例によって図書館から借りてきた本で「KGB帝国」という本を読んだ。
著者はフランスのロシア・ウオッチャーで、分厚くて読みでのある極めて内容の固い本であった。
一言でいって、ロシアの政治は一体どうなっているのかということに尽きる。
KGBといえば旧ソビエット時代の秘密警察ではないか。
そんなものが崩壊した後のロシアにあること自体、我々にとっては不可解極まりない。
もとの秘密警察がマフィアとつるんで金儲けに奔走している、というのだからあいた口がふさがらない。
まるで政治が政治になりきっていないではないか。
秦の始皇帝、ナチスのヒットラー、スターリンの暗黒政治そのものではないか。
21世紀においてもこういう状態だからこそ、100年前に共産主義というものがロシアの大地を覆いつくすのもむべなるかなという感じだ。
ある意味で原始の人間のままということだ。
別な言い方をすれば、人間の本質丸出しで、自然の摂理に沿った人々の生き様という言い方になる。
人間というのは、便利なものは習わずしてもすぐに技術を身につけ、それを上手に使いこなす才能には長けているが、それは人間の心の進化とは全く関係がない。
人は太古も今も一人では生きていけれないわけで、群れをなして集団で社会というものを形作って生きている。
その社会を平穏に維持するためには、秩序をきちんと維持して、それには法律というものを整備して、法律の枠の中で切磋琢磨して、競争し合い、良きものを目指すという思考性を持っているのが近代化した人間の社会だと思う。
ただし、人間は「考える葦」であって、考えることのできる生き物という観点からすると、「考える」ということは、貴族をはじめとする富裕層のように極めて恵まれた環境の人の特権であって、自ら額に汗して働くことをしなくても暮らせていける人々の特権であった。
そういう人は、日向ボッコをしながら酒池肉林の中で人間の在り方そのものを考えるわけで、そういう人たちの結論は「人は殺し合うのではなく平和に生きるべき存在だ」ということになる。
ところが、そういうことを言う人は、必ずしも統治者とは限定されないわけで、統治の外にいる無責任な存在であり、自分は統治者に対して批判をするけれど、政治参加は拒否する極めて日和見というか、無責任というか、傍観者の立場にいるのである。
そもそも学問というのは、金持ちが暇つぶしに思考を巡らす場であったわけで、朝星夜星で働く労働者階級のものではなかったはずである。
そういう金持ちのボンボンが、暇つぶしに「人は如何に生きるべきか」と考えた時、「人が人を殺すのは人として忌み嫌うべき行為だ」と結論付けたわけだ。
ということは、この言葉が知識人、教養人の特権的な思考になってしまったわけで、そういう考え方が広まった社会は開けた社会で、そういう発想に至っていない社会は、野蛮な社会ということになる。
21世紀の今日、この考え方は完全に地球上の隅々にまで普及してしまって、いまや地球上の大方の地域では、「人が人を殺すのは人として忌み嫌うべき行為だ」という認識が普遍化してしまった。
ところが真の自然人はこんな考え方を受け入れないと思う。
真の自然人の大部分は、金持ちのボンボンではないわけで、こういう綺麗事とは無縁の世界に生きている。
足を踏まれたら踏み返す、物を盗られたら盗り返す、殴られたら殴り返すというが人間としての極めて原始的な自然の姿だと思う。
これを教養ある人々は、野蛮な行為だと見なしている。
ところが主権国家のリーダーともなれば、知識人や教養人のような綺麗事は言っておれないわけで、いくら教養人や知識階級が理想主義や気高い理念を振りかざして自重をうながしても、そういう人たちでない人々の思いもかなえなければならないわけで、綺麗事で済ませておれないわけである。
ニューヨークのWTCビルにテロ攻撃を仕掛けられて、アメリカ大統領が「テロをする側にも言い分があるに違いない」などと報復を控えていたとするならば、アメリカの知識人や教養人でない人々の思いをどう導けばいいのであろう。
あの場合、誰が大統領であったとしても、とるべきと方法は一つしかなかったに違いない。
統治者を批判する知識人や教養人に対して、どう懐柔策を練ればいいのであろう。
