ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

『証言録 海軍反省会3』

2012-11-01 07:52:30 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で『証言録 海軍反省会3』という本を読んだ。
3となっているので、既に1と2が世に出回っていることは当然で、私自身は既に読んでいる。
この反省会は、戦後、昭和55年から平成3年の間に130回も海軍OBによる会合が開かれて、太平洋戦争全般について海軍の在り方の反省を行うというもので、純粋に海軍OBの内輪の会合であった。
最初は、内輪の愚痴の言い合い程度の発想であったものが、途中から「愚痴ってばかりでは勿体ないから、何か歴史の教訓になるようなものを残そうではないか」ということになったようで、テープに録音したものを文章に書き起こしたのがこの本である。
だから中味は会話体になっているので、読みやすいともいえるが、同時に読みにくい部分もある。
ただ昭和55年という時からこの会合が始まったということは、戦後25年目からということで、4半世紀経た時点での回顧録ということでもある。
大日本帝国海軍が消滅して4半世紀もすると、「昔は良かった」という懐古の念が生じてくるのも致し方なかろうが、私に言わしめれば、日本の軍部は陸軍にしろ海軍にしろ、消えるべくして消えたと思う。
それは日本民族の特質がそうなさしめたといえるが、日本民族の中からそれについての言及は未だに出てきていない。
日本民族の防人としての組織が、昭和20年8月、1945年8月に壊滅したということは、ひとえに日本民族の政治下手の帰結であって、我々は国際社会という生存競争の場で、如何に生き抜くことが下手か、という具現である。
昔も今も、日本民族はモノ作りには長けているが、政治下手というのは我々の民族の特質でもある。
我々の軍隊は、明治維新で創建され、昭和20年の終戦で消滅したわけで、その間約70年間の命であったということになる。
この約70年間という歳月は、期しくもソビエット連邦の存命の期間とよく似た歳月であるが、新しい一つの組織が立案されて消滅するまでの期間というのは、案外この程度の時間的空間が自然の摂理に合っているのかもしれない。
この反省会の出席者は、相当な要職に就かれた方々で、駐在武官として諸外国にいた経験もお持ちの方が多いが、組織の中の人間としてはそれぞれに努力されたであろうが、結果として戦争に負けたということは、軍人として、防人として何の価値もなかったという一語に尽きる。
私自身は昭和15年生まれで、あの戦争には何のかかわりもない世代で、戦後の教育を受けた世代であるが、それ故にあの戦争を指導した我々の先輩、同胞に対して、冷酷な批判をするにやぶさかではない。
負けるような戦争指導した同胞の先輩に対して、憤懣やるかたない思いがふつふつと沸いてくる。
日本を負かした敵を恨むよりも、負けるような戦争を指導した、同胞の軍人に心の底から怒りを覚える。
戦後の教育を受けた我々世代は、戦争の敗因の大きな理由を、軍人の怠慢とか、奢りとか、傲慢さに蔽い被せようとしていたが、日本が戦争に負けるというボタンに掛け違いは、もう既にこの思い違いの中にある。
日本が昭和20年という時に奈落の底に転がり落ちる原因は、明治維新にまで遡ると思うが、その第一の理由は、我々は近代国家として民主主義の政治形態を習得しきれないというか、それが我々の民族になじまないと考えねばならない。
司馬遼太郎の描いた『坂の上に雲』で、秋山真之が兵学校の制服で帰郷する場面があった。
私の叔父さんも兵学校に進んで、白い制服姿で帰郷した時の写真があるが、本人を中心にして如何にも一族郎党が誇らし気に映っている。
これがあの時代、明治維新から昭和の初期の日本の心象風景であったと思う。
つまり、海軍兵学校、陸軍士官学校というのは、当時の一番華やかな職業であって、猫も杓子もこれに憧れた時代であり、大衆の憧れの的であったわけだ。
