鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉での執権の立派な業績を語るときは、大抵まず北条時頼、時宗をあげるが、これについては、この二代の執権を助けてその業績をささえ、忠実につとめをつくした青砥左衛門尉藤綱の功績をあげねばならない。
藤綱については多くの逸話があるが、次の挿話は世の人にもよく知られている。
藤綱が、かつて夜、滑川をわたるときのことであるが、誤って十文の銭(ぜに)を川の中に落としてしまった。藤綱は、この十文の銭を探し求め、見付け出すまで五十文もの炬(たい)火(まつ)をつかって、川の中を照らしたずねたとのことである。
此の地は、その藤綱が居住していたところであると言う。
参考
(青砥藤綱)
藤綱の祖は、伊豆の住人大場十郎近郷と言い、この近郷は承久の乱(1221年)の功によって、上総国(千葉県)青砥の荘を給されたので、青砥の姓を名乗るようになったと伝えている。
龍粛氏は青砥藤綱について、次のように述べている。
藤綱は妾腹の生まれで、殊に末子であつたので、所領をもつこともできず、11歳で真言僧の弟子となった。幼少の折から利発であったので、僧として勉学の上にすぐれた才をあらわしたが、如何なる事情があってか21歳の時に還俗して、青砥三郎藤綱と名乗った。その後行印法師というI仏兼学の沙門に教えを受けて、28歳の時、二階堂信濃入道の推挙によって時頼に仕えることとなった。藤綱の器量は政道においても抜群であったので、評定衆(北条執権政治に合議の一員として加わり、政策を議し、行政を担当する役)の末座に列し、後には評定頭にまで進んだ。天下の事大小となく関与する身分となつたが、富あっても驕らず、権威あっても猛きことなく、遊楽を好まず、身のために資財をみだりに消費することをせず、その衣裳は、粗末な直垂,麻や葛で織った大口袴を用いるだけであり、朝夕の食事の菜にも、焼塩や干魚一品のみですませた。出仕のときも白木で塗りのかかっていない鞘の太刀を平然と差していたという。しかし、公けのためには千万の金銀を惜しまず、貧しき者には慈悲を施したので、まことに賢人のほまれ高き武士であったとのことである。
藤綱の逸話については、五十文をついやして、川中に落とした十文の銭を探させたという碑文にある話が最も知られているが、これについては、後の「青砥藤綱旧蹟」の項で述べることとして、ここには太平記に記されているほかの逸話をあげることにする。
ある時、執権の所領のことで、世にときめく執権と公文(荘園の管理にあたる身分の低い役人)との間に訴訟が起きた。理非のすじは明らかに公文にあるのだけれど、時の奉行は、執権をはばかってみな公文を負けとしたが、藤綱は一人権門におそれず、理の当たるところをつぶさに申し立てて執権の負けとした。公文は恩に感じて、銭300貫を、俵につめて藤綱の邸の裏山より邸内に投じて去ったところ、藤綱は非常に怒って、裁きにおいて理非を正すのは天下政道のためであって、なにも公文に心をよせたからではない。このようなものを受ける理はないと言って、はるかに遠い田舎までこれを送り返した。
また、ある時、執権が「政道を正し、世を永く保とうと思ったら、私心なく理に明るい青砥左衛門を重用せよ」との八幡の夢告を受けたので、近国の八ケ所の荘園を与えた。藤綱はその辞令を見て大いに驚き、その理由を執権にたしかめたところ、執権は、夢に八幡の告げのあつたことを答えた。これを聞いた藤綱はとんでもないことと首を振って「では、もし私の首をはねよという夢をごらんなったなら、私に咎(とが)がなくとも夢の告げのままになさいますか。」と辞令を返し、執権の与えようとした所領をすべて辞退した。
ほかの奉行らもこのことを聞いて深く恥じ、藤綱にならって、理にはずれて賄賂をとるようなことをしなかったで、北条氏は八代まで天下をよく保つことができたのである。
右の逸話の中で執権と称して、あえてその名をあげなかったのは、太平記では、時宗、貞時仕えたと記されているのに、碑文では時頼、時宗に仕えたとあって、執権の名にくいちがいがあるからである。藤綱のことを記した説話としては、現在太平記が最も古いとされているが、その中に「時宗、貞時に仕えて」とあるにもかかわらず、そのあとにまとめられたものである。「大日本史」「弘長記」などはいずれも時頼としているので、説話の内容を重んずることを第一として、執権の名は明記することをひかえた次第である。
「青砥藤綱は実在した人か」
青砥藤綱の存在は古くから疑問とする人があった。藤綱のことを記している太平記が、明治以来史実としての信憑性に乏しいと言われて来たことが、一方鎌倉幕府の記録である吾妻鏡に藤綱の名がなく、評定衆の名を記した「関東評定伝」にも記載がないということと相まって、その存在否定の傾きはかなり強かった。
しかし、現在太平記の評価が見なおされ吾妻鏡に欠落の多いこと、「関東評定伝」が弘安七年までの記録であるだけに、そのあとで評定衆になっていれば、藤綱の名は乗ってなくても当然という実在可能の論拠も抬頭し、藤綱実在についての論議実在についての論議は依然として結論が出ていない。
藤綱という人物存在の有無についての論争もさることながら、この藤綱の事蹟としてあげられたその内容には、当時の人々の政治のあり方を知る上に、貴重な資料となることがあるのは、だれしもうなずくところである。
為政者に廉直を求め、至公至平を善政の根本と断ずる政治思想は、まさしく鎌倉幕府の政治を貫く心柱であったことが推察できるであろう。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。
