波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

居酒屋

2018-11-17 20:10:12 | 超短編


 居酒屋タカギには客が五六人いるだけだった。津山はドアを入ると、空いているカウンターに向かって進んだ。
彼はカウンターの席に腰掛けると、中にいるマダムに、
「何か変わったこと、ある?]
と声をかけた。
「べつにないけど、でもどうして?」
逆にマダムに聴かれた。
「どうってことはないけど、ただなんとなくね」
出されたお絞りを広げながら、彼はすぐ下のテーブルに首を巡らせた。
 二人がけの小さなテーブルの一つの席に、均一な鼠色をした猫がいて、まっすぐ津山を見ていた。その猫を見て、彼は胸騒ぎがした。広げたお絞りを落としそうになった。まさか、と彼は首を傾げる。あの猫ではないだろう。しかしよく似ている。
 津山は何回も首を振り、浮かんだ想像を打ち消しながら、何気なく煙草をくわえて火をつけた。まさしく何気なく、無意識にだった。彼は猫の想像を打ち消そうとしながら、煙草のことを忘れていたのだ。まったく煙草に心が回らなかった。
 ふと下を見ると、さっきの猫が姿を消していたのだ。津山は恐ろしくなった。
「マダム、あの猫はどこに行ったの?」
 津山は居酒屋全体に届くほどの、大きな声を出した。
「あの猫って? そこにいるでしょう」
 マダムは言って、カウンター越しに二人がけのテーブルにに目をやった。猫はいなかった。当然である。津山も猫が消えているから、叫んだのである。
「でも津山さん、あの猫とどんな関わりがあるっていうの。あの猫は四五日前にひょっこり入って来た、のら猫よ」
 マダムは津山の急変が解せないとでも言うように、彼にきっとした目を据えた。「今日は入ってきたときから、津山さん少しおかしかったわよ」
「そんなことはないよ。僕が慌てたのは、ここに来て、少ししてからさ。それが本格的になったのは、今、猫がいなくなっているのを、目にしてからなんだ」
 津山はそこまで言って、その猫とのいきさつを話しはじめた。
 約三週間前、津山はこの街の駅前広場のベンチに腰掛けていた。山崩れの事故があって、電車が大幅に遅れていた。その開通を待って、駅前広場のベンチに腰掛けていた。ベンチが塞がっていたので、ベンチにいた猫をどかせて座っていた。追い出された猫が寄ってきて、津山の膝に乗った。津山は煙草をふかしていた。長らく待たされて、津山は苛々しながら、何本も煙草に火をつけた。煙草を口に咥えていないときは、火のついた煙草を手にして、ぼんやり考え事をしていた。何を考えていたのかは忘れてしまった。膝がむずむずして、猫が動いていた。その猫を、なぜか自分の大事な荷物のように感じて、膝から落ちないように抑えていた。きな臭い匂いがしていたが、それが何のにおいなのか気付かなかった。その辺は日溜まりになっていて、津山もそんな快さに浸っていたのだと思う。そのときとつぜん、膝の上に異変が起こった。
ギャオ!と凄まじい声を発して、猫が逃げ出していったのだった。

 マダムは、猫のいそうな場所を探して回った。どこにも猫はいなかった。
「そんなの過失で、よくあることよ。いちいち気にしないでね」
 とマダムは慰めたが、津山の足は居酒屋から遠ざかった。罪を犯した場所に、足は向くものだなどという記事を読んだこともあるが、津山はとてもそんな思いにはならなかった。
 あの駅前広場でさえ、別な駅前広場のある街へ移りたいくらいであった。居酒屋を離れて一週間して、ママから電話があった。
「あの猫、帰ってきたわよ、さっき。あなたがいないので、機嫌悪いみたい。喉をゴロゴロいわせないもの。だからいらして下さいな」
「ママさんの優しさを思い出したのでしょう。そのママさんの優しさから、僕までそれほど悪くはないと、受け取られたのなら、いいけれど。ママさんの人徳ですよ」
「そうかしら。私なんか田舎に彼を置いて、逃げ出してきた程の悪い女ですからね。とにかく明日にでも、いらしてね。これは猫からじゃなく、私からのお願い。ブランデーだって新しいボトル、まだぜんぜん手をつけていないじゃないの」
「行きますよ、明日。猫に何を持っていったらいいでしょう」
「そうね、あの子は甘いものより、小魚の入った焼き菓子なんかどうかしら。唐辛子入りだって平気よ」
「そうします。ところで、ママさんには何がいいでしょう」
「私、この私に? うれしいわ。そんなこと言っていただいて。私はねえ、あなた。あなたが、いいわ」
 彼女は気忙しく、そう言って、電話を切った。

おわり