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リチャード・ヘンリー・ブラント象

2015-02-14 17:27:00 | 日記
 今日は、横浜公園に行って見ました。この公園は、開港当時の居留地などの火災跡地の再開発として、居留地に住む関係各国との話し合いにより、建物は堅固に造り屋根は瓦、壁はレンガ、石または分厚い石灰を指定し、基本合意となった。
 道路は、歩車道を区別した街路樹のある36mの広幅員をもつ中に、「彼我共用の公園」(彼は「彼ら」我は「我ら」の意味)を造ることで合意し、これらの事業が居留地と日本人町の間に防火帯の役割をもつことであった。
 時代は、明治維新の激動期を迎え、これら事業の完成は明治初年にずれ込むが、何れにしても国の近代都市の先駆けになった。公園の事業実施には、明治3年(1870)である。それから2年余り日本、外国双方により、公園設計の打ち合わせが行われるが難航した。
 日本側は、各国公使あての文書に公園の「造園模様不案内」と書いている。初めての経験と中央の役所も外務、大蔵両省に加え、地元の県庁など関係する機関が多岐にわたり、工事が居留地改造の一連の事業に係る他事業との調整も必要となった。
 この内容は、「横浜市史」第三巻上、「神奈川県史」資料編十五(外務省外交史料館蔵「横浜新埋立地並公園創設1件」)に記述されております。
 イギリスは、リチャード・ヘンリー・ブラント土木技師を推薦し、その内容は、「西洋之公園」「芝生」「築山泉水」を設け草花を植え付け、かつ、公園の周囲には5から6尺(2メイトル)ほどの「駒寄木」を建て、入口の門を4ケ所にする案であった。
 しかし、この案に、アメリカの公使デロングより、異議の申し立てがあった。それは、英国の案に公園の半分を芝生として、クリケットを楽しもうとしている。その遊びは、中央部に円形にとればたりるなどの提案であったが、最終的には、中央に縮小され矩形になった。
 このようにして、「彼我公園」明治9年に開園されたが、初めのうちは、漠然と芝生の広がったった洋式の公園を日本人には、どのように利用したらよいか分からなかった。そもそも日本には、公園がなかったので止むを得ない。公園の運営は外国に人クラブに任され、ほとんど外国人が利用することになっていたようである。中でもイギリスが多くクリケットなどによく使われ、アメリカ人は野球をやっていた。
 このようなことから、「彼我公園」と云うより「彼らの公園」ではないかとも言われた。歴史は繰り返しすではないが、ずっと後になって、敗戦後、米軍によって13年間接収されていた。この公園はやはり「彼らの公園」になっていた。と「ヨコハマ公園物語」に記述してありました。
 さて、「リチャード・ヘンリー・ブラント」の本来の来日の目的は、日本の開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設することであったが、土木技師として、8年間に亘り、電信施設、新橋東京間の鉄道意見書,築港計画、水道計画、横浜居留地測量、日本大通り設計、横浜公園設計及び施工など幅広く近代的な町つくりに大きな足跡をのこしたことからか、横浜公園の一角には、「リチャード・ヘンリー・ブラントの象」とミニ灯台が建立されている。
 この他「岩亀楼の石灯籠」がありましたが、次回に投稿いたします。

(公園の経緯解説その1)

(公園の経緯解説その2)

(公園の経緯解説その3)

(リチャード・ヘンリー・ブラントの象)

(同背後から)

(建設した模擬灯台)

(同模擬灯台)