明治維新で、散切り頭を叩いてみると、西洋文化との大きなカルチャー・ギャップがあったわけで、それを一刻も早く是正しなければというわけで、富国強兵が国是となり、それを実現するためには、人材を広く公募しなければならなかった。
その為の手法として、旧弊の身分制度を否定して、門戸を広く開放したが、これが結果として、玉石混交となり味噌も糞も一緒くたにされて、成績順に昇順ないしは降順で職責が割り当てられた。
俗に、「三つ子の魂百まで」という言葉があって、玉石混交、味噌も糞も一緒くたにした人間集団の中でも、個々の三つ子の魂は教育では是正出来ないので、総じてノブレス・オブリージは我が民族から消滅してしまった。
諸外国の例を見ると、軍隊の中の将校という階層は基本的に貴族の所掌で、感覚的には封建主義の延長線上そのまんまで、庶民とか衆愚の中から将校になるなどということは極めて異例のことである。
ところが日本とアメリカは、どこの馬の骨とも判らないものが、実績によって将校になれるシステムであった。
このシステムは極めて民主的で、優れた人材を適材適所に配置できるはずであったが、日本ではそうならなかった。
アメリカは公募した人材に中から優秀な者を適材適所に配して、合理主義に徹したが故に対日戦に勝ったが、日本は公募した人材を職業訓練校に入れた段階で、もともと優秀であった人材を型に嵌めてしまったので、その後の評価は如何に型に嵌ったかが人物評価の基準になってしまったが為、対米戦に敗北してしまった。
玉石混交、味噌も糞も一緒くたの多種多才の若者を、金太郎飴のようにどこを切って同じデザインの切り口にしてしまった。
これは究極の官僚化ということで、限りなく官僚化に徹しきった人材こそが優秀な将校であり、優秀な参謀という価値観になってしまった。
この反省会では「なぜ海軍は戦争を阻止出来なかったか」ということが永遠の課題になっている感がするが、それに関して「ああでもないこうでもない」という議論は、ために為す議論であって、あまり意味がない。
それよりも、この会の出席者の中には外国駐留の経験者も多くいるわけで、その経験が彼ら個人の知見として何ひとつ仕事の上に反映されていない風に見えるところが大きな問題点である。
これは我々日本人同胞の政治下手にそのまま繋がる話だと思う。
海軍首脳がアメリカの実情を肌で感じ、目で見ている以上、その現実を陸軍の側に懇切丁寧に説くべきであったし、説いても相手は聞かないということも十分ありうるが、日本の防人として明治維新で陸軍・海軍というものが創建された以上、この両者はお互いに協力し合って、日本の国益を図らねばならなかった。
海軍兵学校も陸軍士官学校も、日本人の並み以上に優秀な人たちの集団であったとすれば、そういう道理が彼等に判らないはずはなかったと思う。
しかるに何故に彼等は日本を焦土と化し、奈落の底に突き落としたのであろう。
この場面では出てきていないが、昭和20年8月15日において、東京はまさしく焦土と化していたにもかかわらず、あの現状を目の当たりにしても、尚、徹底抗戦を称える高級将校の姿を我々はどう考えたらいいのであろう。
この反省会に出席している人の中には、アメリカに駐在武官として赴任している人がいるが、この人たちがスパイのようなことはして来ているが、アメリカの合理主義というものには全く関心を向けていない点が不思議でならない。
昭和初期の段階でアメリカにいくという時は、恐らく船での渡航であろうが、アメリカに渡っても一向にカルチャー・ショック、カルチャー・ギャップを感じていない点が不思議でならない。
兵学校在籍中にそういう教育を受けていたのかもしれないが、少なくとも頭脳明晰、学術優秀な若者が異国にいけば、カルチャー・ショック、カルチャー・ギャップを感じて当然だと思うが、それが全くないのが不思議でならない。
ということは文化の差異について全く鈍感であったということかもしれない。
