ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「官僚亡国」

2011-07-13 06:33:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「官僚亡国」という本を読んだ。
サブタイトルには「軍部と霞が関エリート、失敗の本質」となっていた。
著者は保阪正康氏。
標題から全編、官僚の悪口が書かれているかと思ったら、最初の一編だけで、後は官僚とは別の旧日本軍への批判となっていた。
旧日本軍の高級将校、高級参謀も、突き詰めれば官僚といえるので、その意味では標題の真意が貫かれているとも言えないこともない。
そもそも官僚というものは、為政者の意を汲んで統治を肩代わりする存在であろうと思う。
言い換えれば、彼らは統治者の側に身をすり寄せるべきが本来の姿ではないかと思うが、近代の主権国家では、統治者と国民の間に在って、双方の利害を調整すべき存在ではないかと思う。
統治する側とされる側という区分わけをしたとき、統治される側が心安らかな生活が営める治世であるとするならば、それは統治する側もされる側も双方ともに満足できるが、それはやはり人の世の常として、そういう理想的な治世というのは容易には実現できない。
どちらか一方に不平不満が偏るのも致し方ない。
統治する側としては有能な官吏、つまり統治する側にとって都合のいい官吏を獲得したい、と願うのは当然のことであって、自分の都合の良い尺度で以て人選をするのも当然の帰結である。
この時、自分にとって都合の良い尺度というのは、必ずしも縁故採用が優れているとは限らないわけで、公明正大な試験を課して、公正中立な視点から人選をするという方法は、極めて民主的な手法のように見える。
官吏を人選する手法としては、公明正大なペーパー・チェックを課すというのは優れているが、問題は、それで選抜された側の倫理観に在る。
古代中国の科挙の制度は、そういう試験の篩を通過した人士は、官吏としての在籍中に私腹を肥やす事も大いに認められていたわけで、既定の手当ての他に、自己の才覚で私腹を肥やす事は、その人の能力の一部とみなされていた。
これは我々の感覚でいえば贈収賄であり、袖の下であるが、それが中国の文化であり、固有の文化であるからには、日本人の感覚で「あれは悪弊だ!」ということは相手に対して失礼に当たる。
ところが、日本人の感覚からすると、難しいペーパー・チェックをクリアして任官した官吏・官僚は、下々から贈収賄を受けたり、袖の下を受けるとは何事だ、公僕に徹すべきだ、という感覚に映る。
中国の文化と日本人の文化は根底から違っているわけで、我々の感覚からすれば、日本の官僚は、法律で定められて俸給以外に金品を受けとってはならないという認識である。
我々のような一般庶民から官僚を眺めた時、昔ならば高等文官試験、今ならば国家公務員試験1種をパスするような人は、まさしく後光の射した金品卑しからぬ学識経験豊富な雲上人のように見えるが、中味は同じ人間なわけで、その心の内も我々同様、卑しさの塊であったとしても何ら不思議ではない。
そもそも人の心の内はペーパー・チェックでは計り切れないことはいうまでもない。
為政者の意を汲んで国民を治めている官僚だからこそ、最初から恵まれた俸給が支給されているわけで、官僚が人として生きていく分には、何不自由なく暮らせると思うが、そこは人の子、金はいくらあっても邪魔にはならないわけで、金銭欲というのは尽きるところが無い。
だから、十分に報酬はもらっているにもかかわらず、ついつい収賄や袖の下に手が出てしまうのだろうけれど、それは個々の人間の本質的な欲望なわけで、その欲望に負けるか負けないかが、その人の倫理観の境目になるのである。
充分に満足できる報酬を得ながら、それでもなお私腹を肥したいという人間は、その人の持って生まれた性癖が元々卑しいわけで、その卑しい性癖は先祖代々遺伝するものであり、今の言葉でいえばそれぞれの個人にDNAとして刷り込まれているといえる。
