例によって図書館から借りてきた本で、「海賊の掟」という本を読んだ。
「海賊の掟」などという題名を目にすると何となく少年のころ読んだ冒険物語を想像してしまう。
しかし、この本は海の安全を願う真面目な本であった。
海賊というものは一言で行ってしまえば人間の生誕とともにあり、人間が船を利用するようになると同時に生まれ、それが21世紀の今日まで生き残っているということである。
別の言い方をすれば、人間は体制と反体制のどちらかで生きているわけで、きちんとした政治システムの中で統治されつつ生きている人と、そういう統治の枠に入り切らずに生きている人たち、というように2種類の人間が生存するということだと思う。
体制の枠の中で生きている人は、それなりにおとなしく素直な人たちなのであろうが、枠の外で生きている人たちは、既存の秩序という束縛に絡められることが性に合わないわけで、唯我独尊的に好き勝手に生きているということであろう。
しかし、秩序を尊重して生きている人からすると、そういう人たちの存在は大迷惑ということになる。
にもかかわらず、人間の生き様という視点からすれば、秩序の順守ということは人々が無駄に思い患うことのないようにミニマムのルールを編み出した結果であって、その枠の中でルールを守って生きている限り、トラブルを最小限にできるというある種の工夫に過ぎず、同時に相互扶助でもある。
ところが、この枠の外で生きようとすれば、すべてのことが自己責任に直結しているわけで、文字通り弱肉強食の世界に直接的に身を曝すということである。
昔は統治の機能が不十分であり不完全であったので、その規制の網を掻い潜ることも可能であったが、昨今ではそういうことも非常に困難になってきたので、通常の秩序の枠の外で生きるということは、かなり難しくなってきた。
よって現代の海賊は普通の街の犯罪者と同じ感覚で見られるようになってきていると思う。
海賊行為が犯罪だという認識も相当に新しい認識であって、人間が誕生以来犯してきた犯罪の中で海の上で行われる行為のみが海賊という範疇で語られる。
普通の陸地で行われる犯罪行為は、山賊であったり夜盗であったり、盗賊であったりと、これも人類誕生の時から同じように繰り返されてきた。
海賊にしろ、山賊にしろ、そういう行為が犯罪として非難される根本原因は、そういう行為が既存の秩序に反し、統治のルールに反し、平和に暮らしている人々の人心を混乱に貶めるから、為政者から糾弾されるのである。
しかし、自分のしている行為が他者にいかなる影響を及ぼそうとも、自分自身は生き延びねばならないわけで、自己保存のために選択する手段が、合法的かどうかは実行者には関係の無いことに違いない。
実行者にとっては、自分のしている行為が合法的であろうが無かろうが、自分自身が生き延びねばならないわけで、その意味で生きんがための海賊であり山賊であるということになる。
この本の出だしも、ソマリア沖の海賊の話から展開しているが、ソマリアでもマラッカ海峡の海賊でも、その海賊の出る背景には貧困があると述べているが、普通に聞けばもっともな話に聞こえる。
大昔から、海賊や山賊が出る背景には貧困があることは自然の流れであるが、そもそも貧困とは何であるか、という定義から始めなければならないと思う。
アメリカをはじめとするヨーロッパ系の先進国は、ある日いきなり突然変異で文化的な先進国になったわけではない。
こういう先進国も、あるいは我々日本民族も、ソマリアの人々と同じ、あるいはマラッカ海峡のインドネシア側の人々と同じ時間、つまり同じ長さの歴史を持っていることを忘れてはならない。
人類誕生の時から数えて、全く同じ時間経過を共有しているわけで、ヨーロッパや日本だけが時間的に先に進んだわけではない。
歴史的な時間の経過という意味では、地球上に住む人類は皆同じ歴史を共有しているわけで、皆同じ時間を天の盟主から戴いているのに、文化的に大きな格差が生じるということをどう考えるべきなのであろう。
21世紀にいたってもソマリア沿岸の人々は貧乏なので海賊をする、マラッカ海峡のインドネシア側の人々も貧乏なので海賊行為に走る、だからこの地球上から貧乏を無くせという論理は、あまりにも荒唐無稽だと思う。
同じ時間を共有しながら、方一方は先進国になり、もう一方は先進国になりきれず海賊をしなければ生きれない、という現実がどうして生まれたのか考えるべきではなかろうか?