その事は逆に言うと、アメリカのプラグマチズム、合理的発想に接しても何ひとつ自らの琴線に触れるものがなかったということだと想像できるが、こう成るともう無知、バカ、唐変木としか言いようがない。
ただこの本を読んでいて一つの救いは、海軍の上層部はシビリアン・コントロールを希求していたという点は、大いに評価すべきだと思う。
だがしかし、日米開戦を決断しなければならないという場面で、海軍大臣の島田繁太郎が、総理大臣の近衛文麿に下駄を預けてしまったと言っているが、近衛文麿はこの時点でまだシビリアン・コントロールの意味を真に理解していなかったキライがある。
あの戦争を通じて言えることは、戦争の責任、敗戦の責任を全部軍部に蔽い被せてしまって、国民大衆は被害者であるという認識が普遍化しているが、この考え方こそ泥沼に足を突っ込んだ最大の理由だと思う。
人間の生存の歴史の中から、戦争だけ引き抜いて語ることはできない。
人間の歴史は、戦争の歴史でもあるわけで、人間が生きていく上で、他者との諍いを避けて生き続けるということはありえないわけで、他者との諍いを武力で解決するか、話し合いで解決するかの違いであるが、武力を使って解決する方法は一番愚昧な行為である。
しかし、話し合いというのも武力の背景がない事には効力がないわけで、意味をなさない。
諍いの解決で一番ありがたい手法は、話し合いで事が収まれば一番ありがたいが、その為には政治的手腕に磨きを掛けなければならないわけで、それはどういう事かというと、相手側の人間の本質の限りない探求ということになって、世界の全ての学問を知覚して、それを交渉の武器として相手と話し合うということになる。
『孫子の兵法』の中に「相手を知り己を知れば百戦危うからず」というのがあるが、交渉の場でも相手を知ることは必須の条件なわけで、相手に応じた作戦で交渉に臨むべきであって、最初からエサで相手をツルなどという発想は、相手から突っ込まれるだけである。
しかし、相手との交渉の前に、我々同胞の政治下手というのはどうにかならないものだろうか。
日本が対米戦に嵌められたのも、我々の側の政治下手・外交下手が大きく影響しているわけで、日本が中国に出て行ったことがアメリカの機嫌を損ねたならば、ここで日本の政治的手腕、外交的手法で以て関東軍の振る舞いをカモフラージュ、あるいは整合性を持ったような説明がしきれなかったものだろうか。
国際社会の中で生存競争を生き抜くという場合、正義や善意というのは何の価値も持ち得ないわけで、黒を赤と言って相手に納得させるぐらいの詭弁は有って当然である。
我々は異民族と接したとき、相手を騙すことは悪い事だという認識から、何でもかんでも正直に腹を割ってカードを晒してしまうので、相手から突っ込まれるのである。
対米戦に関しては日本は自存自衛の戦争であったが、その前の日中戦争に関して言えば確かに日本側の侵略的要因も否めない。
しかし、この時期、昭和初期の時点まで日本の議会制度は立派に生きていたけれども、ここで美濃部達吉の『天皇機関説』や、斉藤隆夫の粛軍演説が出た時、日本の大衆、国民、知識人、学者、マスメデイアは彼らを擁護しなかったのは何故なのであろう。
明治維新以降、海軍兵学校のあの真っ白い制服に憧れたのは、その当時、士農工商という身分制度の束縛から解放された民(たみ)百姓(ひゃくしょう)であったわけで、こういう民百姓の群れ、言葉を換えれば、国民、市民、庶民、大衆、知識人、学者、マスメデイアの人々が寄って集って、美濃部達吉の『天皇機関説』を排撃し、斉藤隆夫の粛軍演説を糾弾したではないか。
昭和16年12月8日、日本海軍が真珠湾攻撃をしたというラジオニュースを聞いて歓喜して喜んだのは一体どこの国のどういう人たちであったのだろう。
我々の国の政治下手というのは、誰の所為でもなく、我々自身の問題なわけで、これは今でも立派に生きているわけで、今の我々の政治状況が見事にそれを具現化しているではないか。
戦前の日本の政治家が堕落したが故に、軍人が政治に嘴を突っ込まざるを得ない状況に立ち至ったということが言える。