話がそれてしまったが、ここで言いたかったことは、地球上のあらゆる地域に居を構える人々の中には、政治感覚において極めて野蛮な人々がいるということが言いたかったのである。
政治意識が限りなく野蛮でも、文明の利器は自分の欲求に応じて極めて巧妙に使い分けることができるようだ。
この本の舞台はロシアであるが、ロシアが1917年の革命で共産主義国になってしまったという点にも政治意識の未熟さが如実に表れているわけで、その未熟さは革命の前のロマノフ王朝王の時からすでにスラブ民族の政治意識の稚拙さがあったように見える。
21世紀においても、この1917年という時においても、ある一定の年代で地球を輪切りしてみた時、アメリカ、日本、中国、ロシア、ヨーロッパを並べた時、どういう光景が見えるであろうか。
アメリカ、日本、ヨーロッパとロシア、中国と二つに色分けできて、それは文明国と後進国、あるいは発達した地域と未開の地域、民主化の進んだ地域とそうでない地域という風に歴然と分かれてしまうではないか。
ロシアと中国は同じアジア大陸にあるわけで、このアジアの民が未開、あるいは野蛮と言われるのは一体如何なる理由によるものなのであろう。
ここでアメリカというものをよくよく見てみると、アメリカはヨーロッパから海をわてってきた人々が、アメリカ大陸を西へ西へと開墾してできた国で、そこには先住民としてインデアン、ネイティブ・アメリカンがいたにもかかわらず、それらを蹴散らして出来上がった国だ。
ならば蹴散らされたインデアン、ネイテイブ・アメリカンとは一体どういう人たちであったのだろう。
彼らは太古、人間が誕生した極めて初期のころにアジア大陸からアリューシャン列島を渡って北アメリカに、そして南アメリカ大陸に住み着いた人々だといわれている。
よって、もともとアジア大陸にいたモンゴロイドだが、彼らは不幸なことに文字を持っていなかったので、記録を残すことが出来ず、統一国家をつくることもなかった。
アメリカ合衆国というのは、ヨーロッパ人がそういう人々を蹴散らして作った国であったが、翻ってアジアを見てみると、アジアの民というのは基本的に、アメリカ大陸に渡らなかったアメリカインデアン、ネイティブ・アメリカンのままであったわけだ。
北米大陸のインデアンは、ヨーロッパの白人に蹴散らされてしまったが、アジアの先住民はヨーロッパ人が蹴散らすには少〃厄介な存在で、その規模の大きさもさることながら、文字を持ち、強固な統一国家も作っていたので、そう安易に蹴散らせる相手ではなかったわけだ。
ヨーロッパ人に蹴散らせることはなかったが、相当なダメージはうけたわけで、それでも20世紀の後半から21世紀にかけては自主独立を勝ち取るまでになった。
ところが、このアジアの民も政治意識においては、アメリカインデアンの域を出るものではなく、民主化ということを真に理解しきれていない。
その結果として、アジア大陸ではロシアも中国も見事に共産主義国になってしまったではないか。
アジアの民が共産主義を受け入れたということは、これらの人々がバカであったという一語に尽きる。
今、話題になっている振り込め詐欺に掛かる被害者も、自分が騙されていることすら信じない人がいるらしいが、それと同じでバラ色の夢を信じ込まされて、その欺瞞に気がつかないバカな人と同じということだ。
共産主義というものを信じるには、それなりの理由があることは理解できる。
ロマノフ王朝の統治が極端に悪かったこともその大きな理由であろう。
蒋介石の統治が極端に悪かったこともその大きな理由であろう。
しかし、そういう旧弊に代わって登場した共産主義者の統治が、期待したほどの善政であったかどうかは大きな疑問である。
アジアの民はアメリカインデアンと同じであったが、民族の数が多い分、その中には強固な文明を築いたものもあるが、所詮、それも民族間の優勝劣敗の域を出るものではなく、近世になるとヨーロッパ文明に蹂躙される運命にあったと考えるべきだ。
ヨーロッパ文明の優れたところは、いわゆる民主化ということで、人々の意志を尊重するという部分であったと思う。
この意識改革の進展が、今日、近代化、および民主化の格差となって表れているものと思う。
旧ソビエット連邦がわずか70年足らずの共産主義の治世で再び元に戻ったということは、共産主義の理念が人々を魅了する力を最初から持ち合わせていなかったということであって、今日のロシアは再びアジアの民に回帰したということだ。