こういう人々は、基本的に近代的な市民感覚を持ち合わせておらず、だからこそ倫理的にも、近代あるいは現代の社会的なルールを無視し続けるわけで、ただただ人間の形をした動物に過ぎない。
ところが、世界の中の先進的な進歩的知識人といわれる人々は、人権意識を振り回して、こういう人たちも我々と同じ価値観を持った人間として扱うことに固執している。
そういう扱いは、確かに人間の善意に満ちた気高い思考であるが、これはこれで自己満足に嵌っているわけで、彼らに対してドル紙幣をバラまけば、貧困に伴うトラブルが解消されるかとなると、そう安易に解決されるものではない。
前にも述べたように、こういう人たちは倫理の枠、秩序の枠の外側で生きており、統治の枠外で生きているので言って聞かせれば治るというものではない。
彼らにしてみれば、それをしなければ生きておれないわけで、それでは真面目に秩序を守り、法に従って動いているありきたりの人々はたまったものではない。
この本を読んでみると、地球上の数ある為政者の中には、こういう海賊を手なずけて自国の富の蓄積に利用しようとした例もあるわけで、基本的に富の収奪には人間の倫理観というのは何の突っ張り棒にもならないということだ。
今流の解りやすい表現で例えれば、国家が海賊を支援してその上前をピンハネしたということになる。
そのことは言い方を変えると、為政者であっても、海賊行為という犯罪性に対して極めて甘い認識しかもっていなかったということに尽きる。
それはそのまま大航海時代の帝国主義による植民地経営の理念に直結しているように思える。
つまり富の収奪のためには如何なる行為をしても許されるという、極めて素朴な富への執着であったものと推察せざるを得ない。
為政者による海賊行為の容認も、植民地経営による富の収奪と同じレベルの意識でしかなかったわけで、海賊行為そのものが忌むべき行為という認識が、まだ醸成されていなかったということなのであろう。
ここで非常に面白い記述に直面した。
それは日本の海賊を述べた部分で、倭寇には偽倭寇があって、朝鮮人や中国人が日本人の身なりをして海賊行為をしていたということであるが、これはそれらの国々が有史以来、日本を食い物にしてきたれっきとした証拠だと思う。
最近の日中あるいは日韓の諸問題、例えば従軍慰安婦問題でも、南京大虐殺の問題でも、彼らは自分たちの言い分のみを声高に叫んで、一方的に言い捲るのみで、こちらの言い分を全く聞こうとしないが、倭寇に関してもそういう面があるということは、はなはだおもしろい点だと思った。
倭寇というのは本来日本の海賊であったが、中国人や朝鮮人が倭寇の振りして海賊行為を行えば、その悪行を日本側に押し付けることが可能で、実に狡猾な手法である。
ソマリアの海岸に住む人や、マラッカ海峡のインドネシア側に住む人々も、我々と同じ時間、同じ歴史を共通しているが、彼らが何ゆえに今日に至るまで貧困にさいなまれているのか考えるべきだと思う。
それは彼ら歴史の中にこそ、その理由が潜んでいるわけで、人々がその地で生き続けるということは、何代も何代もその地で生きてきたわけで、その人々の歴史の中にはその地に住む人々の考え方そのものが伝承されていると思う。
その考え方の中に、封建主義的な伝承、伝統、あるいは習慣というようなものが、人々のものの考え方を規定しているようなものがあるとするならば、彼らのものの考え方は進化しないことになる。
地球的な規模で見れば、西洋列強のように進化した地域は、自分たちで新しいものを考え、その新しいものの考え方を実践し、常に古いものの考え方を打ち破るという挑戦をし続けてきたわけで、こういう人々が次から次へと新しいものを取り入れてきた結果として、他よりも抜きんでたわけである。
海賊、山賊、人のものを掠め取らねば生きれない、ということは自ら新しいことに挑戦する勇気を持っていないわけで、何時も何時も人が作ったものを横から掠め取ることしか、彼らの頭脳が働かないわけである。
自分で新しい物の考え方に挑戦せずにおいて、他の者が作り上げ、築き上げ、成果を出しつつあるものを横から掠め取る生き方をしている限り、何時までたっても脱皮できないわけで、それが今のテロの温床になっているのではなかろうか。
ものを作り、それを遠く離れた地域に売り込みに行くということは、実に大変なことで、そういう地道な努力をショートカットしようという発想そのものが、貧乏から脱しきれない根本問題である。