世界的な規模からみて、我々日本人の評価は「モノ作りは世界一だが政治は3流という」ものだろうと思うが、政治が3流ということは我々の民族の置かれた地勢的な条件が大きく作用していると思う。
つまり、絶海の孤島の住人であるが故に、他民族、異民族との接触の仕方が不調法で、排他的になるか又はその逆に過剰に阿ったり(おもねったり)するので、相手から見てもどう接していいか判らないという事になりがちだと思う。
同胞同士のモノの決め方も、曖昧な話し方に依拠しているが故に、すべきかせずにおくべきか極めて判然としないので、相手の言葉尻じつかまえては自分に有利な論理展開をしようとするため、話が安易にまとまらない。
それにつけても日本の政治家はメデイアの使い方が極めて稚拙だと思う。
それは彼ら、政治家たちが、メデイアを自分に有利な方向に導こうと、下心が見え見えなのでバカにされているのである。
政治家たるもの、メデイアなどはインテリ・ヤクザとはっきり認識して、自分の身の回りに寄せ付けないようにすべきであるが、何とか自分に有利に使えるのではないか、という下心があるので、良い恰好しようとするから足を掬われるのである。
先に述べた美濃部達吉の話も、斉藤隆夫の話も、基本的には政治家同士の確執の露呈であって、言い換えれば政治家同士の足の引っ張り合いであったが、政治家がそういうつまらない事に現を抜かしているから、軍人・軍部に突け入る隙を与えてしまったのである。
あの時期、昭和の初期という時代には、確かに青年将校によるテロ行為が頻発して有為な人物が大勢命を落としたが、青年将校の側は最初から自分の命を投げ打ってテロをしている以上、政治家の側も自分の命を惜しんで、言うべきことを言わずに、すべきことをせずにいるということは許されない。
ここであの時代の政治家が、自分の命を惜しみ、命が可愛くて可愛くて、沈黙してしまったので、軍部が政局を席巻してしまったのである。
問題は、陸軍でも海軍でも、こういう高級将校、高級参謀が完全に官僚化してしまって、自分達は戦うための組織だということを忘れてしまったことにある。
海兵や陸士でなく極普通の人間ならば、組織内において早々人事異動させられた日には、席の暖まる間もなく、しようと思った仕事も尻切れトンボに終わることは当然である。
けれどもこの会合に出ている人たちの職域では、頻繁な人事異動が当然のように行われているわけで、こんなバカな話もないと思う。
それと、この人たちにはシビリアン・コントロールも、ウオーも、ストラテイジも、タクテックスも、言葉は知っているがその本質は全く判っていない様に見える。
アウトレンジの射撃などということを本気で考えている愚は噴飯ものに過ぎないではないか。
戦力の保持という言葉も、如何にもごまかしの言い分であって、ただの弁解、言い訳に過ぎないではないか。
海軍が海戦に負けるということは、ただの木偶の棒以下ということである。
ただの木偶の棒ならば、有為な若者を教育することもなく、高価な軍艦を作る必要もなかったが、海軍が海戦に負けるということは、ただの木偶の棒が朽ちるというよりも、もっと大きな意味合いがある。
あの熾烈な戦いが終わって、マッカアサーに占領され、その占領から解放された日本国民の戦後の政治状況というのも、またまた戦前の政治状況と瓜二つで、体制側と左翼陣営で混沌の極みを呈していたではないか。
まさしく日本人・日本民族の政治下手を如実に露呈していた。
我々、日本人には真の民主主義というのはありえないような気がしてならない。
戦後の復興を目指すならば、体制側も左翼陣営も、自民党も社会党も、お互いに協力し合って、双方に妥協し合って、妥協点を繰り合えばよさそうに思うが、徹底抗戦というポーズになりがちである。
ただ戦後の運動には、背景に共産主義者の先導があったことは否めないが、共産主義者の跋扈ということは、日本だけの事ではなく、全世界規模の厄病神のようなものだから、自然淘汰を待つほかない。


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