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直木三十五について

2015-06-20 11:22:08 | 日記
 今日は、直木三十五の宅址にある文学碑などを見に行ってきました。場所は、京浜急行富岡駅で下車して改札口出た左側の壁に、直木三十五と富岡と題して、案内版(慶珊寺・長昌寺等)があります。
 冨岡駅を後に、京急のスーパーの前の小路にはいり、国道16号線に出て横浜方面に500mほど歩くと右手に国道375線方面の道路標識がある。ここを右に入り、更に、400m行くと歩道橋がありますが、この手前を右手に曲がるとほどなく慶珊寺があり、この寺の敷地境界に、直木三十五宅址と云う1.3m位の石柱に表示があります。
 この緩やかな坂道を100mほど上って行くと、右手に直木三十五文学碑(「芸術は短く 貧乏は長し」と刻む)がありました。なお,碑文の筆跡は、自身の筆跡から取って刻まれているそうです。
 直木三十五は、この地に昭和7年から8年にかけて住居を新築され同8年に移住されてきて、翌年の2月に永眠されたと「武州金沢文学資料」に記述されていました。
 直木三十五の菩提寺は、この慶珊寺とは反対に歩道橋手前を左に入って行くと芋観音で有名な長昌寺があり、この寺の敷地にお墓が祀られており、毎年2月24日の祥月命日に近い最後の日曜日に「南国忌の会」があり相当数の会員が集い語らうそうでありす。
 さて、直木三十五と云う大衆文学の流行作家は、武州金沢文学資料によれば、本名は植村宗一、明治24年大阪に生まれ、大正11年に植村の植を分割して、「直木」その年の年齢をとって「三十一」と称した。その後三十五歳の時、直木三十五と改め没するまでこの筆名を通した。
 一方,直木三十五全集別巻の発行者「宗野信彦」には、本名植村宗一、父 植村惣、母 静の長男として、大阪市南内安堂寺町(現在の大阪市中央区)に明治24年に生まれとあり、筆名は前述同様に、本名植村の植えを2分して、直木とした。この時の年齢は、31歳なりし故「直木三十一」と称した。
 この名にて書きたるもの、文檀時評一編のみ、翌年、直木三十二。この年月評を二編書く、関東大震災にて、大阪に戻り、プラトン社に入り「苦楽」の編輯(へんしゅう)に当たる。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。三十四を抜、三十五となり、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「総合映画芸術家協会」を組織し、沢田正二郎、市川猿之助等の映画をとり、儲けたり、損をしたりし・・・後、月形龍之助とマキノ智子との恋愛事件に関係し、マキノと袂を分ける。と記述があり、キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文学に専心することになる。
 直木三十五の習癖=無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり、夜半12時頃より、朝8 9時まで書き、読み、午後2 3時頃起床する日多し。
 速筆にて=1時間5枚から10枚を書き得、最速レコード、16枚(「踊子行状記」の最後24は、この速度にて書く)
 酒は嗜(たしな)まず、野菜を好む。煙草は、マイミクスチュアかスリーキャッスルのマグナムに限る。ただし、金がないとバットにても結構。飛行機好きにて、旅客中、最多回数を搭乗し、レコード保持者。
 パノール号ロードスターを自家用自動車として所有する。中古1500円なりし品にて、菊池寛氏と共有の物なり。同氏と文藝春秋社と三者にて使用し、毎月の経費を三分割してそれぞれが持分を支払うことになるも、円タクより安し。と記述がありました。
 趣味=囲碁二段に2 3目 将棋八段に2枚落。カッフェ、待合、旅行、競馬、嫌いなもの無し。資産=自動車半台分。刀剣少々と記述されていた。
(註)として、昭和6年3月平凡社発行の現代大衆文学全集続8巻の巻末に載せたもので、唯一の著者自筆の小自伝である。
 昭和6年であるから、実際の年は40歳で、最も油の乗りきっていた時代、爾後数年、万人周知の驚歎󠄀すべき大活躍を続け、昭和9年2月24日午後11時4分、所謂「優れた剣豪の悲壮な斬死にも似たる直木三十五の死!」と万天下から哀悼されつつ、帝大呉内科13号室で終焉(しゅうえん)をとげる。文学碑にあるとおり、お金には苦労された模様であります。
 次回は、大衆文学についての定義などとともに、直木賞・芥川賞の経緯について投稿することといたします。


(京浜急行富岡駅の直木址碑の案内版)

(国道16号への小路)

国道357号への入口)

(正面舗道橋)


(直木邸址への案内指導標)

(直木邸址への坂道)

(直木三十五の文学碑)

(直木三十五の邸宅見取図)

(自然に委ねられた跡地)

(直木三十五の邸址の入口にある慶珊寺)