ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「人間通の勘どころ」

2007-10-10 08:22:11 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「人間通の勘どころ」という本を読んだ。
筆者は谷沢永一氏。
口述筆記のような文体であったが、最初から最後まで自慢話であった。
幼少のときの劣等生であったことまでが自慢の種になっている。
若かりし頃、左翼にかぶれ、その左翼としてのアジテーターとしての素養を生涯にわたって持ち続けていたような生き様だ。
昭和4年生まれということだから、昭和という時代と共に生き続けてきたことはよく理解できるが、それは戦後の日本の復興とも足並みを揃えているということでもある。
そのことを大きく敷衍的な視点で見ると、幼少の頃共産主義にかぶれ、それが戦後の民主化の波に翻弄され、便乗することの不条理や矛盾を身をもって体験した戦後の知識人の典型的な例でもある。
幼少のころ共産主義に被れたというのは、ある意味ではハシカのようなもので、若い頃に多少知識があり、利発な人ならば誰でもそれに罹かり、その洗礼を受けたということはある意味で納得できる。
問題は、彼の自慢話の中に、この共産主義の闘争の仕方というものが彼の生涯を律していたということである。
最近、「暴力団に学ぶ交渉術」(間違っているかも知れない)という本が出たが、まさしくあれと同じレベルのことで、彼は自慢話の中で、その共産主義的闘争術をそうとは気付かずに語っている。
ところが、この無意識の行為は極めて恐ろしいことだと思う。
彼はそのことに無意識で、無意識だからこそ、その基底のものの考え方が共産主義に依拠しているということに気がついていない点が空恐ろしい。
考えてみれば、一人の人間が中学、高校、大学初期という段階で、ある特定の思考に傾倒してしまったともなれば、それはその後の精神的成熟の中で大きな影響力、ある種の刷り込みとして生涯にわたって残ると考えるのが常識ではなかろうか。
だから後に関西大学の中に身を置いたとしても、自分では先頭に立たず、その後ろに控えたフィクサーとして厳然たる力を行使したと自慢している。
この本は、成功した中小企業のオッサンが、自慢話を羅列した自伝を書いたのと同じレベルのものでしかない。
中小企業のオッサンが、正業で成功し、それで名を上げ、金を儲けて自伝を書いたとしたら、実に可愛いものであるが、大学教授などというものはまさしく虚業の最たるもので、人間の生き様としてこれほど卑俗的なものも他にないと思う。
ご幼少の頃いくら頭が良くて難しい本を読み漁ったとしても、行き着いた先が大学教授では、その低俗さは押して知るべしである。
戦後の大学というのは、国立、私立を問わず、もう完全に「学問の府」ではない。
就職予備校に徹し切っていたではないか。
この自慢話の中では、関西大学の内情が暴露されているが、大学の中身などは大体その程度のものであろう。
人が集まって作っている組織には、内部抗争あるいは権力闘争はつきもので、有るのが普通だと思うが、大学というのは、普通は、知識集団とみなされ、並の人間以上の人の集まりと思われているわけで、それが普通の人と同じことをしているでは低俗と言われても仕方ないではないか。
惜しむらくは、大学という場が、虚業であるという点に尽きる。
本来、人のためにある職業というのは徒弟制度でなければならないと思う。
お医者さん、弁護士、その他専門知識を要する様々な職業は徒弟制度でなければならないと思う。
大学で教育を受け、試験に合格したからそれで事足りると思ってはならないはずだ。
そういう職業は、基本的に人間としての倫理が問われる職業のはずで、大学というところは倫理というものを一切問題にしない稀有な場所で、そんなところを通過して来たからと言って、本人の倫理観まで信用できるものではない。
そもそも私立大学というのは明らかに利潤追求に汲々する民間企業なわけで、学生というお客に卒業証書を売りつける商売のはずである。
谷沢氏は、その企業の内幕を暴露しつつ、その中で自分が如何に活躍したかを自慢たらしく述べているに過ぎない。
生きた人間にとって、学問というものは無いよりは有ったほうが良いに決まっている。
だからといって誰でも彼でもが4年間無駄な青春を費やす必要はない。
