

その中に、小さな畑が作られている。
あれは、本当にあった。

我が家でも、守口市の家の門のすぐ外に
一畳ほどの畑を母が作っていた。

4歳になるかならぬかくらいのこの私、
事も有ろうに
乳母車で畑を潰してしまった。

なぜ、そんなことをしようと思ったかは記憶にない。
ただ、一所懸命に畑一面、乳母車を押したのは確か・・・。
なんか、得意満面だった気が・・・

気づいた母が 驚愕!

家に入っていってまもなく
父と母が出てきて、私を目掛けて突進。
あわてて逃げたが
近所の家の玄関で敢え無く捕まった。

ひどく叱られたような気もするが
その辺は あまり覚えてない。

手首にイタ~イお灸を据えられて、
その跡がかなり長く残っていて
(私、ケロイド体質らしい)
記憶に繋がった?

ドラマの光景は
日本のほんの60数年前の姿そのもの。
街には浮浪児と呼ばれる子供たちがたくさん居た。

食料は乏しく、ちょっとの土地も耕され
野菜が植えられた。
母も 私と妹に少しでも野菜をと
固い土を耕しただろうに・・・。

緑の芽を悉く潰してしまったのは
なんなんだろう?
今頃思っても仕方ないが。

テレビ画面ではいかにも取って付けたように見えるので
ちょっと 補足してみたかった。 

失礼よね!

2008-02-08 22:40:54 | 思い出
いきなり、
台ふきんの写真で失礼!

使用初めて1ヶ月くらい経つ。

新しく使い始めたとき、
この布巾、
すぐ真っ黒になるのね…と義母。

 

つい先日、
何時までも白いね…と言う。

まだ、そんなに使ってないから。

それで、
義父がまだ、元気だった頃の会話を
ちょっと思い出した。


義母が娘のお産の手伝いで
家を長く空けることがあった頃、
近所の奥さん方から時々
おかずの差し入れが
あったようだ。

その品比べを思い出して
義父が言った。

隣のAさんは、
見た目は美味しそうだが
味がいまいちだった。

上の家のKさんは
味は良かったが
皿の裏が汚れていた。
それで私は、
きれ~に皿を磨いて返してやった。

それを聞いて、義母が一言。
「失礼よね!」

     
失礼だったのか 

実は私も、嘗て
義母のお皿を磨いて返していた。


戦後、引き上げてきて
生活が大変だった頃、
義母は夜、洋裁を習いに行って
洋裁店を開いた。
とても頑張りやだったと
夫や義姉妹たちから聞いている。

当然、家事は手早く・・・
一緒に暮らし始めた頃
ざっとでいいよ!とよく言われた。
その頃は、それが苦になっていたなぁ。

というようなわけで、
義母のお皿の裏も黒かったのだ。
布巾もざっと洗うから
すぐに黒くなった?

ガーゼを数枚重ねたタイプなので
義母向きではなかったようだ。

義母の作る食事には
かなり抵抗があったが
この人達はこれを長年食べていて
特に病気がちということもないから…と
エイッ!ヤッ!と気合いを入れて食べていた。

今では、
私がかなり義母に近づいているような・・・






筆箱

2007-12-04 23:06:04 | 思い出
今は、ペンケースと言われている。

私が小学校に入学したのは
終戦後、まもなくだった。

物資が無く、
筆箱を持たない子も多かった。

当時、飛行機の翼から作った
ジュラルミン製の筆箱は
一番上等だった。

頑丈で、長持ちすることうけあい!

ただ、机から落とすと、
ガッシャーン!
教室の静寂をぶっ飛ばす音がして
中味がばらまけた。


次第に物資が豊かになって
当初は、その筆箱を持っていた子も
知らないうちに
セルロイドの筆箱に替えていった。

6年生になった頃からは
私だけになった。
しかし、私は使い続けた。

なぜか?

