JR桜木町駅の海側の出口を出て、桜木町郵便局の横を流れる大岡川を渡る弁天橋と大江橋の中間に、同川を渡る歩道僑があり、これを渡ると右側に、社団法人神奈川県歯科医師会の会館の前に「我国西洋歯科医学発祥の地」「西洋歯科医学勉学の地」碑かあったので、「横浜と医学の歴史 発行横浜市立大学一般教育委員会」によれば次の様な記述があったので、投稿いたします。
わが国において歯科医学がいつの頃から始まったかは未だ解明されていない。日本においては、朝鮮半島や中国大陸との交流が開始され、かの「地典籍」が伝来されるにおよんで仏教と共に医術も渡来した。
仏教の伝来と普及はわが国の医術にも大きな影響を与えた。奈良時代、四天王寺に敬田・悲田・療病・施薬の4院が置かれ、興福寺には悲田施薬の2院が設けられて、医術は朝廷の慈善事業・社会福祉事業の一環として仏教の興隆に相呼応して広まっていった。そして仏教の浸透と共に徐々に一般庶民へと普及していったのである。
日本に於いて医事衛生が制度面から整備されるようになったのは、大宝律令の制定以降のことである。唐に倣ったこの制度は文武天皇の大宝元年(701年)8月に制定され現存する最古の法令であるが、この中で医療についても詳細に規定している。その骨子は医療の国営化で、官医を諸国に派遣して一般の医療に従事させる、とある。更には、宮内省の典薬療が医術を掌り宮内省の内薬司は専ら御薬を司る、との記述や医術には体療科(内科)・創腫科(外科)・少小科(小児科)・耳目口歯科の区分があり医師を以ってこれに当らしめる、ともしている。
医師の教育と普及に関する記述もあり、「医博士は医人中よりその術優良なるものを選抜し、医生は医人の子弟より採用。毎年医生20名を採用し、体療科12名、創腫科3名、少小科3名、耳目口歯科2名として、その修業年限は、体療科7年、創腫科・少小科5年、耳目口歯科4年を専攻」としている。
この制度は、保元平治の乱の頃まで全国レベルで継続して行くが、武家の台頭と共に朝廷の政治的影響力が次第に弱体化していくにつれて衰退し、封建制度の下では近畿地方の一部に僅かに残るのみとなった。その後。耳目口歯科は耳目と口歯の2つに別れ、歯科が歴史上はじめて独立し、口歯科或は口中科として専門医の立場を確立するのである。
西洋歯科医学の発祥は横浜である。それまで漢方医学の一分野としての口中科であった我が国の歯科に近代歯科医学がもたらされたのは、横浜の開港により、外国人歯科医師も来日し在留外国人の治療に当ったことに端を発する。こうした外国人歯科医師に師事した日本人の歯科医師たち先輩諸氏による指導により、多くの日本人近代歯科医師が誕生していったのである。
これとは別に、単身渡米して向うの歯科医学で勉強し、日本に帰って後進の指導に当った高山紀斉らの教育を受けた歯科医師もいて、近代歯科医学の伝来には2つのルートがあった。
外国人歯科医師の来浜は、
1 米国人 ウイリアム・イーストレーキ1860年に診療するも居留外国人が少なく中国に渡る
2 米国人 レスノーで居留地11番地にて18664年開業し、象牙や陶材又は金にて義歯を作製すると宣伝している
3 米国人 ヘンリー・ウィンという歯科医師が1867年開業
4 セント・ジョージ・エリオット1870年から1875年まで横浜で居留外国人専門に治療を続け。この間に、小幡英之助・佐治職の2名を助
手として採用して指導している。
5 エリオットの診療所を引き継ぐ形で5人目の来航者ハラック・パーキンスが1874年来浜し、1881年の秋に日本を去る。
6 フランス人のB・アレキサンドルは1870年に松江藩の医学教師として来日し1872年に横浜で歯科診療所を開いたが、僅かな期間の後東京