そのことは同時に、大自然のままの原始の人間に舞い戻ったということで、それはすなわ人間の欲望の赴くままに人々が生きるということを示唆している。
原始の人間社会の再来ということである。
言い換えれば、弱肉強食の状態に戻ったということで、ここでいう力、パワーというのは、何も腕力だけのことを指すわけではない。
権力も、金も、腕力も、それこそパワーそのものである。
1917年にロシアで革命が起きたということは、それまでのロマノフ王朝の統治が稚拙で、人々が自分たちの統治者の首の据え変えを望んだわけで、次にくる統治者は、人々の、下々の希望と期待に応えてくれるものを望んだが、政権を取った側は一度権力を掌握したらさいご、今までの統治者と同じで、人々のこと、下々のこと、農民のこと、労働者のことなど綺麗さっぱり忘れてしまったわけである。
結局のところ、権力を握るということは、ロマノフ王朝でも共産党の高級幹部でも、することは同じであったというわけで、いくら統治者の首を据え変えても、人が人を統治することの本質は変わらないということである。
アジアの民の政治的な稚拙さというのは、統治するものを自分たちで選出するという意識のないことである。
「俺がお前たちを治めるんだ!」という者が現れると、それに抗しきれないわけで、それに従わざるを得ないという状況から抜け出せないでいる。
ある意味で、そういうことを声高に叫ぶ者があらわれると、金縛りにあったように無抵抗になってしまう。
それが権力というもので、その権力の行使に頻繁に使われる手段が警察権であって、抵抗するもの、反抗するものを、従わないものを全部ひっ捉えて牢獄に入れ、あるいは抹殺してしまう。
アジアの民は、こういう手法で国家を維持しているわけで、それは旧ソビエットでも、あるいは中国でも、これと同じ手法で国家を維持しているではないか。
それで、共産主義体制が内部崩壊して、「俺がお前たちを治めるんだ!」と、心の中で思っている人間が、野放しになってしまったが、それでは主権国家の体をなさないので、それを裏から支えているのがKGBである。というのがこの本の趣旨である。
レーニンが革命を起こしたとき、ロシアにはまだ大勢の貴族が残っていたが、その貴族狩りのために設立された機関が「反革命活動及びサボタージュ活動取り締まり委員会」というのあって、これが悪名高きゲーペーウーGPUである。
共産主義思想で理論武装されたソビエット連邦というのは、このゲーペーウーGPUの恐怖政治であったわけだが、これが第2次世界大戦後KGBに衣替えして今日まで生き残ったわけである。
問題は、こういう機関も、それぞれの主権国家内の体制維持のためにはある程度は必要不可欠な部分があるが、その施行にあたって基準となるべき法律が整備されておらず、為政者の意のままにそれが運用されるという部分である。
「俺が法律だ!!」ということが、そのまま通っていたわけで、それが今日まで連綿と生き続けているところが大問題である。
プーチンの時代になってもKGBが政府を陰で動かしているという塩梅らしい。
その事実をこの本は告発しているわけであるが、秘密警察がマフィアとつながっているなどということは我々には信じ切れない。
戦後のソ連の発展は目覚ましいものがあって、ミサイルは開発するし、人工衛星は打ち上げるし、高性能の航空機は開発するので、我々の目から見ると限りなく文化のすすんだ先進国かのように見えていたものだが、一般消費財は極端に不足している、という話を聞いてもにわかに信じ切れなかった。
こういう科学技術の進歩の裏には、教育の進歩もそれに付随して進んでいるように思われていたが、この本を読む限り、人々の意識は太古のままで、民主化というには程遠い感がする。
民主化が程遠いだけならばまだ許せるが、高度な科学技術を持ちながら、人々の意識が極めてモラルに欠けている点が最大の問題点である。
泥棒と警察が一体となって自分たちだけの利益のみを追求する社会というのは一体どこに行くのだろう。
昭和の初期、日本は中国を侵略したと言われているが、当時の中国では軍閥、馬賊、匪賊、赤匪、強盗、夜盗が跋扈していたわけで、プーチンの治めたロシアもそれに近い状況であると、この本は述べている。
