私が今ブログに黄金の3年間を書いて遡って(さかのぼ)小学生から中1のときの創価学会の信心をしての生活を書いてますが、日蓮大聖人様の仏法の中に(御書)親としてまたその子供としての因縁が詳しくとかれています。御書の中にも生まれて来る前に受胎するときには女の子として生まれてくるときはその父親になる父を愛し(変な意味でなく)母に嫉妬して父親を愛して生まれると明確に書かれています。詳しくはまたにしますが、すごい仏法ですね。男の子として生まれてくるときはその反対です。続く
信心は年月でもなく、池田先生のご指導の通りに何をおもっての一念かが重要です。中1からも私は毎年、創価学会と宗門がいっしょのとき、結婚してからも毎年、大石寺の登山には行ってきました。私は福子ですが母が途中で信心をしなくなるまでの間、必ず毎月、登山に一緒に連れていってもらっていました。その回数は平成2年の最後の年までは大御本尊様にお会いできたのは100回以上になります。続く
母の手首の手術が無事に終わり私はずっと母の側で胸中で祈り眠っている母の顔を見ていました。次の朝、目を覚ますと私を見ながら母はポツリと私に言いました。この右手で花百蓮が御本尊様の前でお題目を唱えているとき、ぶってばかりいたからこうなってしまったのかもしれないね、と言うので私はちがうよ、といいました。早く良くなるよう、お母ちゃんも題目唱えてね、というと、たて線時代からの話をしてくれたり、いろんな話をしてくれました。信心は回数の問題でもないですが 、第二次宗門問題の年の平成2年の私の最終、登山した回数は母からの話を聞くと100回以上、登山しています。 続く
ちょうどその日は仕事が休みで家で夜の10時すぎに母が自宅の窓ガラスを拭いていました。暫くするとガラスの割れた音とともに、ぎゃ~~~と悲鳴が聞こえ母のところに行くと右手首をおさえている間から大量の血がでていて、タオルを早くというのでタオルを渡すと手首に巻いて、これから医者へ行くからと私は母についていきながら、お母ちゃん大丈夫?とお題目を唱えながら、当時、個人病院が近いので個人病院までいき夜の10時すぎになっていたので、閉まっていて真っ暗なのです、その病院の前で大きな声をだして中にいる医師を呼び出てきてくれました。緊急の措置をとりすぐに大きい病院に運ばれ母は十数針も手首をぬい、命をとりとめました。 私はその間、胸中で御本尊様、どうか母を助けてください、私には必要なお母ちゃんなんです、お願いだからとずっと祈りました。続く
昨日の2・16・千葉の日、記念座談会は無事に終えることができました。午後1時30分からでしたが、12時頃までは雨と風がふいていたのですが、1時になったら雨がやみ、暖かくなって風もなくなりました。春がきたようにとても暖かかったです。STBの2月闘争を拝見し、折伏に頑張ることをブロック一丸で誓いました。