しかし、それは外見からは決して判別できないわけで、事前に選別することは不可能である。
問題は、そういう人でもたった一回のペーパーチ・ェックをクリアーすれば、後は何の篩も掛けられないまま、倫理観の正常な人と同一の条件下で立身出世が出来るということである。
こういう職域、つまり統治者の意向を汲んで統治されるものとの橋渡しをすべく、国家公務員を目指し、天下国家に貢献するという立派な口上を述べて応募して来る輩は、基本的に口舌の徒であって、本音の部分ではそんな殊勝な心の根で集ってきているわけではない。
官吏に応募して来るという人間は、その応募するという時点で、楽して私欲を肥やし、労せず立身出世をする気で来ているので、応募の時点で既にその心が邪なわけであるが、そういう人に限って、自分の本音を上手にカモフラージュするので、誰もその人の下心には気がつかないのである。
日本で国家公務員を目指すということはそういうことだと思う。
主権国家の行政は、単純な独裁的なシステムではないわけで、幾層にもシステム化された階層があって、トータルとして主権国家が主権国家として機能している。
よって、彼らの報酬、収入というのは、そう多くはないのが普通である。それは当然のことだ。
その国の国民が納めた税金の中から、その国の行政サービスに携わった人にペイするのだから、そう多くないのは当然である。
給料はそう多くはないが、行政サービスというのは誰かがしなければならない仕事であって、その誰かがしなければならない仕事を自分がしているのだという誇りで、彼らは仕事をしていると想像する。
こういう信念であれば、公僕という言葉が一番ぴったり合うが、高級官僚と言われる人々は、そうではないと思う。
そもそも国家の行政サービスの階梯の上の方に自分の身を置くことを狙って、それを志願して来るという根性が卑しい。
その本音の卑しさをカモフラージュするために、「国家に尽くす」だとか、「奉仕の精神だ」とか、「国に殉ずる」などという綺麗な言葉で誤魔化そうとしているが、その言葉の裏にある本音の部分が非常に汚い。
金が欲しければ素直に実業界に身を投ずればいいし、地位・権力が欲しければ素直に政治家になれば良いわけで、そういう気持ちをストレートに表明するには、自分の出自の卑しさが邪魔するわけで、そういう人の倫理観の欠如は個人の資質によるものではなく、その家系のDNAとして引きつがれていると思う。
昔の高等文官試験、今の国家公務員1級試験をクリアーしようと思えば、引き籠りや、登校拒否をするような落ちこぼれの者ではありえないわけで、当然のこと、優秀な大学を優秀な成績で卒業する実力が無いことにはそれは成り立たないである。
ところが優秀な大学で優秀な教育をいくら受けたところで、先祖代々引きついできたDNA、つまり卑しい心根、倫理観の欠落というのは教育では補填することが出来ない。
ペーパー・チェックはその人の持つ心の卑しさは選別できず、点数のみ既定の値をクリアーしておれば、味噌も糞も一緒くたに扱われるということである。
味噌も糞も一緒くたにすることが究極の民主化でもあるわけで、昨今では人を採用する時に出自は勿論、身元調査、身上調査すら御法度となっているので、高級官僚のみならず、民間の優良企業でも不祥事が後を絶たないのである。
そもそも人が人を管理している限り、官僚のみならず、あらゆる組織で人心の乱れ、綱紀の緩み、モラルの低下ということはついて回るので、官僚のみの問題ではない。
この本は題名は「官僚亡国」となっているので、今の日本の官僚の問題であるかのような印象を受けるが、実質は旧日本軍の高級将校、高級参謀を官僚と見立てて糾弾している。
それは私の眼から見ても当然のことで、日本の敗因は、旧日本軍の高級将校、高級参謀が、その全てが見事に官僚化してしまっていたからこそ、あのような惨めな敗北を期したものと考えている。
あの時代、当時の日本軍の高級将校、高級参謀は、自分が軍人であることを忘れてしまって、官僚になり変わってしまっていたので、戦争そのものを知らなかったといえる。
