例によって自分の本棚から関心の赴くまま手にとって引っ張り出したものがこの本であった。
「靖国神社と日本人」。
著者は小堀桂一郎氏。多分、中国から首相の靖国神社参詣について内政干渉受けた時期に、それに憤慨して読んだものに違いない。
今はこの問題も沈静化しているが、基本的に日本の政治家というのは、外交音痴だということを内外に曝したということであろう。
昨年、平成21年、2009年NHKは約一年間にわたって「日本と朝鮮2009」という特別企画を教育テレビで行っていた。
それを年末から正月にかけて一気にまとめて放映したが、我々の祖国・日本というのはアジアとの係わりなしではありえないわけで、その意味で中国をはじめとするアジア諸国と仲良く連携しなければならないことは当然のことである。
仲良くするということは相手に対して卑屈になればそれで達成されるというものではないと思う。
そもそも仲良くする、平和的な均衡を保つ、ということからして人為的な行為であって、その人為的な行為という中に、相手に対して卑屈で、媚び諂うという態度も立派な人為的な行為であるが、ならば自分たちの民族の誇りはどう扱うのかということに行き着く。
人間の存在を考えた場合、個人と個人のレベルならば、双方の諍いを調和する手段というのは、国家権力として認められている。
よってそれぞれの個人はその権力の庇護のもとに、関係を調和しながら生きておれるが、これが国家間の関係としての国際社会となると、それぞれの国家を上から管理監督する機関というものが存在しないので、いわゆる無法地帯となっているのである。
人類は2度の世界大戦を経験したことで、「こんな無法状態であってはならないから何とか約束事を決めよう」というわけで国際連合というものを作ってはみたが、これには各主権国家を拘束する警察力がないので、ある意味で紳士協定であって、守るも破るもその国の自主判断であり、それを統率する力は最初から具備していない。
この状態を一言でいえば、ゆるい規約はあるが実質、警察力を欠いた無法状態だということに過ぎない。
戦後の我々の同胞は、自分たちの先輩諸氏が無謀極まりない戦いを世界に対して挑んだ結果として、祖国が灰燼と化し、町は焼け野原になったので、もう金輪際そういうことは決してしてはならないと肝に銘じたわけだが、それはそれでいいのだが、その時の反動として過剰に国際摩擦に敏感になりすぎてしまった。
完全にPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に嵌まり込んでしまって、気持ちが萎縮してしまい、ほんのちょっと牽制球を投げられると、震え上がってしまうようになった。
それが中国からの内政干渉となっているのだが、問題は中国から一言言われたからといって、それがそのままホットな戦争になるわけではないので、それを見越して安易な気持ちで相手国のご機嫌取りに徹するところが、私の目から見て非常に無責任に見える。
内政干渉されて平つくばっている政治家も不甲斐ないが、それにもまして、その内政干渉を相手国に扇動し、煽っている我々の側のメデイアの存在をどういう風に理解したら良いのであろう。
宮沢喜一、中曽根康弘、金丸信、後藤田正晴などという自民党の政治家は、全く国益などというものを眼中に置いていない。
中国に媚びるだけの人で、こちらが卑屈になれば相手は高飛車になるのはものの道理である。
自民党の党員、しかも自民党の中のドン、ある意味の実力者だからこそ、中国に媚びて、自分では国益の擁護をしているつもりかもしれないが、ここで戦後の日本人のPTSDが大きく作用してくるわけで、物事の本質を見失っている。
国際社会の外交は正邪、善悪、善し悪しという価値基準で動いているわけではなく、食うか食われるか、殺すか殺されるか、生きるか死ぬかという自然の摂理の中で機能しているわけで、その中では人間の良心というものを捨ててかからねばならない。