法律を重んじないというのはアジアの民に共通した潜在意識のようで、法律を自分の都合に合わせて、自分の都合のいいように解釈するという部分が近代化した民主主義の未熟なところだと思う。
近代化した社会ならば、法をきちんと整備して、法に違反したものは裁判でその真実を正し、法に照らして罰則を与えるというのが、近代化した民主主義社会だと思う。
社会の規範となるべき法律を、為政者が自分の都合に合わせて自分に都合のいいように勝手に解釈するような社会では、インデアンの酋長と何らかわることがないわけで、如何にも未開という言葉に尽きる。
プーチンの治めていたロシアというのは、内側にこういう不合理を抱えて込んでおり、文明の利器というのは如何にも上手に使いこなしているが、その精神においては極めて原始的というか、反民主的というか、個人主義というか、人間の欲望丸出しであったわけである。
経済の面では人間の欲望が進化を促すことはあるが、それが他者を踏みつけにした錬金術であるとするならば、革命前のロマノフ王朝と同じパターンを踏襲するわけで、世の中の混沌は免れない。
金を儲けたいという人間の欲望は、資本主義体制の潜在的なエネルギーであろうが、ただただ自分一人の金儲けに徹してしまっては、世間の反感を買うわけで、自らも儲けながら他者の救済も心掛ける、という寛容の精神で社会に奉仕する気持ちが大事だと思う。
ソビエット連邦が崩壊して、ロシアになったとしても、その主権国家の中で官僚機構が崩壊して、マフィアと警察、特に秘密警察がつるんだ状態というは末おそろしい有様だ、と言わなければならない。
国有財産が意図も安易に海外に持ち出されるということは、鉱物資源程度ならば実害を気にすることもないが、これが核兵器だとか、核物質だとか、ミサイルなどが安易にテロ集団、あるいはテロを厭わない国などに売却されるとなると、その恐ろしさに身が縮む思いがする。
それを考えるとロシアの国内の問題にとどまらず、よその国にも甚大な影響を及ぼすことにある。
警察がマフィアとつるんで私利私欲を貪っているだけならばまだ救われるが、軍部が崩壊すればこういうこともありうるわけで、それをどう考えたらいいのであろう。
著者はフランスのロシア・ウオッチャーで、分厚くて読みでのある極めて内容の固い本であった。
一言でいって、ロシアの政治は一体どうなっているのかということに尽きる。
KGBといえば旧ソビエット時代の秘密警察ではないか。
そんなものが崩壊した後のロシアにあること自体、我々にとっては不可解極まりない。
もとの秘密警察がマフィアとつるんで金儲けに奔走している、というのだからあいた口がふさがらない。
まるで政治が政治になりきっていないではないか。
秦の始皇帝、ナチスのヒットラー、スターリンの暗黒政治そのものではないか。
21世紀においてもこういう状態だからこそ、100年前に共産主義というものがロシアの大地を覆いつくすのもむべなるかなという感じだ。
ある意味で原始の人間のままということだ。
別な言い方をすれば、人間の本質丸出しで、自然の摂理に沿った人々の生き様という言い方になる。
人間というのは、便利なものは習わずしてもすぐに技術を身につけ、それを上手に使いこなす才能には長けているが、それは人間の心の進化とは全く関係がない。
人は太古も今も一人では生きていけれないわけで、群れをなして集団で社会というものを形作って生きている。
その社会を平穏に維持するためには、秩序をきちんと維持して、それには法律というものを整備して、法律の枠の中で切磋琢磨して、競争し合い、良きものを目指すという思考性を持っているのが近代化した人間の社会だと思う。
ただし、人間は「考える葦」であって、考えることのできる生き物という観点からすると、「考える」ということは、貴族をはじめとする富裕層のように極めて恵まれた環境の人の特権であって、自ら額に汗して働くことをしなくても暮らせていける人々の特権であった。
そういう人は、日向ボッコをしながら酒池肉林の中で人間の在り方そのものを考えるわけで、そういう人たちの結論は「人は殺し合うのではなく平和に生きるべき存在だ」ということになる。
ところが、そういうことを言う人は、必ずしも統治者とは限定されないわけで、統治の外にいる無責任な存在であり、自分は統治者に対して批判をするけれど、政治参加は拒否する極めて日和見というか、無責任というか、傍観者の立場にいるのである。