築地入船町に居を移している。医師の資格を併せ持っていた彼であったが、日本では歯科に専念し、日本人門下生を数多く指導して1877年
3月2日当地で死亡している。
7 もう1名米国人セオドラ・W・ギュリックは1879年横浜にて暫時開業したがすぐ神戸に移って再度開業するもその後英語教師に転身して
1885年帰米した。
一方、1906年(明治39)に医師法と歯科医師法が制定され、試験もそれぞれ行われるようになるのだが、これに先立って、医科の中での一分野としての歯科なのか、歯科と一線を画するべきなのか、といった一元論、vs二元論が沸きおこった。
当時、一元論の中心人物は佐藤運夫、彼はアメリカに留学して歯科医学を専攻、帰国後1916年(大正5)に東洋歯科医学校を創設し、1922年(大正11)に日本大学と合併して日本大学専門歯科の創設者となった人物である。その後、彼は第二次大戦後の新生日本歯科医師会初代会長も務めた。
対する二元論の中心人物は前出の血脇守之助、高山紀斉より高山歯科医学院を受け継いで1907年(明治40)に東京歯科医学専門学校を創立し、論争当時は大日本歯科医師会の会長職にあった。結局のところ、医科二元論に落ち着いたところで歯科は医科から離れ、ひとり歩きを始めることとなった。
しかし、この論争が数十年を経て再燃することとなった。原因は第二次大戦。日本が太平洋戦争に突入した1941年(昭和16)軍医の不足がその理由であった。
この時の一元論者は東京高等歯科学校(現東京医科歯科大学)初代校長・島峰徹、二元論者は東京歯科医学専門学校二代目校長、奥村鶴吉。大論争の末、歯科における補綴(入歯等)の特殊性から軍部も二元論に傾き、結局のところこの時も二元論に落ち着くのである。以後歯科は医科から独立したまま現在に至っている。とありましたので併せて投稿いたします。
(西洋歯科医学勉学の地の碑)
(我が国西洋歯科医学発祥の地の碑)
(勉学の地の碑についての説明版)
(社団法人神奈川県歯科医師会)
(碑全景)
わが国において歯科医学がいつの頃から始まったかは未だ解明されていない。日本においては、朝鮮半島や中国大陸との交流が開始され、かの「地典籍」が伝来されるにおよんで仏教と共に医術も渡来した。
仏教の伝来と普及はわが国の医術にも大きな影響を与えた。奈良時代、四天王寺に敬田・悲田・療病・施薬の4院が置かれ、興福寺には悲田施薬の2院が設けられて、医術は朝廷の慈善事業・社会福祉事業の一環として仏教の興隆に相呼応して広まっていった。そして仏教の浸透と共に徐々に一般庶民へと普及していったのである。
日本に於いて医事衛生が制度面から整備されるようになったのは、大宝律令の制定以降のことである。唐に倣ったこの制度は文武天皇の大宝元年(701年)8月に制定され現存する最古の法令であるが、この中で医療についても詳細に規定している。その骨子は医療の国営化で、官医を諸国に派遣して一般の医療に従事させる、とある。更には、宮内省の典薬療が医術を掌り宮内省の内薬司は専ら御薬を司る、との記述や医術には体療科(内科)・創腫科(外科)・少小科(小児科)・耳目口歯科の区分があり医師を以ってこれに当らしめる、ともしている。
医師の教育と普及に関する記述もあり、「医博士は医人中よりその術優良なるものを選抜し、医生は医人の子弟より採用。毎年医生20名を採用し、体療科12名、創腫科3名、少小科3名、耳目口歯科2名として、その修業年限は、体療科7年、創腫科・少小科5年、耳目口歯科4年を専攻」としている。