それは、壊れなかったからだ。

我が家は、田舎の商売をしていて
文具ももちろん売っていた。

望めば、いつでも新しい筆箱は貰えたろう。
でも何故か、自分は望まなかったし
親も、気づかなかったのだろう。

ついに、高校まで使った。
さすがに、授業中のガッシャーン!には
気が引けるようになっていた。

しかし・・・壊れないから・・・


そんな時、
幼なじみのペンフレンドから
セルロイドの素敵な筆箱を貰った。

長く使ってきた筆箱に
ちょっぴり申し訳なかったけれど
やっと、ジュラルミン製から解放された次第。

大体において、
私、物持ちが いいんだわ     


心が ほわっ! 

2007-05-24 20:27:08 | 思い出
大学を出て就職、
週末には、家に帰っていた頃のこと。

その日も、仕事を終えて帰省すべく
国鉄の駅行きの市内電車に乗った。

汽車の時間にはあまり余裕はなかった。
乗ってしばらくして、
ある停留所を走り出した瞬間、キィーーー!
急ブレーキ   

運転手は、身体をぐっと斜めに
力の限りブレーキを掛けているようだった。

どうしたのかと覗いてみたら
ラッシュの車の列の隙間から出て
電車の直前を横断しようとした
軽トラックが見えた。

電車が止まっている隙に
通り抜けられる…と思ったか?

あと、数センチという際どさで
電車は止まり、衝突は免れた。

運転手は、ゆっくりとドアに近づき
ドアを開けた。

電車に乗っていた人達は、
当然、怒鳴り声を聞くだろうと
思っていた???


だが、違った 

衝突回避を確認した運転手は
軽トラの人に
大きな声でこう言ったのだ 

よかったなあ  ぶつからんで…
とても落ち着いた優しさがあった。

40年以上経った今も
思い出すと
心が ほわっ とするのです。


蓮根の穴

2007-03-27 01:01:29 | 思い出
子供達が幼い頃

おかずに蓮根があるとき
必ずせがまれた話がある。

日本昔話にあるもので
“これはまた、蓮根に
上手に穴をあけたものじゃ!”
と、いうもの。

“饅頭 怖い!”
の話もよくやった。
これは、お茶が欲しいときの話。

蕗を食べるときは
必ず穴を覗くのが
子供達の楽しみだった。

リンゴを食べるとき
食べたかったら
自分で剥きなさいと言っていた。

上の二人は
割合早くから
自分で剥けた。


3人目の次女は
剥けないのが悔しかった?

あるとき、
リンゴをちょんちょんに
ぶった切っていた。

私は、
家事をしながら
チラチラと見て
ウヘ~とは思ったが
知らん顔。



後で見たら
皮と芯を残して
きれいに食べてしまっていた。

うっふふふ やってくれたな 


こんなことを思い出したのは
松本ぷりっつさんのブログを
読ませてもらっているから…。

長女ふーちゃんの
蓮根の話に 誘発されて
思い出してしまった 





吉永小百合のような 目

2007-02-10 23:56:13 | 思い出
母が
私くらいの頃。

女学校の クラス会に
行ってきた時のこと。

その時の全員の写真と
女学校の卒業アルバムを出してきて
私と妹に見せて 言った。

どの人が
どの人か 分かる?

楽しかったらしい。



クラス会の写真を見ては
卒業アルバムから
それらしい人を探す。

この人が これ?

違う!
一言 言って
母は視線をテレビに戻す。

妹と二人、
また、あれか これか 探す。

これが この人?

違う!


かなり熱心にやったが
ついに、一人も当たらなかった。

分からないかなあ?と
母は 涼しい顔。

そうよ!

ここに、一人
見本が居るじゃないか!

この人が どう変わっているか
見てみよう!

そしたら、ヒントになるかも!



女学校時代の母の顔を
見てみたら…



なんと、吉永小百合のような 
涼やかな お目々ではないか!


で、 今は…

まぶたも 目尻も  



これじゃぁ
分かるわけないよ!

大笑いする 娘二人を
ちょっと しらけて
眺める母が居た。


あれから20年くらい経った
今は

お腰も