戦後の我々は,諍いで血を見ることを極端に忌み嫌うが、他国との交渉、他民族との駆け引きというのは、血を見る覚悟でしなければ相手は信用してくれない。
中国から「靖国神社に参拝に行くな」と言われて、素直に相手の言うことを聞いている限り、相手はそういう態度を常にしてくるわけで、脅せば引っ込むということを学習する。
この地球は国際法など有名無実の存在であって、まさしく無法状態である現実を直視せよと言いたい。
戦後の日本人は、その陽炎のような国際法、あるいは国連というものを過大評価して、盲目的に頼りきっているが、こういう実情そのものが政治の稚拙、外交の茶番劇の感を呈しているのである。
政治、外交というのはパワー以外の何ものでもない。
パワーと言う時、それは軍事力のみがパワーであるわけではなく、経済力、政治力、外交力、交渉のノウハウその他もろもろの処世術そのものがパワーたりえるわけだが、我々はともするとその中の軍事力のみにパワーの概念を固定化させてしまいがちである。
靖国神社には国難に殉じた人たちが眠っているわけで、それを国民の代表としての首相が公式に参詣できないなどというバカな話があってたまるか。
先に名前を挙げた自民党の政治家たちは、このバカな話を中国の言うがままに実践したわけで、心ある日本人ならば、こういう自分たちの首長を石を持って打たねばならない。
自分たちの祖国の国難に殉じて散華していった人たちの魂の慰霊に対して、よその国から叱られて踝を返すような我が同胞の政治家には、国民の審判が下りて当然である。
自分たちの国家元首が、自分たちの国難に殉じた英霊を参詣しないようであれば、ただちにその職責から引きずり下ろすべきではなかろうか。
国家反逆罪に当たるのではなかろか。
私は個人的には祖国の国難に殉じた御霊には敬意を表するものであるが、この靖国神社と軍国主義の結びつきには非常に懐疑的な思いを抱かざるを得ない。
「靖国神社で会おう」と言って死んでいった若人のことを考えると、意図的にそう仕向けた老練な指揮官、あるいは司令官、あるいは高級参謀の存在を素直には看過できない。
こういう殉国という美名のもとに、若人を死に追いやった指揮官等も、戦闘で死ねば同じようのその御霊はここに慰霊されるであろうが、死に追いやられたものと追いやったものが同じところに同じ価値観で慰霊されるというのはどうにも不可解な思いがする。
靖国神社にはA級戦犯が合祀されているから、ここに参詣することはあの戦争を肯定することになる、という論理は私の見解としては納得するものではないが、ここに祀られている英霊の中には、名実ともに勇猛果敢に戦場で倒れた人ばかりではなく、名実ともに非業の死を遂げた方も多いのではないかと思う。
戦場で敵の弾に当たって名誉の戦死をされた方は実に幸運だと思うが、ここに祀られている方々の中にはそういう幸運な方ばかりではなく、補給が途絶えて戦う前に力尽きて落命された方々も大勢いると思う。
その事を思うと私のような戦後世代の者は素直で純な気持ちにはなれない。
この本の著者はA級戦犯という言葉に抵抗感をあらわにしているが、言葉はともかくとして、死に追いやったものと、追いやられて死んだ者が、同じ場所で会するというのはやはり私としては違和感をぬぐえない。
A級戦犯が、戦争犯罪という罪を犯した犯罪者であるかないかという問題とも関連して、彼らは当時の日本の実質の指導者であり、戦争遂行の実践者であったことは確かで、勝った側がそういう人たちを懲罰するのは人間の感情としてごくありきたりのことだと思う。
ならばここに祀られている英霊たちは、彼らを戦場に送り込んだ自分たちの指導者を、同じ戦場で散った同胞として迎え入れるであろうか。
戦争は国難なのだから、立場は違っても仕方がないと大きな包容力でそれを容認することができるであろうか。
