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雨の三殿台遺跡

2013-06-14 09:55:41 | 日記
今日は、予てから予定していた横浜市の磯子区にある「三殿台(さんとのだい)遺跡」を見に行くことにしていましたが、あいにくの雨をバスから降りて、坂道を暫く歩いて行くと今度は、60段ほどの階段上り更に、坂道を上って行くと三殿台遺跡の正門に辿りついた。
 この「三殿台遺跡」の名称の由来を学芸員の方に尋ねると、旧横浜村次代に、(郡の地名で大字、字名で)「三度台」と云う地名はあったのは確かであると話されておりました。
バンフレットによれば、三殿台遺跡は、標高55メートル程の小高い丘にあり、明治30年代に「屏風ヶ浦岡村貝塚」の名称で紹介されていたが、昭和36年に隣接する岡村小学校の校地拡張予定地となったため、その夏一万平方メートルある丘の全体を発掘調査することになり、学芸員からの説明によれば、考古学者のほか、夏休みと云うこともあり、大勢の大学生の力を借りて、全体を4分割して、調査が行われた模様で、発掘された遺跡の番号や土器などに、アルハベットの小番号を付して整理されたとの説明を受けました。
その結果、縄文時代、弥生時代、古墳時代の三代に亘る約270棟の竪穴住居跡が複雑に重なり合って見つかったとありました。
この丘は、大岡川の流域の原始・古代のムラの様子と当時の生活を知ることができる大変貴重な遺跡あることが判明したとあり、また、この遺跡の一部を学校用地として、大半は史跡として地中に保存されているそうであります。
この三つの時代で、三殿台に始めて人が訪れたのは、4、500年前の縄文時代の中期に狩猟民族として生活を営んでいた形跡があり、その後、3、500年前の縄文時代後期にも大きくはなかったが、ムラが形成されていて、貝塚や獣骨・魚骨などから当時の生活を知る多くの発見があった。
更に、弥生時代の中期、今から2000年前には、稲作や金属器など新しい生活様式を持った人達がこの三殿台にやって来て、この時代の後期に多くの竪穴住居を作り、その規模は当時としては大きく、大岡川流域を中心にしたムラの形跡が、発掘された壷や石器、青銅製の装飾品や炭化米などさまざまな生活品が見つかったとありました。
次代が進み古墳時代初期と後期を中心に営まれました。約1400年前の後期のムラは、薫で焼いた須恵器(すえき)や鉄製品などが出土し、この時期の竪穴住居の形は、四角く、住居の奥の壁側には、粘土で作ったカマドが築かれ、食生活も大きく変わり、甑(こしき)などを組み合わせて米などを蒸してたべるようになったとありました。
発掘調査跡地には、年代毎に、形や大きさが崩れてしまうものは、擬木を縦に並べて表示し、竪穴の住居跡は、萱葺による復元住居や発掘当時のままの常態を大きな建物により、保護して見学が出来るようになっておりました。
一方、出土品は、復元してショーケースに整理して、観察が出来るようになっておりました。
管理事務所に行くと未だ出土した土器をブラシで一つ一つ丁寧に汚れを落とし、乾かし、ジグソーパズルのように、発掘場所等の番号にしたがって、貼り合わせて、復元作業を続いていることに、二度ビックリでありました。
古代人は、今の梅雨期があったとしたら、衣食住を始め、何を考えどの様な振る舞いをしていたのか、現代に生きる我々の幸せをつくづく考えさせられ帰宅しました。

(途中の階段道)

途中の階段道)

(竪穴復元住居)

(竪穴内部)

(発掘形跡の保存のための擬木)

(発掘現状保存建屋)

(建屋の内部発掘当時の現場)

(出土した土器の一部)

(出土した土器の一部)

(神事事に使用したと考えられる石塔)