あの戦争を振り返ってみても、私個人は戦争の素人、軍事教育を受けたことがないズブの素人であるが、あの真珠湾攻撃を見て、「その後どうするのだ?」ということを誰も考えていなかった、という事をどういう風に考えたらいいのであろう。
いよいよ敗北が目に前に迫って来たとき、昭和天皇がポツダム宣言を受諾する決意を固められたが、沖縄が落ち、東京が焼け野原になり、広島・長崎に原爆が落ち、ソ連が参戦して来た、という状況の中で、尚、徹底抗戦を唱える我々の同胞の軍人の存在を、どういう風に考えたらいいのであろう。
陸軍の青年将校クラスの単なる思い込みぐらいならば、まだ理解の枠内に収まるが、東條元首相までがそういう認識であったというに至っては、空いた口が塞がらないではないか。
私は個人的には、東條英機という人は悲劇の人で、運が悪い人ではなかったかと思っていたが、自分が首相をおりた後で、ポツダム宣言受諾の決定がなされたことに切歯扼腕して悔しがっていたと記されているのを見て、彼の評価が全部ひっくり返ってしまった。
世間では東條英機の評価があまりにも悪いので、何処かに美点の一つもあるのではないか、と彼を擁護する思いでいたが、やはり世間の目は正しかったということになってしまった。
開戦の時には、「開戦を阻止出来なかった」と一人涙を流したともいわれているが、その同じ人が何故に戦争継続、徹底抗戦を願うなどという現状認識に陥ったのであろう。
自分の目の前の現状、焼け野原の東京の姿を見ただけでも、これ以上の抗戦が如何に無意味か、ということが分からないということは一体どういうことなのだろう。
これと同じ心境の人は彼だけではなく阿南惟幾や梅津美冶郎クラスでも心情的にこれに最も近いわけで、あの時期の戦争指導者、軍の要職の人たちは、全て東條英機と似たり寄ったりの信条であった。
問題はここにあるわけで、あの時代の戦争指導者の考え方は一体どうなっていたのか、ということが最大の謎である。
参謀本部だとか、軍令部というような戦争の中枢にいた軍人のものの考え方は、一体どうなっていたのであろう。
こういうセクションに配属された人たちは、それこそエリート中のエリートであったはずなのに、彼らのする事は、まるでバカで頓珍漢なことばかりだ、ということは一体何がどうなっていたのだろう。
あの焼け野原の東京の街中に立って、それでもなお戦争を続けよう、本土決戦をしようという発想は、一体どこから出てくるのであろう。
昭和20年8月の時点で、あの時の戦争指導者は、もう既に戦争の勝敗を度外視して、ただただ自己の面子のみで戦争継続を唱え、もしそれを遂行すれば、結果としてどういう状況を呈するか、ということまで知恵というか、考えというか、先の見通しを持っていないということに他ならない。
この時の日本の戦争指導者の人たちは、もう既にこの時点に来るまでに、作戦の勝敗を度外視しており、ただただ自己の面子で、無理を承知で無意味な戦争を推し進めて来たわけで、その集大成として日本の敗北という結果になったものと考えられる。
ここで注意しなければならないことは、こういう戦争指導者にとって、誰の為の戦争か、日本の将兵は誰の為に戦っているのか、天皇陛下はこういう戦争を本当に望んでいるであろうか、という配慮が全く存在していないということである。
あの天皇制の軍国主義の元で、真に天皇の為の戦争であるとするならば、とてもあんな無意味でバカげた作戦はあえない。
天皇に対する忠心があるとするならば、作戦の失敗はただの失敗では済まされず、天皇の赤子を無駄に死なせた、という意味からも天皇に対して詫びねばならないはずである。
作戦に失敗した司令官に起死回生のチャンスを与えるなどありえぬ話であるが、戦争指導者にとってあの戦争が天皇の為の戦争ではなく、自分達の戦争であったが故に、ゲームをリセットするなどというバカな話が成り立っていたのである。
先にも述べたように、こういう高級官僚は基本的に優秀な人間が優秀な教育を受けて特別な環境で純粋培養されるので、広範な判断能力に欠け、井戸の中の蛙的思考、葦の髄から天覗く式発想に至ったということだと思う。