そもそも学問というのは、金持ちが暇つぶしに思考を巡らす場であったわけで、朝星夜星で働く労働者階級のものではなかったはずである。
そういう金持ちのボンボンが、暇つぶしに「人は如何に生きるべきか」と考えた時、「人が人を殺すのは人として忌み嫌うべき行為だ」と結論付けたわけだ。
ということは、この言葉が知識人、教養人の特権的な思考になってしまったわけで、そういう考え方が広まった社会は開けた社会で、そういう発想に至っていない社会は、野蛮な社会ということになる。
21世紀の今日、この考え方は完全に地球上の隅々にまで普及してしまって、いまや地球上の大方の地域では、「人が人を殺すのは人として忌み嫌うべき行為だ」という認識が普遍化してしまった。
ところが真の自然人はこんな考え方を受け入れないと思う。
真の自然人の大部分は、金持ちのボンボンではないわけで、こういう綺麗事とは無縁の世界に生きている。
足を踏まれたら踏み返す、物を盗られたら盗り返す、殴られたら殴り返すというが人間としての極めて原始的な自然の姿だと思う。
これを教養ある人々は、野蛮な行為だと見なしている。
ところが主権国家のリーダーともなれば、知識人や教養人のような綺麗事は言っておれないわけで、いくら教養人や知識階級が理想主義や気高い理念を振りかざして自重をうながしても、そういう人たちでない人々の思いもかなえなければならないわけで、綺麗事で済ませておれないわけである。
ニューヨークのWTCビルにテロ攻撃を仕掛けられて、アメリカ大統領が「テロをする側にも言い分があるに違いない」などと報復を控えていたとするならば、アメリカの知識人や教養人でない人々の思いをどう導けばいいのであろう。
あの場合、誰が大統領であったとしても、とるべきと方法は一つしかなかったに違いない。
統治者を批判する知識人や教養人に対して、どう懐柔策を練ればいいのであろう。
話がそれてしまったが、ここで言いたかったことは、地球上のあらゆる地域に居を構える人々の中には、政治感覚において極めて野蛮な人々がいるということが言いたかったのである。
政治意識が限りなく野蛮でも、文明の利器は自分の欲求に応じて極めて巧妙に使い分けることができるようだ。
この本の舞台はロシアであるが、ロシアが1917年の革命で共産主義国になってしまったという点にも政治意識の未熟さが如実に表れているわけで、その未熟さは革命の前のロマノフ王朝王の時からすでにスラブ民族の政治意識の稚拙さがあったように見える。
21世紀においても、この1917年という時においても、ある一定の年代で地球を輪切りしてみた時、アメリカ、日本、中国、ロシア、ヨーロッパを並べた時、どういう光景が見えるであろうか。
アメリカ、日本、ヨーロッパとロシア、中国と二つに色分けできて、それは文明国と後進国、あるいは発達した地域と未開の地域、民主化の進んだ地域とそうでない地域という風に歴然と分かれてしまうではないか。
ロシアと中国は同じアジア大陸にあるわけで、このアジアの民が未開、あるいは野蛮と言われるのは一体如何なる理由によるものなのであろう。
ここでアメリカというものをよくよく見てみると、アメリカはヨーロッパから海をわてってきた人々が、アメリカ大陸を西へ西へと開墾してできた国で、そこには先住民としてインデアン、ネイティブ・アメリカンがいたにもかかわらず、それらを蹴散らして出来上がった国だ。
ならば蹴散らされたインデアン、ネイテイブ・アメリカンとは一体どういう人たちであったのだろう。
彼らは太古、人間が誕生した極めて初期のころにアジア大陸からアリューシャン列島を渡って北アメリカに、そして南アメリカ大陸に住み着いた人々だといわれている。
よって、もともとアジア大陸にいたモンゴロイドだが、彼らは不幸なことに文字を持っていなかったので、記録を残すことが出来ず、統一国家をつくることもなかった。
アメリカ合衆国というのは、ヨーロッパ人がそういう人々を蹴散らして作った国であったが、翻ってアジアを見てみると、アジアの民というのは基本的に、アメリカ大陸に渡らなかったアメリカインデアン、ネイティブ・アメリカンのままであったわけだ。