古い考えからの脱出を拒んでいる要因や理由は様々あるのであろうが、その中でも最大のものが恐らく宗教であろう。
宗教の中でも日本の神道以外のものには恐らく教義というような核になる哲学を秘めているはずで、その部分に考え方の柔軟性が欠けていると、その頸木から脱することは難しく、何時までたっても近代化の波に乗り切れないと思う。
思考の奥底では精神の近代化を受け入れないが、日々の生活の中では便利な文明の利器を使うことに躊躇しないわけで、自分が便利だと思えば、その時は迷うことなく宗教の奥義を捨て去り、近代文明の利器を使いこなすわけである。
つまり敬虔なイスラム教徒を自認しながらで、その時々の都合に合わせて宗教の奥義を使い分けているということである。
これが海賊の生き方であると同時に、今世界中を困惑させているテロリストの生き方とも相通じるものがある。
テロリストと海賊の違いは、行為を行う時に大義を掲げるか掲げないかの違いのみで、大義を掲げればそれはテロリストの行為となるだけのことである。
現代の海賊を論ずるとき、どうしても海賊行為をする側にのみ視点が行ってしまうが、その裏側に襲われる船の側にも大きな問題があるようにも思う。
というのは、今の船舶というのは極めて合理的に運用されているわけで、その大きさに比べてその船を運用する人間の数が極めて少ないように思う。
操船のための機器も自動化が進み、少人数で大きな船を動かすことが可能なわけで、乗組員の数も極めて少人数で運用しているはずだ。
こうなると航行中の不慮の事故に際しても対応が十分に回らないわけで、いきなり襲いかかる海賊に対しても手の施しようがないという事態になる。
今の海賊は大きな船で襲いかかるのではなく、小さな船で襲いかかり、火器で乗組員を抑圧し、目的を果たすわけで、事前に小さな船が寄ってくることを察知しさえすれば難を免れると思うが、その時に見張り勤務というのが人手不足で疎かになっているから襲われるのではなかろうか。
近代化ということは合理化との戦いであって、巨大な船を動かすのに少人数で済むということは、海賊にとってみれば獲物はたやすく見つかり、仕事は安易になったということである。
「海賊の掟」などという題名を目にすると何となく少年のころ読んだ冒険物語を想像してしまう。
しかし、この本は海の安全を願う真面目な本であった。
海賊というものは一言で行ってしまえば人間の生誕とともにあり、人間が船を利用するようになると同時に生まれ、それが21世紀の今日まで生き残っているということである。
別の言い方をすれば、人間は体制と反体制のどちらかで生きているわけで、きちんとした政治システムの中で統治されつつ生きている人と、そういう統治の枠に入り切らずに生きている人たち、というように2種類の人間が生存するということだと思う。
体制の枠の中で生きている人は、それなりにおとなしく素直な人たちなのであろうが、枠の外で生きている人たちは、既存の秩序という束縛に絡められることが性に合わないわけで、唯我独尊的に好き勝手に生きているということであろう。
しかし、秩序を尊重して生きている人からすると、そういう人たちの存在は大迷惑ということになる。
にもかかわらず、人間の生き様という視点からすれば、秩序の順守ということは人々が無駄に思い患うことのないようにミニマムのルールを編み出した結果であって、その枠の中でルールを守って生きている限り、トラブルを最小限にできるというある種の工夫に過ぎず、同時に相互扶助でもある。
ところが、この枠の外で生きようとすれば、すべてのことが自己責任に直結しているわけで、文字通り弱肉強食の世界に直接的に身を曝すということである。
昔は統治の機能が不十分であり不完全であったので、その規制の網を掻い潜ることも可能であったが、昨今ではそういうことも非常に困難になってきたので、通常の秩序の枠の外で生きるということは、かなり難しくなってきた。
よって現代の海賊は普通の街の犯罪者と同じ感覚で見られるようになってきていると思う。
海賊行為が犯罪だという認識も相当に新しい認識であって、人間が誕生以来犯してきた犯罪の中で海の上で行われる行為のみが海賊という範疇で語られる。
普通の陸地で行われる犯罪行為は、山賊であったり夜盗であったり、盗賊であったりと、これも人類誕生の時から同じように繰り返されてきた。