この制度は、保元平治の乱の頃まで全国レベルで継続して行くが、武家の台頭と共に朝廷の政治的影響力が次第に弱体化していくにつれて衰退し、封建制度の下では近畿地方の一部に僅かに残るのみとなった。その後。耳目口歯科は耳目と口歯の2つに別れ、歯科が歴史上はじめて独立し、口歯科或は口中科として専門医の立場を確立するのである。
西洋歯科医学の発祥は横浜である。それまで漢方医学の一分野としての口中科であった我が国の歯科に近代歯科医学がもたらされたのは、横浜の開港により、外国人歯科医師も来日し在留外国人の治療に当ったことに端を発する。こうした外国人歯科医師に師事した日本人の歯科医師たち先輩諸氏による指導により、多くの日本人近代歯科医師が誕生していったのである。
これとは別に、単身渡米して向うの歯科医学で勉強し、日本に帰って後進の指導に当った高山紀斉らの教育を受けた歯科医師もいて、近代歯科医学の伝来には2つのルートがあった。
外国人歯科医師の来浜は、
1 米国人 ウイリアム・イーストレーキ1860年に診療するも居留外国人が少なく中国に渡る
2 米国人 レスノーで居留地11番地にて18664年開業し、象牙や陶材又は金にて義歯を作製すると宣伝している
3 米国人 ヘンリー・ウィンという歯科医師が1867年開業
4 セント・ジョージ・エリオット1870年から1875年まで横浜で居留外国人専門に治療を続け。この間に、小幡英之助・佐治職の2名を助
手として採用して指導している。
5 エリオットの診療所を引き継ぐ形で5人目の来航者ハラック・パーキンスが1874年来浜し、1881年の秋に日本を去る。
6 フランス人のB・アレキサンドルは1870年に松江藩の医学教師として来日し1872年に横浜で歯科診療所を開いたが、僅かな期間の後東京
築地入船町に居を移している。医師の資格を併せ持っていた彼であったが、日本では歯科に専念し、日本人門下生を数多く指導して1877年
3月2日当地で死亡している。
7 もう1名米国人セオドラ・W・ギュリックは1879年横浜にて暫時開業したがすぐ神戸に移って再度開業するもその後英語教師に転身して
1885年帰米した。
一方、1906年(明治39)に医師法と歯科医師法が制定され、試験もそれぞれ行われるようになるのだが、これに先立って、医科の中での一分野としての歯科なのか、歯科と一線を画するべきなのか、といった一元論、vs二元論が沸きおこった。
当時、一元論の中心人物は佐藤運夫、彼はアメリカに留学して歯科医学を専攻、帰国後1916年(大正5)に東洋歯科医学校を創設し、1922年(大正11)に日本大学と合併して日本大学専門歯科の創設者となった人物である。その後、彼は第二次大戦後の新生日本歯科医師会初代会長も務めた。
対する二元論の中心人物は前出の血脇守之助、高山紀斉より高山歯科医学院を受け継いで1907年(明治40)に東京歯科医学専門学校を創立し、論争当時は大日本歯科医師会の会長職にあった。結局のところ、医科二元論に落ち着いたところで歯科は医科から離れ、ひとり歩きを始めることとなった。
しかし、この論争が数十年を経て再燃することとなった。原因は第二次大戦。日本が太平洋戦争に突入した1941年(昭和16)軍医の不足がその理由であった。
この時の一元論者は東京高等歯科学校(現東京医科歯科大学)初代校長・島峰徹、二元論者は東京歯科医学専門学校二代目校長、奥村鶴吉。大論争の末、歯科における補綴(入歯等)の特殊性から軍部も二元論に傾き、結局のところこの時も二元論に落ち着くのである。以後歯科は医科から独立したまま現在に至っている。とありましたので併せて投稿いたします。
(西洋歯科医学勉学の地の碑)
(我が国西洋歯科医学発祥の地の碑)
(勉学の地の碑についての説明版)
(社団法人神奈川県歯科医師会)
(碑全景)