●衆生が無始以来、自分の心性が妙法蓮華経であるということを知らないで、生死生死と流転し、苦の世界に沈淪してきたけれども、今、法華経(御本尊)に巡り会い、三身一の本覚の如来の名である妙法蓮華経を唱えることによって、我ら凡夫がそのまま本覚の如来と現れるということです。
◆三身即一身・一身即三身
※十如是を三転読誦することが、法、報、応の三身が一身に具わり、一仏身はまた三身とあらわれます。●三身即一身は、不横、すなわち横に並んでいないという意だと、三身がそのまま一身に存することだということです。●爾前(にぜん)の大・小乗経では、横に並ぶように法身、報身、応身が一身ずつ別々に存してて、華厳経の教主はただ法身だけであり、阿含経の教主は応身だけであり、その他爾前の大乗経では、法身、あるいは報身が中心で応身は垂迹の形になっていますよと。
続く
◆三身即一身・一身即三身
※十如是を三転読誦することが、法、報、応の三身が一身に具わり、一仏身はまた三身とあらわれます。●三身即一身は、不横、すなわち横に並んでいないという意だと、三身がそのまま一身に存することだということです。●爾前(にぜん)の大・小乗経では、横に並ぶように法身、報身、応身が一身ずつ別々に存してて、華厳経の教主はただ法身だけであり、阿含経の教主は応身だけであり、その他爾前の大乗経では、法身、あるいは報身が中心で応身は垂迹の形になっていますよと。
続く