海賊にしろ、山賊にしろ、そういう行為が犯罪として非難される根本原因は、そういう行為が既存の秩序に反し、統治のルールに反し、平和に暮らしている人々の人心を混乱に貶めるから、為政者から糾弾されるのである。
しかし、自分のしている行為が他者にいかなる影響を及ぼそうとも、自分自身は生き延びねばならないわけで、自己保存のために選択する手段が、合法的かどうかは実行者には関係の無いことに違いない。
実行者にとっては、自分のしている行為が合法的であろうが無かろうが、自分自身が生き延びねばならないわけで、その意味で生きんがための海賊であり山賊であるということになる。
この本の出だしも、ソマリア沖の海賊の話から展開しているが、ソマリアでもマラッカ海峡の海賊でも、その海賊の出る背景には貧困があると述べているが、普通に聞けばもっともな話に聞こえる。
大昔から、海賊や山賊が出る背景には貧困があることは自然の流れであるが、そもそも貧困とは何であるか、という定義から始めなければならないと思う。
アメリカをはじめとするヨーロッパ系の先進国は、ある日いきなり突然変異で文化的な先進国になったわけではない。
こういう先進国も、あるいは我々日本民族も、ソマリアの人々と同じ、あるいはマラッカ海峡のインドネシア側の人々と同じ時間、つまり同じ長さの歴史を持っていることを忘れてはならない。
人類誕生の時から数えて、全く同じ時間経過を共有しているわけで、ヨーロッパや日本だけが時間的に先に進んだわけではない。
歴史的な時間の経過という意味では、地球上に住む人類は皆同じ歴史を共有しているわけで、皆同じ時間を天の盟主から戴いているのに、文化的に大きな格差が生じるということをどう考えるべきなのであろう。
21世紀にいたってもソマリア沿岸の人々は貧乏なので海賊をする、マラッカ海峡のインドネシア側の人々も貧乏なので海賊行為に走る、だからこの地球上から貧乏を無くせという論理は、あまりにも荒唐無稽だと思う。
同じ時間を共有しながら、方一方は先進国になり、もう一方は先進国になりきれず海賊をしなければ生きれない、という現実がどうして生まれたのか考えるべきではなかろうか?
こういう人々は、基本的に近代的な市民感覚を持ち合わせておらず、だからこそ倫理的にも、近代あるいは現代の社会的なルールを無視し続けるわけで、ただただ人間の形をした動物に過ぎない。
ところが、世界の中の先進的な進歩的知識人といわれる人々は、人権意識を振り回して、こういう人たちも我々と同じ価値観を持った人間として扱うことに固執している。
そういう扱いは、確かに人間の善意に満ちた気高い思考であるが、これはこれで自己満足に嵌っているわけで、彼らに対してドル紙幣をバラまけば、貧困に伴うトラブルが解消されるかとなると、そう安易に解決されるものではない。
前にも述べたように、こういう人たちは倫理の枠、秩序の枠の外側で生きており、統治の枠外で生きているので言って聞かせれば治るというものではない。
彼らにしてみれば、それをしなければ生きておれないわけで、それでは真面目に秩序を守り、法に従って動いているありきたりの人々はたまったものではない。
この本を読んでみると、地球上の数ある為政者の中には、こういう海賊を手なずけて自国の富の蓄積に利用しようとした例もあるわけで、基本的に富の収奪には人間の倫理観というのは何の突っ張り棒にもならないということだ。
今流の解りやすい表現で例えれば、国家が海賊を支援してその上前をピンハネしたということになる。
そのことは言い方を変えると、為政者であっても、海賊行為という犯罪性に対して極めて甘い認識しかもっていなかったということに尽きる。
それはそのまま大航海時代の帝国主義による植民地経営の理念に直結しているように思える。
つまり富の収奪のためには如何なる行為をしても許されるという、極めて素朴な富への執着であったものと推察せざるを得ない。
為政者による海賊行為の容認も、植民地経営による富の収奪と同じレベルの意識でしかなかったわけで、海賊行為そのものが忌むべき行為という認識が、まだ醸成されていなかったということなのであろう。
ここで非常に面白い記述に直面した。
それは日本の海賊を述べた部分で、倭寇には偽倭寇があって、朝鮮人や中国人が日本人の身なりをして海賊行為をしていたということであるが、これはそれらの国々が有史以来、日本を食い物にしてきたれっきとした証拠だと思う。
