「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
上杉朝宗は、足利氏満、満兼に仕え、出家して入道となり、禅助と号した。人々は朝宗に対して犬懸(いぬかけ)の管領と呼んだ。
朝宗の子の氏憲は、あとをついで足利持氏の執事となり、入道して禅秀と号した。しかし後に持氏と不和になり、応永二十三年(1416年)氏憲は持氏の叔父の満隆等と相はかって、満仲をおし立てて兵を起こしたのであるが、戦いにやぶれ、氏憲は、翌年の正月、一族と共に雪ノ下の鶴岡別当坊で自殺して果てた。
ここは右上杉朝宗と、その子氏憲(禅秀)との邸宅のあった地である。
参考
「上杉朝宗」
室町時代の武将(1339年~1414年)で、鎌倉御所の足利氏満・満兼の二代に仕え、執事として補佐の任をつくした。
満兼が死んでからは、その埋葬の日より家にもどることなく、上総国長柄山胎蔵寺に隠棲して、ついにその地で歿したという。
禅助とは、朝宗が出家して後の号である。
上杉氏は、鎌倉にて居館の所在地によって、扇谷、詫間、犬懸、山内の四家にわかれ住んでいて、朝宗は犬懸氏を名乗り、此の地に居をかまえていた。
「上杉氏憲」
上杉朝宗の子で、入道して後は、禅秀日山と号した。
鎌倉にあった足利氏は、鎌倉御所、足利公方と呼ばれ、その執事職は関東管領と呼ばれるようになり、扇谷、詫間、犬懸,山内の四家が交互につとめるようになった。
応永二十二年(1415年)2月氏憲は執事職を継いだが、時の鎌倉御所足利持氏は、同年5月執事職を山内上杉憲基に譲るよう画策したことから、持氏と氏憲との不和が表面化し、氏憲には持氏に不満を抱く足利義嗣(将軍義持の弟)や、持氏の叔父の満隆も味方し、持氏の弟持仲を押したてて翌二十三年(1416年)8月鎌倉御所に対して謀反を起こした。京都にあった室町幕府は、東国の諸将に足利持氏救援を命じたため、氏憲方は敗れ、二十四年(1417年)正月10日、氏憲、満隆、持仲らは鎌倉雪ノ下で自刃した。世に上杉禅秀の乱というのがこれである。などという記述がありましたので投稿いたします。
(上杉朝宗及氏憲邸阯の碑)
(田楽辻子のみち由来の標柱)
上杉朝宗は、足利氏満、満兼に仕え、出家して入道となり、禅助と号した。人々は朝宗に対して犬懸(いぬかけ)の管領と呼んだ。
朝宗の子の氏憲は、あとをついで足利持氏の執事となり、入道して禅秀と号した。しかし後に持氏と不和になり、応永二十三年(1416年)氏憲は持氏の叔父の満隆等と相はかって、満仲をおし立てて兵を起こしたのであるが、戦いにやぶれ、氏憲は、翌年の正月、一族と共に雪ノ下の鶴岡別当坊で自殺して果てた。
ここは右上杉朝宗と、その子氏憲(禅秀)との邸宅のあった地である。
参考
「上杉朝宗」
室町時代の武将(1339年~1414年)で、鎌倉御所の足利氏満・満兼の二代に仕え、執事として補佐の任をつくした。
満兼が死んでからは、その埋葬の日より家にもどることなく、上総国長柄山胎蔵寺に隠棲して、ついにその地で歿したという。
禅助とは、朝宗が出家して後の号である。
上杉氏は、鎌倉にて居館の所在地によって、扇谷、詫間、犬懸、山内の四家にわかれ住んでいて、朝宗は犬懸氏を名乗り、此の地に居をかまえていた。
「上杉氏憲」
上杉朝宗の子で、入道して後は、禅秀日山と号した。
鎌倉にあった足利氏は、鎌倉御所、足利公方と呼ばれ、その執事職は関東管領と呼ばれるようになり、扇谷、詫間、犬懸,山内の四家が交互につとめるようになった。
応永二十二年(1415年)2月氏憲は執事職を継いだが、時の鎌倉御所足利持氏は、同年5月執事職を山内上杉憲基に譲るよう画策したことから、持氏と氏憲との不和が表面化し、氏憲には持氏に不満を抱く足利義嗣(将軍義持の弟)や、持氏の叔父の満隆も味方し、持氏の弟持仲を押したてて翌二十三年(1416年)8月鎌倉御所に対して謀反を起こした。京都にあった室町幕府は、東国の諸将に足利持氏救援を命じたため、氏憲方は敗れ、二十四年(1417年)正月10日、氏憲、満隆、持仲らは鎌倉雪ノ下で自刃した。世に上杉禅秀の乱というのがこれである。などという記述がありましたので投稿いたします。
(上杉朝宗及氏憲邸阯の碑)
(田楽辻子のみち由来の標柱)