花百蓮(百姿鏡、魂の王女)、創価学会~~未来に向かって、花百蓮のブログ

花百蓮(百姿鏡、魂の王女)、(はなももれん)のブログです。池田先生から頂いた福智は私の信心の原点です。

己心、仏心異なるといえども、妙法五字の本尊は異ならない④

2011-11-10 02:10:48 | 日記
私の娘にもさんざん言ってきたのですが、池田先生からのご指導とお話しされた中に戸田先生の話してくださったことのひとつに、◆私たちが、御本尊様の前に座って、勤行・唱題をしているときは、私たちの目にはわからないけど、私たちの体の中に、御本尊様が映っているんですよ、と。

信じてお題目を唱えているとき、私たちの体の中に映ってる(ある)己心の御本尊様が、拝してる御本尊様と境智冥合、仏界湧現できることが大切で、御本尊様に認められている十界も、薬王菩薩はじめ梵天、帝釈等も、こちら側の私たち凡夫の己心の映ってる妙法蓮華経の中の梵天や帝釈、薬王菩薩等が、躍動するから、病気が早く治ったり良くなったり(こちら側、私たちの信力、行力によって・御本尊様の法力、仏力がでますから)
元気になったり、願いも叶いますよ、ということです。
続く

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己心、仏心異なるといえども、妙法五字の本尊は異ならない③

2011-11-10 01:42:34 | 日記
◆続きからです。

◆御本尊様に向かって、お題目を唱えている・人・それ自身が、本尊の体となることは明らかだということですよ。
◆その証拠の御文はたくさんありますが、そのひとつにも下の②に書いてますし、◆◆この妙法蓮華経の当体である御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と、唱えるとき・我ら衆生と生命に内在する「心性の如来」が、その唱題(題目)の声に呼ばれて現れると仰せです。◆この証拠の答えが、◆◆法華初心成仏抄の◆◆「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏(中略)一切の衆生の心中の仏性を唯一音に喚(よ)び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我、が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて現れ給う処を仏とは云うなり」
が、この御文も答えですよね。

続く

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己心、仏心異なるといえども、妙法五字の本尊は異ならない。②

2011-11-10 01:12:48 | 日記
つづきからです。

※己心と仏心となりと観ずるとは、仏心も妙法の五字の本尊である。
◆これは、私たち衆生の「信力・行力」に答えがあるんですよ。折伏されてはじめて、御本尊様のことをなにも知らなくても、一心に信じて、信力、行力に励むならば自然に・・・己心と仏心が冥合(みょうごう)する状態になるからで、◆ここにも答えです。御本尊様の法力・仏力が、私たち衆生の生命の中に厳然と現れ、功徳を成ずるということ、◆答え、拝んで叶う証明だから、◆一の信力・一の行力は、一の法力、仏力となって現れる。十の信力、行力は十の法力、仏力となって現れる。百の信力、行力は、百の法力、仏力となって現れる、が厳然と証明になってきちんと願いが叶う結果が出てくるからです。◆この境智冥合が、御本尊様にできることによって証明になりますから。

続く

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己心と仏心とは異ならない・昨年の2月18日のブログで書いたところで重なりますが

2011-11-10 00:53:14 | 日記
このブログで、昨年の2月18日の日に書きましたが、なぜ私たち凡夫が、◆妙法蓮華経の当体だと言えるのか、と言いますと、簡潔に、私たち衆生は無始以来・自分自身の心性が妙法蓮華経であることを知らないで、生死を繰り返してきましたが、法華経(御本尊)に巡り会い、
三身即一の本覚の如来の名である妙法蓮華経を唱えることによって、我ら凡夫がそのまま本覚の如来とあらわれるからです。◆我が身が本覚の如来とあらわれることを「現世に其内証成仏するを即身成仏と申す」と、これは内証の境地を(内心の)意味してて、
◆総勘文抄に、「己心と仏心とは異ならなず観ずるが故に生死の夢を覚まして本本覚(中略)」

続く

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