このあたりのことを考えると私としても複雑な心境になるが、要は、あの戦争の総括を日本人自身がしようとしていないので、一つの国難として日本国民の上も下もなく、皆同じ試練を同じようにこうむったわけだがから、全ての国民が平等という意味で帳消しにしたことにあると思う。
ただ勝った側のアメリカにしてみれば、靖国神社というのは、日本民族の敢闘精神の淵源だと思っていたので、この根本を絶つという意義は大いにあったに違いない。
これが存在する限り日本人は再び力を持ち返した暁には再度アメリカに挑戦してくるかも知れないという心配は拭い去れないものがあったと思う。
先に述べたように、自民党の政治家が中国から「靖国神社に参詣するな」と脅されて、震え上がった情けない同胞もさることながら、中国にそう教え込んだ我が同胞のことは、どう考えたら良いのであろう。
私流の言い方をすると、中国の国益に貢献する我が日本人という言い方になるが、こういう日本人は中国から表彰でもされるのであろうか。
20世紀後半から21世紀に掛けては地球はグローバル化して、どこでも大体好きな所にほぼ自由に行ける。
ビジネスでも観光でも、ほとんど自由に行き来できるので、個人的には自分の国籍がどこであろうとも関係なく移動乃至は他の活動ができるわけで、あまり自分の祖国という概念は必要ない。
自分の祖国という概念が喪失すれば、それに伴って国益という概念もきわめて価値が薄れてしまうので、政治家としても国益などという古典的な概念を恥も外聞もなくかなぐり捨てて、なんら恥じるところがないということなのであろう。
人間は、自分の祖国の恩恵に浴して生かされている、という受動的な感謝の気持ちではなく、自分は統治者や為政者という体制に抵抗して、自らの意思で生きているのだ、と思い上がった思考に嵌まり込んで、他者の存在を否定して生きているのだろうか。
確かに、この靖国神社に眠っている英霊の生前の大活躍があったからこそ、西洋列強は日本の存在に一目置かざるを得ず、日本を徒や疎かに扱えないという思いで、日本の占領政策が一段と熾烈になったということは言えるかもしれない。
ここに眠っている英霊の活躍については、我々の同胞よりも日本以外の人々の方が、その真価を正当に評価している。
どうして我々は同胞の活躍を正当に評価することに尻込みをして、躊躇するのであろう。
そこには我が民族の根本的な民族習俗としての精神的な特徴があるものと思う。
それは我々の民族の無責任性ではないかと思う。
我々は太古から「万機公論に決すべし」ということに価値を認め、あらゆる決定事項を合議制で執り行ってきたが、この合議制、万機公論的に議論して物事を決定するということは、責任の所在については全く曖昧模糊としているわけで、合議して決めた以上責任は全員に分散してしまう。
よって、「誰それの責任だ」ということは成り立たない。
中国から脅されて素直に言うことを聞いたとして、誰も直接的な損害を被ったわけではなく、メデイアが中国の国益に奉仕したとしても、その事によって日本が損をしたという歴然たる証拠は上がらないわけで、目に見える損害は何処にもないので、自分たちのしたことの売国奴的な行為の意味に無頓着である。
まさしく精神がグローバル化しているわけで、自らの民族のアイデンテイテーについても全く自覚しておらず、宇宙人のような気分になっているということなのであろう。
主権国家の国民、特に若い世代がこういう無国籍人の集合だとすると、もう主権国家そのものが成り立たなくなると思う。
先に述べた自民党の総理経験者たちでさえも、自分の祖国のアイデンテイテーを意識することなく、ただただ相手の言うなりになっている見下げた国家元首であるとするならば、その下の国民がそれ以上に高い見識と誇りと名誉を重んずるなどということはあり得ない。
私がこきおろした自民党の政治家たちも、基本的には先の大戦の生き残りの人たちであるので、彼らこそ大戦の悲劇を身をもって体験しており、PTSDの度合いもより大きく、中国との脅威を肌身で感じているのかもしれない。