北米大陸のインデアンは、ヨーロッパの白人に蹴散らされてしまったが、アジアの先住民はヨーロッパ人が蹴散らすには少〃厄介な存在で、その規模の大きさもさることながら、文字を持ち、強固な統一国家も作っていたので、そう安易に蹴散らせる相手ではなかったわけだ。
ヨーロッパ人に蹴散らせることはなかったが、相当なダメージはうけたわけで、それでも20世紀の後半から21世紀にかけては自主独立を勝ち取るまでになった。
ところが、このアジアの民も政治意識においては、アメリカインデアンの域を出るものではなく、民主化ということを真に理解しきれていない。
その結果として、アジア大陸ではロシアも中国も見事に共産主義国になってしまったではないか。
アジアの民が共産主義を受け入れたということは、これらの人々がバカであったという一語に尽きる。
今、話題になっている振り込め詐欺に掛かる被害者も、自分が騙されていることすら信じない人がいるらしいが、それと同じでバラ色の夢を信じ込まされて、その欺瞞に気がつかないバカな人と同じということだ。
共産主義というものを信じるには、それなりの理由があることは理解できる。
ロマノフ王朝の統治が極端に悪かったこともその大きな理由であろう。
蒋介石の統治が極端に悪かったこともその大きな理由であろう。
しかし、そういう旧弊に代わって登場した共産主義者の統治が、期待したほどの善政であったかどうかは大きな疑問である。
アジアの民はアメリカインデアンと同じであったが、民族の数が多い分、その中には強固な文明を築いたものもあるが、所詮、それも民族間の優勝劣敗の域を出るものではなく、近世になるとヨーロッパ文明に蹂躙される運命にあったと考えるべきだ。
ヨーロッパ文明の優れたところは、いわゆる民主化ということで、人々の意志を尊重するという部分であったと思う。
この意識改革の進展が、今日、近代化、および民主化の格差となって表れているものと思う。
旧ソビエット連邦がわずか70年足らずの共産主義の治世で再び元に戻ったということは、共産主義の理念が人々を魅了する力を最初から持ち合わせていなかったということであって、今日のロシアは再びアジアの民に回帰したということだ。
そのことは同時に、大自然のままの原始の人間に舞い戻ったということで、それはすなわ人間の欲望の赴くままに人々が生きるということを示唆している。
原始の人間社会の再来ということである。
言い換えれば、弱肉強食の状態に戻ったということで、ここでいう力、パワーというのは、何も腕力だけのことを指すわけではない。
権力も、金も、腕力も、それこそパワーそのものである。
1917年にロシアで革命が起きたということは、それまでのロマノフ王朝の統治が稚拙で、人々が自分たちの統治者の首の据え変えを望んだわけで、次にくる統治者は、人々の、下々の希望と期待に応えてくれるものを望んだが、政権を取った側は一度権力を掌握したらさいご、今までの統治者と同じで、人々のこと、下々のこと、農民のこと、労働者のことなど綺麗さっぱり忘れてしまったわけである。
結局のところ、権力を握るということは、ロマノフ王朝でも共産党の高級幹部でも、することは同じであったというわけで、いくら統治者の首を据え変えても、人が人を統治することの本質は変わらないということである。
アジアの民の政治的な稚拙さというのは、統治するものを自分たちで選出するという意識のないことである。
「俺がお前たちを治めるんだ!」という者が現れると、それに抗しきれないわけで、それに従わざるを得ないという状況から抜け出せないでいる。
ある意味で、そういうことを声高に叫ぶ者があらわれると、金縛りにあったように無抵抗になってしまう。
それが権力というもので、その権力の行使に頻繁に使われる手段が警察権であって、抵抗するもの、反抗するものを、従わないものを全部ひっ捉えて牢獄に入れ、あるいは抹殺してしまう。
アジアの民は、こういう手法で国家を維持しているわけで、それは旧ソビエットでも、あるいは中国でも、これと同じ手法で国家を維持しているではないか。
それで、共産主義体制が内部崩壊して、「俺がお前たちを治めるんだ!」と、心の中で思っている人間が、野放しになってしまったが、それでは主権国家の体をなさないので、それを裏から支えているのがKGBである。というのがこの本の趣旨である。