最近の日中あるいは日韓の諸問題、例えば従軍慰安婦問題でも、南京大虐殺の問題でも、彼らは自分たちの言い分のみを声高に叫んで、一方的に言い捲るのみで、こちらの言い分を全く聞こうとしないが、倭寇に関してもそういう面があるということは、はなはだおもしろい点だと思った。
倭寇というのは本来日本の海賊であったが、中国人や朝鮮人が倭寇の振りして海賊行為を行えば、その悪行を日本側に押し付けることが可能で、実に狡猾な手法である。
ソマリアの海岸に住む人や、マラッカ海峡のインドネシア側に住む人々も、我々と同じ時間、同じ歴史を共通しているが、彼らが何ゆえに今日に至るまで貧困にさいなまれているのか考えるべきだと思う。
それは彼ら歴史の中にこそ、その理由が潜んでいるわけで、人々がその地で生き続けるということは、何代も何代もその地で生きてきたわけで、その人々の歴史の中にはその地に住む人々の考え方そのものが伝承されていると思う。
その考え方の中に、封建主義的な伝承、伝統、あるいは習慣というようなものが、人々のものの考え方を規定しているようなものがあるとするならば、彼らのものの考え方は進化しないことになる。
地球的な規模で見れば、西洋列強のように進化した地域は、自分たちで新しいものを考え、その新しいものの考え方を実践し、常に古いものの考え方を打ち破るという挑戦をし続けてきたわけで、こういう人々が次から次へと新しいものを取り入れてきた結果として、他よりも抜きんでたわけである。
海賊、山賊、人のものを掠め取らねば生きれない、ということは自ら新しいことに挑戦する勇気を持っていないわけで、何時も何時も人が作ったものを横から掠め取ることしか、彼らの頭脳が働かないわけである。
自分で新しい物の考え方に挑戦せずにおいて、他の者が作り上げ、築き上げ、成果を出しつつあるものを横から掠め取る生き方をしている限り、何時までたっても脱皮できないわけで、それが今のテロの温床になっているのではなかろうか。
ものを作り、それを遠く離れた地域に売り込みに行くということは、実に大変なことで、そういう地道な努力をショートカットしようという発想そのものが、貧乏から脱しきれない根本問題である。
古い考えからの脱出を拒んでいる要因や理由は様々あるのであろうが、その中でも最大のものが恐らく宗教であろう。
宗教の中でも日本の神道以外のものには恐らく教義というような核になる哲学を秘めているはずで、その部分に考え方の柔軟性が欠けていると、その頸木から脱することは難しく、何時までたっても近代化の波に乗り切れないと思う。
思考の奥底では精神の近代化を受け入れないが、日々の生活の中では便利な文明の利器を使うことに躊躇しないわけで、自分が便利だと思えば、その時は迷うことなく宗教の奥義を捨て去り、近代文明の利器を使いこなすわけである。
つまり敬虔なイスラム教徒を自認しながらで、その時々の都合に合わせて宗教の奥義を使い分けているということである。
これが海賊の生き方であると同時に、今世界中を困惑させているテロリストの生き方とも相通じるものがある。
テロリストと海賊の違いは、行為を行う時に大義を掲げるか掲げないかの違いのみで、大義を掲げればそれはテロリストの行為となるだけのことである。
現代の海賊を論ずるとき、どうしても海賊行為をする側にのみ視点が行ってしまうが、その裏側に襲われる船の側にも大きな問題があるようにも思う。
というのは、今の船舶というのは極めて合理的に運用されているわけで、その大きさに比べてその船を運用する人間の数が極めて少ないように思う。
操船のための機器も自動化が進み、少人数で大きな船を動かすことが可能なわけで、乗組員の数も極めて少人数で運用しているはずだ。
こうなると航行中の不慮の事故に際しても対応が十分に回らないわけで、いきなり襲いかかる海賊に対しても手の施しようがないという事態になる。
今の海賊は大きな船で襲いかかるのではなく、小さな船で襲いかかり、火器で乗組員を抑圧し、目的を果たすわけで、事前に小さな船が寄ってくることを察知しさえすれば難を免れると思うが、その時に見張り勤務というのが人手不足で疎かになっているから襲われるのではなかろうか。
近代化ということは合理化との戦いであって、巨大な船を動かすのに少人数で済むということは、海賊にとってみれば獲物はたやすく見つかり、仕事は安易になったということである。