そのことは同時に日本という国に見切りをつけたということかも知れない。
だとすれば、ごく自然に国家そのものが衰退化するのも、水の流れを見るごとく当然のことであろう。
繁栄の頂上まで登りつめれば、後は下降線をたどるのも自然界の摂理なわけで、そう驚くことはないが、誇りを失った人間は、もう生きている価値はないと思う。
この本の中には東京裁判史観という言葉がしばしば出てくるが、あの戦争を生き残った我々の同胞が、何故に勝利者の価値観をそう安易に受け入れたのであろう。
生きた人間は、自分自身が生きんがために精神を売るということも十分にありうることではあるが、それは緊急避難的な処世の術であって、占領を解かれた暁には、従来の民族の本質の価値観に一刻も早く復帰するのが、これまた自然の摂理ではなかろうか。
我々は、占領を解かれ独立を回復し、自主的に独り立ちの機会を得られたにもかかわらず、何故に占領期の戦後民主主義から脱却しようとしなかったのであろう。
あの戦争で我々は200万人以上の同胞をなくし、都市は大部分が灰燼と化し、国民は筆舌に尽くしがたい苦難を背負いこんだことは事実であるが、これも国際社会で生きるか死ぬか、食うか食われるかの生存競争の結果であって、正義だとか不正義だとか、善悪、善し悪しという価値感を超越したものである。
その現実に目をつぶり理想を追い求めるドンキホーテを演じている愚に思いが至らない。
人は名誉や誇りでは生きていけないわけで、中国から叱られて素直に謝るということは、名誉や誇りをかなぐり捨てたわけだが、ここで大和魂を持ち出して、名誉と誇りを粋がって吹聴してみたところで、中国にある日本企業を接収すると言われたら身も蓋もないわけで、それがあるからこそ自民党の政治家も叱られっぱなしで項垂れているのである。
その部分が国益と言えば国益であるが、それを克服するには言葉の戦いしかあり得ない。
外交交渉しかあり得ないが、この外交がこれまた我々は実に下手で、どうしても我々は国際社会を上手に泳ぐということができない。
荒野のガンマンに成り切れない。
「靖国神社と日本人」。
著者は小堀桂一郎氏。多分、中国から首相の靖国神社参詣について内政干渉受けた時期に、それに憤慨して読んだものに違いない。
今はこの問題も沈静化しているが、基本的に日本の政治家というのは、外交音痴だということを内外に曝したということであろう。
昨年、平成21年、2009年NHKは約一年間にわたって「日本と朝鮮2009」という特別企画を教育テレビで行っていた。
それを年末から正月にかけて一気にまとめて放映したが、我々の祖国・日本というのはアジアとの係わりなしではありえないわけで、その意味で中国をはじめとするアジア諸国と仲良く連携しなければならないことは当然のことである。
仲良くするということは相手に対して卑屈になればそれで達成されるというものではないと思う。
そもそも仲良くする、平和的な均衡を保つ、ということからして人為的な行為であって、その人為的な行為という中に、相手に対して卑屈で、媚び諂うという態度も立派な人為的な行為であるが、ならば自分たちの民族の誇りはどう扱うのかということに行き着く。
人間の存在を考えた場合、個人と個人のレベルならば、双方の諍いを調和する手段というのは、国家権力として認められている。
よってそれぞれの個人はその権力の庇護のもとに、関係を調和しながら生きておれるが、これが国家間の関係としての国際社会となると、それぞれの国家を上から管理監督する機関というものが存在しないので、いわゆる無法地帯となっているのである。
人類は2度の世界大戦を経験したことで、「こんな無法状態であってはならないから何とか約束事を決めよう」というわけで国際連合というものを作ってはみたが、これには各主権国家を拘束する警察力がないので、ある意味で紳士協定であって、守るも破るもその国の自主判断であり、それを統率する力は最初から具備していない。