こういう戦争指導者にとっては、国民、市民、民衆、有象無象の輩、臣下、臣民、赤子というものの存在は意に介していないわけで、まるで家畜並みの存在で、彼らの為に自分が国益を擁護しているのだ、という自覚はさらさらない。
昭和20年8月15日の東京の街中に立ってみれば、これ以上の戦争継続が如何に無意味かということは自ずとわかると思う。
普通の家庭に普通に育った普通の大人ならば、普通に理解できたと思うが、当時の軍の一部から戦争指導者の中には、それが解らない人がいたということを今どう考えたらいいのであろう。
こういう戦争指導者から、戦うことを強要されていたとしたら、勝てる戦争でも勝てなくなるのも当然であろうと思う。
官僚というのは、政府の統治を代行するシステムであって、民主国家、いわゆる近代国家の政府というのは、国民の至福を追求することが政府、あるいは統治者の存在意義であったと考える。
統治するものとされるものの間に在って、その両者の関係調整をするのが本来の官僚の使命の筈で、政府も官僚も基本的には国民の至福を目指すものでなければならない。
戦前の日本においては、軍人がこの政府や官僚機構の中に入り込むことによって、つまり戦争を推し進め、それに勝利することで、日本国民の至福の追求に応えるつもりでいた。
ところが政府や官僚機構を占拠した軍人たちがあまりにも無能・無知であったが故に、日本は奈落の底に突き落とされ、東京は焼け野原と化し、広島・長崎には原爆が落ち、ソ連は落ち目の日本を見て水に落ちた犬を叩かんと参戦して来たのである。
その無能・無知の具体的な例が、この期に及んでも尚徹底抗戦を主張する政府要人の存在である。
戦後は、政府要人に軍人が参入することはなくなったが、軍人がいないのでそれだけモラルが向上したかといえば、やはりそういった部分ではモラルの向上はあり得ない。
その事は、その人の持つ基本的な道徳観の問題であって、個々の人間が生まれつき身に備えている性癖であって、職業や、受けた教育や、置かれた環境によっては是正されるものではない。
品行方正な特質は、その人が持って生まれた特質であって、モラルを順守できない人は、それこそ先祖代々心卑しき出自ということを実証していると思う。
今の日本の高級官僚は、須らく国家公務員試験1種をクリアーして、現在の地位を得ていると思うが、試験をクリアーした時点で、既に将来の生活設計も成り立っているわけで、それでも尚天下り先を勘案しつつ、業務を執り行うという姑息な生き方を納税者としてどう考えたらいいのであろう。
これも、戦前の軍官僚が天皇陛下のことや、国民のことや、銃後の人々のことを何も考えず、自分達の面子のみで、やみくもに戦争を推し進めた構図と瓜二つではないか。
そもそも昔の海兵や陸士、あるいは高文試験や国家公務員試験一種をクリアーできる人は、学校秀才なわけで、学科試験では極めて優秀な成績を修めることが出来るので、その分、先見の明も立ち、先の読みも確実で、身の処し方にもそつがなく、悪事にも巧妙に対処できる知恵と狡猾さを兼ね備えている。
無いのは道徳観のみで、モラルの欠如だけが彼らの欠点である。
彼らのこういう特質が国益の擁護に向かえば日本の為に非常に心強いが、惜しむらくはそういう才覚が本人の私利私欲に向かってしまうところがまことに残念である。
日本には大学と称する大人の遊園地が掃いて捨てるほどあって、この遊園地も表向きは高等教育の場となっているが、実質は遊園地そのもので、高等教育とは程遠いが、それでも一応は教育機関である。
こういう教育機関が掃いて捨てる程あるのに、モラルや道徳を教える学校が一つもないということは一体どういうことなのであろう。
そもそもモラルや道徳を学校で教えるという発想から間違っており、そういうものは全て家庭で教え、躾けるべきことであるが、日本人はそれぞれの家庭でそれをして来なかった。
それを教えるべき大人が、最初からモラルを欠き、道徳観、あるいは倫理観が無いのだから、そういう両親もとで生育した青少年が立派になるわけが無い。


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