波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

セントバーナード、敬遠

2018-11-26 20:30:26 | 超短編




 ヤギの毛皮を着た若者を、路地の犬が追いつめ、吠えている。
 普段は裾を出して着ているシャツ。その上にヤギの毛皮のジャンパーを羽織ったから、シャツが尾のように外に出ている。
 シャツの先端が、尻尾のように見えても、仕方がない。
上に着ているヤギの毛皮が、本物のヤギの匂いを放っているのだから、逃れようがない。
 それにしても、幅の広い尻尾だ。しかしヤギを見たものなど少ないのだから、ましてヤギを見た犬などないに違いない。人間の顔はしていても、匂いだけで怪しいと思われてもやむを得ないだろう。
 一匹だった犬は三匹に増えていた。シャツの裾に咬みつくのも、はじめは咬みついたり放したりしていたのが、放さずに引っ張るようになっていた。三匹にもなると、力を合わせて後方へ引っ張るのだ。若者は奥まった塀の一軒家まで追い詰められていた。このままでは危ない、と若者は感じた。
 彼は木造の塀を拳で叩いて、
「助けてください」
 と叫んだ。
「どなたですか」
 塀の内から婦人の声がした。
「犬に追われています」
 彼は叫びながら、ヤギの毛皮のジャンバーを脱ぎにかかった。上着を自分の体から剥ぎ取ると、塀の内側へ投げ込みながら、叫びつづけた。「この毛皮を着ていると、犬が襲ってきたのです。三匹に追い詰められています」
「奥の木戸に向かって下さい」
 と婦人の声がした。犬は臭の実体がなくなったので、拍子抜けしたような吠え方になった。しかし毛皮を着ていた若者には、毛皮の匂いが色濃く残っている。いぜん追うことをやめない。もうシャツの裾は地面につくくらいに、引き裂かれている。裾を引っ張られるので、シャツのボタンも何個か引きちぎられている。
 木戸を中から叩く音がして、彼はそちらへ身を運んだ。犬を手で追いながらけんめいに木戸へ急いだ。
 ようやく木戸にたどりつくと、内側から人の気配がして、木戸が開いた。犬は逃げる若者を追って、木戸の開いたところへ殺到した。奥の方で婦人の叫び声がした。その声に大型の生きものが飛び込んできた。犬だ。セントバーナード。  彼が確認できたのは、そこまでだった。セントバーナードは、木戸の隙間に向かって、大きな母体をあずけてきた。それに驚き慌てたのは、若者より追って来た三匹の犬たちだった。セントバーナードを一見しただけで、犬は見事に消え去っていた。十秒後には、犬の姿はどこにもなかった。完全に逃亡していた。


 セントバーナードの登場は、若者には衝撃的な出来事だった。真に出来事と言ってよい事件だった。以前犬に興味を持って少しく調べたことがある。セントバーナードは、一番惹きつけられて犬種だったが、図鑑や動画で詳しく見ると、雪中で遭難者を救助したことで有名になり、数々の手柄を立てていた。手柄など一つとしてない若者は、まずそれだけでとても太刀打ちできないと諦めた。
 若者は先程、三匹の犬に追われながら、虎かバッファローの毛皮なら、犬も恐れて逃げていくのではないかと考えた。しかし虎の毛皮を手に入れるには、自分は貧しすぎる。大稼ぎできるアルバイトはないものだろうか、などと頭をひねっていた。彼が所有している毛皮は、兎、狐、テン・・・といった小さなものばかりで、犬が寄り付かず、逃げていくものなど一枚もなかった。
 そんな中で、彼は犬に追い詰められ、塀に囲まれた民家に救いを求めたのだ。そしてあの因縁のセントバーナードに助けられたのだった。

 若者は今、そのセントバーナードの家の縁側にいる。縁側に腰掛けて、婦人から、犬に咬まれた傷の手当てを受けている。
「こんなに、あちこち咬まれて」
 婦人は若者の肘の傷を消毒しながら言った。傍らには、セントバーナードが聳える感じにお座りし、ピンクの舌を出していた。犬の呼吸に荒さはない。極めて静かな控え方である。
「僕は昔、犬を飼おうとしたことがあったんです。犬の中ではセントバーナードが好きだったんです。でも調べてみると、数々の手柄を立てていたりして、自分とはかけ離れている気がしてきて、結局、毛皮の蒐集に傾いていったんですね。
 けれども今、こうしてセントバーナードに、高い山でも、雪の中でもない、都会の路地で救われてみると、また考えなければならなくなりました。やっぱり僕、犬を飼いますよ。セントバーナードを。山羊の毛皮で駄目なら、虎とかバッハローの毛皮なら良いかななどと、さっき犬に追われながら考えていたのとは、ガラリ変身ですね。帰ったら、両親に相談して、きっと、そうなると思います」
 セントバーナードは、若者の思いが通じたらしく、若者を見て嬉しそうに尾を振っていた。
「アーム、お前が気に入ったってさ、セントバーナードを飼ってくださるってさ。よかったね、気に入られて」
 アームは婦人の言葉がわかったのか、座った姿勢のまま、若者に首を伸ばしてきた。若者はアームの頭を撫ぜてやった。座っていても、頭は、縁側に腰掛ける若者より、高い位置にあった。
 アームとの出会いで一番感動的だったのは、アームが若者に飛びかかったりせず、まっすぐ三匹に向かっていったことだった。犬嫌家ではないものの、敬遠して放れた一人の青年ではあったのである。

おわり