この状態を一言でいえば、ゆるい規約はあるが実質、警察力を欠いた無法状態だということに過ぎない。
戦後の我々の同胞は、自分たちの先輩諸氏が無謀極まりない戦いを世界に対して挑んだ結果として、祖国が灰燼と化し、町は焼け野原になったので、もう金輪際そういうことは決してしてはならないと肝に銘じたわけだが、それはそれでいいのだが、その時の反動として過剰に国際摩擦に敏感になりすぎてしまった。
完全にPTSD(心的外傷後ストレス症候群)に嵌まり込んでしまって、気持ちが萎縮してしまい、ほんのちょっと牽制球を投げられると、震え上がってしまうようになった。
それが中国からの内政干渉となっているのだが、問題は中国から一言言われたからといって、それがそのままホットな戦争になるわけではないので、それを見越して安易な気持ちで相手国のご機嫌取りに徹するところが、私の目から見て非常に無責任に見える。
内政干渉されて平つくばっている政治家も不甲斐ないが、それにもまして、その内政干渉を相手国に扇動し、煽っている我々の側のメデイアの存在をどういう風に理解したら良いのであろう。
宮沢喜一、中曽根康弘、金丸信、後藤田正晴などという自民党の政治家は、全く国益などというものを眼中に置いていない。
中国に媚びるだけの人で、こちらが卑屈になれば相手は高飛車になるのはものの道理である。
自民党の党員、しかも自民党の中のドン、ある意味の実力者だからこそ、中国に媚びて、自分では国益の擁護をしているつもりかもしれないが、ここで戦後の日本人のPTSDが大きく作用してくるわけで、物事の本質を見失っている。
国際社会の外交は正邪、善悪、善し悪しという価値基準で動いているわけではなく、食うか食われるか、殺すか殺されるか、生きるか死ぬかという自然の摂理の中で機能しているわけで、その中では人間の良心というものを捨ててかからねばならない。
戦後の我々は,諍いで血を見ることを極端に忌み嫌うが、他国との交渉、他民族との駆け引きというのは、血を見る覚悟でしなければ相手は信用してくれない。
中国から「靖国神社に参拝に行くな」と言われて、素直に相手の言うことを聞いている限り、相手はそういう態度を常にしてくるわけで、脅せば引っ込むということを学習する。
この地球は国際法など有名無実の存在であって、まさしく無法状態である現実を直視せよと言いたい。
戦後の日本人は、その陽炎のような国際法、あるいは国連というものを過大評価して、盲目的に頼りきっているが、こういう実情そのものが政治の稚拙、外交の茶番劇の感を呈しているのである。
政治、外交というのはパワー以外の何ものでもない。
パワーと言う時、それは軍事力のみがパワーであるわけではなく、経済力、政治力、外交力、交渉のノウハウその他もろもろの処世術そのものがパワーたりえるわけだが、我々はともするとその中の軍事力のみにパワーの概念を固定化させてしまいがちである。
靖国神社には国難に殉じた人たちが眠っているわけで、それを国民の代表としての首相が公式に参詣できないなどというバカな話があってたまるか。
先に名前を挙げた自民党の政治家たちは、このバカな話を中国の言うがままに実践したわけで、心ある日本人ならば、こういう自分たちの首長を石を持って打たねばならない。
自分たちの祖国の国難に殉じて散華していった人たちの魂の慰霊に対して、よその国から叱られて踝を返すような我が同胞の政治家には、国民の審判が下りて当然である。
自分たちの国家元首が、自分たちの国難に殉じた英霊を参詣しないようであれば、ただちにその職責から引きずり下ろすべきではなかろうか。
国家反逆罪に当たるのではなかろか。
私は個人的には祖国の国難に殉じた御霊には敬意を表するものであるが、この靖国神社と軍国主義の結びつきには非常に懐疑的な思いを抱かざるを得ない。
「靖国神社で会おう」と言って死んでいった若人のことを考えると、意図的にそう仕向けた老練な指揮官、あるいは司令官、あるいは高級参謀の存在を素直には看過できない。