勉強の好きなものは好きなだけ行けばいい。
好奇心の旺盛なものは納得するまで行けばいい。
しかし、勉強の嫌いなものまでが、「人が行くから俺も行く」というレベルならば、そんなものはさっさと止めて自分の納得のいく生き方を選択すればいい。
それをそうさせていないのは、いわゆる世間というものである。
その筆頭に日本の企業がある。産業界がある。経済界がある。官界がある。
自社の人材は、新人のときからの自社の気風という型に嵌めようとする企業側の意図である。
この世に生まれてきたものは、基本的に、あるいは潜在意識として、上昇志向を持って生まれてくる。今よりも少しでも上に昇ろう、上がりたい、上昇しよう、したいという願望を持っているはずである。
学歴は、そのための一つの手掛かりなわけで、その手掛かりが欲しいために、猫も杓子も大学に群がるが、そこに目をつけて金儲け、いわゆるビジネスチャンスとして私立大学が乱立するのである。
金儲け、利潤追求に走っている大学が「象牙の塔」足りうるわけがないではないか。
それに、文学などというものが何故に学問足りうるのか不思議でならない。
日本近代文学。冗談ではない。
小説などというものに、あれこれ屁理屈を並べて、それが学問などとチャンチャラおかしいではないか。
小説などというものは、所詮は、売らんがための売文に過ぎないではないか。
大衆が身銭を払って買うように、買わしめるように、如何に財布を開かせるか、と作者は知恵を絞り、それに輪をかけて、出版社も一冊でも多く売るには如何なる体裁がいいかまで知恵を絞るわけで、そんなものが何故に学問の対象になるのだ。
究極の金儲けではないか。
売文に屁理屈をつけて錬金術をこねくりまわしている図ではないか。
魚屋が魚を売るように、八百屋が野菜を売るように、菓子屋が駄菓子を売るのとなんら変わるものではないではないか。
魚屋も、八百屋も、菓子屋も、これはれっきとした正業である。
これと比較して、私立大学、特に文系の学科が、如何に虚業かは一目瞭然ではないか。
4年間も高い授業料をむしりとって、最後に如何にももったいぶって卒業証書を授けて、金儲けさせて貰った礼を言うでもなく、権威を振り回しているではないか。
この虚構を甘受している側にも責任がある。
それには当然、当の学生も、その親も、世間も、企業も、すべてが大学という権威に盲従しているわけで、言い方を変えれば。日本全体が大学という虚像を盲信しているということである。
戦後の60年以上にわたる民主化の中、民主主義の中においても、我々は個人の価値というものを全く信用していないということである。
戦後の民主主義の中で、人権という意識はそれなりに醸成されたが、この人権もたった一人の個人の意思を尊重するという気風にはいまだに仕上がっていない。
それを個人の我侭と勘違いして憚らない。
個人という意識が最初から欠落しているので、われわれはその個人の意思を集大成して徒党を組まないことには何もできないので、いわゆる連れション現象がおきるのである。
こういう環境の中で、矢沢永一氏の習得した共産主義的闘争術というのは、彼が自慢するだけの効果があったことは認めざるを得ないであろう。


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2 コメント

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痛快哉放言也 (三太)
2007-10-12 21:13:52
私は本を読まない、いや読む暇が無いのです、貴方は金は無いが暇は腐るほどあると言われるが私は金も暇も無いのである、有るのは借金と毎日の仕事ぐらいです。歳は私は貴方より一つ上ですが痛快な無責任放言にはおもわず納得した次第です、時々読ませて頂きます。
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犬の遠吠え (Minesan)
2007-10-13 08:10:48
三太 様
お目にとまって幸甚です。
世の中、右を見ても左を見ても真っ暗闇じゃございませんか!
犬の遠吠えのように、悪口雑言を吐いて、ストレスを発散させないことには、息が詰まりそうです。
年金生活者のか弱き抵抗の証だと思ってお笑い下さい。
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