レーニンが革命を起こしたとき、ロシアにはまだ大勢の貴族が残っていたが、その貴族狩りのために設立された機関が「反革命活動及びサボタージュ活動取り締まり委員会」というのあって、これが悪名高きゲーペーウーGPUである。
共産主義思想で理論武装されたソビエット連邦というのは、このゲーペーウーGPUの恐怖政治であったわけだが、これが第2次世界大戦後KGBに衣替えして今日まで生き残ったわけである。
問題は、こういう機関も、それぞれの主権国家内の体制維持のためにはある程度は必要不可欠な部分があるが、その施行にあたって基準となるべき法律が整備されておらず、為政者の意のままにそれが運用されるという部分である。
「俺が法律だ!!」ということが、そのまま通っていたわけで、それが今日まで連綿と生き続けているところが大問題である。
プーチンの時代になってもKGBが政府を陰で動かしているという塩梅らしい。
その事実をこの本は告発しているわけであるが、秘密警察がマフィアとつながっているなどということは我々には信じ切れない。
戦後のソ連の発展は目覚ましいものがあって、ミサイルは開発するし、人工衛星は打ち上げるし、高性能の航空機は開発するので、我々の目から見ると限りなく文化のすすんだ先進国かのように見えていたものだが、一般消費財は極端に不足している、という話を聞いてもにわかに信じ切れなかった。
こういう科学技術の進歩の裏には、教育の進歩もそれに付随して進んでいるように思われていたが、この本を読む限り、人々の意識は太古のままで、民主化というには程遠い感がする。
民主化が程遠いだけならばまだ許せるが、高度な科学技術を持ちながら、人々の意識が極めてモラルに欠けている点が最大の問題点である。
泥棒と警察が一体となって自分たちだけの利益のみを追求する社会というのは一体どこに行くのだろう。
昭和の初期、日本は中国を侵略したと言われているが、当時の中国では軍閥、馬賊、匪賊、赤匪、強盗、夜盗が跋扈していたわけで、プーチンの治めたロシアもそれに近い状況であると、この本は述べている。
法律を重んじないというのはアジアの民に共通した潜在意識のようで、法律を自分の都合に合わせて、自分の都合のいいように解釈するという部分が近代化した民主主義の未熟なところだと思う。
近代化した社会ならば、法をきちんと整備して、法に違反したものは裁判でその真実を正し、法に照らして罰則を与えるというのが、近代化した民主主義社会だと思う。
社会の規範となるべき法律を、為政者が自分の都合に合わせて自分に都合のいいように勝手に解釈するような社会では、インデアンの酋長と何らかわることがないわけで、如何にも未開という言葉に尽きる。
プーチンの治めていたロシアというのは、内側にこういう不合理を抱えて込んでおり、文明の利器というのは如何にも上手に使いこなしているが、その精神においては極めて原始的というか、反民主的というか、個人主義というか、人間の欲望丸出しであったわけである。
経済の面では人間の欲望が進化を促すことはあるが、それが他者を踏みつけにした錬金術であるとするならば、革命前のロマノフ王朝と同じパターンを踏襲するわけで、世の中の混沌は免れない。
金を儲けたいという人間の欲望は、資本主義体制の潜在的なエネルギーであろうが、ただただ自分一人の金儲けに徹してしまっては、世間の反感を買うわけで、自らも儲けながら他者の救済も心掛ける、という寛容の精神で社会に奉仕する気持ちが大事だと思う。
ソビエット連邦が崩壊して、ロシアになったとしても、その主権国家の中で官僚機構が崩壊して、マフィアと警察、特に秘密警察がつるんだ状態というは末おそろしい有様だ、と言わなければならない。
国有財産が意図も安易に海外に持ち出されるということは、鉱物資源程度ならば実害を気にすることもないが、これが核兵器だとか、核物質だとか、ミサイルなどが安易にテロ集団、あるいはテロを厭わない国などに売却されるとなると、その恐ろしさに身が縮む思いがする。
それを考えるとロシアの国内の問題にとどまらず、よその国にも甚大な影響を及ぼすことにある。
警察がマフィアとつるんで私利私欲を貪っているだけならばまだ救われるが、軍部が崩壊すればこういうこともありうるわけで、それをどう考えたらいいのであろう。