こういう殉国という美名のもとに、若人を死に追いやった指揮官等も、戦闘で死ねば同じようのその御霊はここに慰霊されるであろうが、死に追いやられたものと追いやったものが同じところに同じ価値観で慰霊されるというのはどうにも不可解な思いがする。
靖国神社にはA級戦犯が合祀されているから、ここに参詣することはあの戦争を肯定することになる、という論理は私の見解としては納得するものではないが、ここに祀られている英霊の中には、名実ともに勇猛果敢に戦場で倒れた人ばかりではなく、名実ともに非業の死を遂げた方も多いのではないかと思う。
戦場で敵の弾に当たって名誉の戦死をされた方は実に幸運だと思うが、ここに祀られている方々の中にはそういう幸運な方ばかりではなく、補給が途絶えて戦う前に力尽きて落命された方々も大勢いると思う。
その事を思うと私のような戦後世代の者は素直で純な気持ちにはなれない。
この本の著者はA級戦犯という言葉に抵抗感をあらわにしているが、言葉はともかくとして、死に追いやったものと、追いやられて死んだ者が、同じ場所で会するというのはやはり私としては違和感をぬぐえない。
A級戦犯が、戦争犯罪という罪を犯した犯罪者であるかないかという問題とも関連して、彼らは当時の日本の実質の指導者であり、戦争遂行の実践者であったことは確かで、勝った側がそういう人たちを懲罰するのは人間の感情としてごくありきたりのことだと思う。
ならばここに祀られている英霊たちは、彼らを戦場に送り込んだ自分たちの指導者を、同じ戦場で散った同胞として迎え入れるであろうか。
戦争は国難なのだから、立場は違っても仕方がないと大きな包容力でそれを容認することができるであろうか。
このあたりのことを考えると私としても複雑な心境になるが、要は、あの戦争の総括を日本人自身がしようとしていないので、一つの国難として日本国民の上も下もなく、皆同じ試練を同じようにこうむったわけだがから、全ての国民が平等という意味で帳消しにしたことにあると思う。
ただ勝った側のアメリカにしてみれば、靖国神社というのは、日本民族の敢闘精神の淵源だと思っていたので、この根本を絶つという意義は大いにあったに違いない。
これが存在する限り日本人は再び力を持ち返した暁には再度アメリカに挑戦してくるかも知れないという心配は拭い去れないものがあったと思う。
先に述べたように、自民党の政治家が中国から「靖国神社に参詣するな」と脅されて、震え上がった情けない同胞もさることながら、中国にそう教え込んだ我が同胞のことは、どう考えたら良いのであろう。
私流の言い方をすると、中国の国益に貢献する我が日本人という言い方になるが、こういう日本人は中国から表彰でもされるのであろうか。
20世紀後半から21世紀に掛けては地球はグローバル化して、どこでも大体好きな所にほぼ自由に行ける。
ビジネスでも観光でも、ほとんど自由に行き来できるので、個人的には自分の国籍がどこであろうとも関係なく移動乃至は他の活動ができるわけで、あまり自分の祖国という概念は必要ない。
自分の祖国という概念が喪失すれば、それに伴って国益という概念もきわめて価値が薄れてしまうので、政治家としても国益などという古典的な概念を恥も外聞もなくかなぐり捨てて、なんら恥じるところがないということなのであろう。
人間は、自分の祖国の恩恵に浴して生かされている、という受動的な感謝の気持ちではなく、自分は統治者や為政者という体制に抵抗して、自らの意思で生きているのだ、と思い上がった思考に嵌まり込んで、他者の存在を否定して生きているのだろうか。
確かに、この靖国神社に眠っている英霊の生前の大活躍があったからこそ、西洋列強は日本の存在に一目置かざるを得ず、日本を徒や疎かに扱えないという思いで、日本の占領政策が一段と熾烈になったということは言えるかもしれない。