(滑川に架かる青砥橋)
(青砥藤綱邸旧蹟の碑)
鎌倉での執権の立派な業績を語るときは、大抵まず北条時頼、時宗をあげるが、これについては、この二代の執権を助けてその業績をささえ、忠実につとめをつくした青砥左衛門尉藤綱の功績をあげねばならない。
藤綱については多くの逸話があるが、次の挿話は世の人にもよく知られている。
藤綱が、かつて夜、滑川をわたるときのことであるが、誤って十文の銭(ぜに)を川の中に落としてしまった。藤綱は、この十文の銭を探し求め、見付け出すまで五十文もの炬(たい)火(まつ)をつかって、川の中を照らしたずねたとのことである。
此の地は、その藤綱が居住していたところであると言う。
参考
(青砥藤綱)
藤綱の祖は、伊豆の住人大場十郎近郷と言い、この近郷は承久の乱(1221年)の功によって、上総国(千葉県)青砥の荘を給されたので、青砥の姓を名乗るようになったと伝えている。
龍粛氏は青砥藤綱について、次のように述べている。
藤綱は妾腹の生まれで、殊に末子であつたので、所領をもつこともできず、11歳で真言僧の弟子となった。幼少の折から利発であったので、僧として勉学の上にすぐれた才をあらわしたが、如何なる事情があってか21歳の時に還俗して、青砥三郎藤綱と名乗った。その後行印法師というI仏兼学の沙門に教えを受けて、28歳の時、二階堂信濃入道の推挙によって時頼に仕えることとなった。藤綱の器量は政道においても抜群であったので、評定衆(北条執権政治に合議の一員として加わり、政策を議し、行政を担当する役)の末座に列し、後には評定頭にまで進んだ。天下の事大小となく関与する身分となつたが、富あっても驕らず、権威あっても猛きことなく、遊楽を好まず、身のために資財をみだりに消費することをせず、その衣裳は、粗末な直垂,麻や葛で織った大口袴を用いるだけであり、朝夕の食事の菜にも、焼塩や干魚一品のみですませた。出仕のときも白木で塗りのかかっていない鞘の太刀を平然と差していたという。しかし、公けのためには千万の金銀を惜しまず、貧しき者には慈悲を施したので、まことに賢人のほまれ高き武士であったとのことである。
藤綱の逸話については、五十文をついやして、川中に落とした十文の銭を探させたという碑文にある話が最も知られているが、これについては、後の「青砥藤綱旧蹟」の項で述べることとして、ここには太平記に記されているほかの逸話をあげることにする。
ある時、執権の所領のことで、世にときめく執権と公文(荘園の管理にあたる身分の低い役人)との間に訴訟が起きた。理非のすじは明らかに公文にあるのだけれど、時の奉行は、執権をはばかってみな公文を負けとしたが、藤綱は一人権門におそれず、理の当たるところをつぶさに申し立てて執権の負けとした。公文は恩に感じて、銭300貫を、俵につめて藤綱の邸の裏山より邸内に投じて去ったところ、藤綱は非常に怒って、裁きにおいて理非を正すのは天下政道のためであって、なにも公文に心をよせたからではない。このようなものを受ける理はないと言って、はるかに遠い田舎までこれを送り返した。
また、ある時、執権が「政道を正し、世を永く保とうと思ったら、私心なく理に明るい青砥左衛門を重用せよ」との八幡の夢告を受けたので、近国の八ケ所の荘園を与えた。藤綱はその辞令を見て大いに驚き、その理由を執権にたしかめたところ、執権は、夢に八幡の告げのあつたことを答えた。これを聞いた藤綱はとんでもないことと首を振って「では、もし私の首をはねよという夢をごらんなったなら、私に咎(とが)がなくとも夢の告げのままになさいますか。」と辞令を返し、執権の与えようとした所領をすべて辞退した。
ほかの奉行らもこのことを聞いて深く恥じ、藤綱にならって、理にはずれて賄賂をとるようなことをしなかったで、北条氏は八代まで天下をよく保つことができたのである。
右の逸話の中で執権と称して、あえてその名をあげなかったのは、太平記では、時宗、貞時仕えたと記されているのに、碑文では時頼、時宗に仕えたとあって、執権の名にくいちがいがあるからである。藤綱のことを記した説話としては、現在太平記が最も古いとされているが、その中に「時宗、貞時に仕えて」とあるにもかかわらず、そのあとにまとめられたものである。「大日本史」「弘長記」などはいずれも時頼としているので、説話の内容を重んずることを第一として、執権の名は明記することをひかえた次第である。
「青砥藤綱は実在した人か」
青砥藤綱の存在は古くから疑問とする人があった。藤綱のことを記している太平記が、明治以来史実としての信憑性に乏しいと言われて来たことが、一方鎌倉幕府の記録である吾妻鏡に藤綱の名がなく、評定衆の名を記した「関東評定伝」にも記載がないということと相まって、その存在否定の傾きはかなり強かった。
しかし、現在太平記の評価が見なおされ吾妻鏡に欠落の多いこと、「関東評定伝」が弘安七年までの記録であるだけに、そのあとで評定衆になっていれば、藤綱の名は乗ってなくても当然という実在可能の論拠も抬頭し、藤綱実在についての論議実在についての論議は依然として結論が出ていない。
藤綱という人物存在の有無についての論争もさることながら、この藤綱の事蹟としてあげられたその内容には、当時の人々の政治のあり方を知る上に、貴重な資料となることがあるのは、だれしもうなずくところである。
為政者に廉直を求め、至公至平を善政の根本と断ずる政治思想は、まさしく鎌倉幕府の政治を貫く心柱であったことが推察できるであろう。などと言う記述がありましたので、投稿いたします。
(滑川に架かる青砥橋)
(青砥藤綱邸旧蹟の碑)