ここに眠っている英霊の活躍については、我々の同胞よりも日本以外の人々の方が、その真価を正当に評価している。
どうして我々は同胞の活躍を正当に評価することに尻込みをして、躊躇するのであろう。
そこには我が民族の根本的な民族習俗としての精神的な特徴があるものと思う。
それは我々の民族の無責任性ではないかと思う。
我々は太古から「万機公論に決すべし」ということに価値を認め、あらゆる決定事項を合議制で執り行ってきたが、この合議制、万機公論的に議論して物事を決定するということは、責任の所在については全く曖昧模糊としているわけで、合議して決めた以上責任は全員に分散してしまう。
よって、「誰それの責任だ」ということは成り立たない。
中国から脅されて素直に言うことを聞いたとして、誰も直接的な損害を被ったわけではなく、メデイアが中国の国益に奉仕したとしても、その事によって日本が損をしたという歴然たる証拠は上がらないわけで、目に見える損害は何処にもないので、自分たちのしたことの売国奴的な行為の意味に無頓着である。
まさしく精神がグローバル化しているわけで、自らの民族のアイデンテイテーについても全く自覚しておらず、宇宙人のような気分になっているということなのであろう。
主権国家の国民、特に若い世代がこういう無国籍人の集合だとすると、もう主権国家そのものが成り立たなくなると思う。
先に述べた自民党の総理経験者たちでさえも、自分の祖国のアイデンテイテーを意識することなく、ただただ相手の言うなりになっている見下げた国家元首であるとするならば、その下の国民がそれ以上に高い見識と誇りと名誉を重んずるなどということはあり得ない。
私がこきおろした自民党の政治家たちも、基本的には先の大戦の生き残りの人たちであるので、彼らこそ大戦の悲劇を身をもって体験しており、PTSDの度合いもより大きく、中国との脅威を肌身で感じているのかもしれない。
そのことは同時に日本という国に見切りをつけたということかも知れない。
だとすれば、ごく自然に国家そのものが衰退化するのも、水の流れを見るごとく当然のことであろう。
繁栄の頂上まで登りつめれば、後は下降線をたどるのも自然界の摂理なわけで、そう驚くことはないが、誇りを失った人間は、もう生きている価値はないと思う。
この本の中には東京裁判史観という言葉がしばしば出てくるが、あの戦争を生き残った我々の同胞が、何故に勝利者の価値観をそう安易に受け入れたのであろう。
生きた人間は、自分自身が生きんがために精神を売るということも十分にありうることではあるが、それは緊急避難的な処世の術であって、占領を解かれた暁には、従来の民族の本質の価値観に一刻も早く復帰するのが、これまた自然の摂理ではなかろうか。
我々は、占領を解かれ独立を回復し、自主的に独り立ちの機会を得られたにもかかわらず、何故に占領期の戦後民主主義から脱却しようとしなかったのであろう。
あの戦争で我々は200万人以上の同胞をなくし、都市は大部分が灰燼と化し、国民は筆舌に尽くしがたい苦難を背負いこんだことは事実であるが、これも国際社会で生きるか死ぬか、食うか食われるかの生存競争の結果であって、正義だとか不正義だとか、善悪、善し悪しという価値感を超越したものである。
その現実に目をつぶり理想を追い求めるドンキホーテを演じている愚に思いが至らない。
人は名誉や誇りでは生きていけないわけで、中国から叱られて素直に謝るということは、名誉や誇りをかなぐり捨てたわけだが、ここで大和魂を持ち出して、名誉と誇りを粋がって吹聴してみたところで、中国にある日本企業を接収すると言われたら身も蓋もないわけで、それがあるからこそ自民党の政治家も叱られっぱなしで項垂れているのである。
その部分が国益と言えば国益であるが、それを克服するには言葉の戦いしかあり得ない。
外交交渉しかあり得ないが、この外交がこれまた我々は実に下手で、どうしても我々は国際社会を上手に泳ぐということができない。
荒野のガンマンに成り切れない。